※妄想小説
※マスタング大佐とモブ
※女性に対して暴力を振るう表現があります
※約束の日から5年後
ロイ・マスタングは大きな欠伸をした。古びた執務机に朝から堆く積まれた書類にはまだ手を付けていない。いい陽気だな、と思って窓から覗く広い青空を見た。
開け放たれた窓からは麗らかな陽射しが入って爽やかな風が吹き込んでいる。
「仕事、今日くらいはいいんじゃないか」
仕事熱心で優秀な副官に睨まれるのを分かっていてそう言ったのだが、副官は静かに「でしたら私にも休暇をいただけますか」と答えた。
マスタングは、おや、と眉を動かした。
「どこかへ行くのかね?」
上官に向き直った彼の副官は毅然とした態度で気を付けの姿勢を取った。
「申し上げたくありません」
マスタングは副官の回答に、呆気に取られてしまった。生真面目な部下だと分かってはいたが、こんなことを言われたのは初めてだ。男女の仲では無いとはいえ、互いに知りたくないことまでなんでも知っているし、隠し事をする時間もなかったからだ。
『アレ』から5年が経ち、復興やら治安維持やらで忙しくはあるが、今では規則どおり以上の休暇を取得できている。
それに加えて大佐から大将に昇進したマスタングは、却って仕事が減っていた。
マスタングに暇が増えるということは、その副官の暇も増えるということだ。
プライベートの時間が増えた。
ついに俺に隠し事か?
マスタングは詰まらないような面白いような気持ちで副官を見た。
「ああ、話さなくていい。今のはただの世間話だ」
笑ってそう言ってやると、副官は目線だけ下げてから自分の仕事に戻った。
「本当に、休暇を取るか?」
「大将はどうされるんですか」
「急ぎの仕事も無いことだし、こんな良い日だ。警らがてら街を歩くのも悪くないな。君も休暇を取るなら、まとめて休暇届を出しておくが」
「お願い致します」
そう言うが早いか副官は身支度を始めた。
どうやら本当に自分の預かり知らぬところで何かしているらしい。
「私はこれにサインしてから帰るから、中尉は先に上がっていいよ」
「恐れ入ります」
副官はさっさと荷物をまとめて、一礼したら、直ぐに帰ってしまった。
「男でもできたか?」
その独り言は誰の耳にも届かなかった。
さて、仕事するかな。そう思って手に取ろうとした万年筆のキャップが、コン、と床に落ちてしまった。インクが漏れていたらしく、それで指が滑ったのだ。
仕事のし過ぎかね、と揶揄しても、諌める者は居ない。
マスタングは詰まらなそうな顔で机の下に転がった万年筆のキャップを探った。
何処だ?
確か音は、こっちの方に……。
見えるところに無いので、身を屈めた、その時。マスタングは、自分の許可を得ずに部屋に入った者が居たことに気付いた。
誰だ?
コソ泥か?
いや、こんな時間に堂々と?
侵入者の足音はどんどん近付いて来る。副官が部屋から出て行くのを見て、この部屋が留守になったと思ったにしても、これでは見付かった時に言い訳もできないだろう。
それは、どういうことだ。
言い訳が必要無い者?
例えば、誰だ?
例えば、アームストロング中将の手の者とか?
そう考えて、マスタングは、ふっと笑った。余りに平和な考えだからだ。命を奪われると思っていない、ちょっとした嫌がらせか何かだと決め付けている自分が情けなくも嬉しくも思えたからだ。
それは恐らく、相手にも言えることだ。
簡単に敵地に乗り込むとは。
知らぬでは通らない。
私の領土に浸入するとはどういうことか、思い知らせてやらねばなるまい。
お仕置きだ。
マスタングはこの日一番楽しそうな顔で笑った。
【苦い契機(前編)】
机の発火布を手にして、背中を見せる侵入者の背後を取り、足を掛けて押し倒して上に乗り、側頭部に手を置いて床に叩き付け、細い腕を足で抑え付けて、自害させないよう万年筆を口に差し入れたうえで、耳元で「お前は誰だ」と囁いた。
侵入者を組み伏せるのは簡単だった。
その余りの弱さにアームストロング中将の部下ではないと分かって、マスタングは少し喜んだ。冗談抜きの敵かもしれない。
しかしながら、これは弱い振りなのか?
腰が細い、力が無い。
何か隠し種があるとか?
錬金術師か?
しかしこの制服は確かに正式なうちの軍服だ。偽物とは思えない。軍にいる錬金術師はだいたい知っている。
新兵か?
いや、まだ新兵にもなっていない訓練兵か?
声を上げなかったことぐらいは褒めてやろうと思ったが、侵入者は叫び声を上げる余裕さえなかっただけだったとマスタングは後から気付いた。
「君は新兵かね?」
侵入者は何度も頷いた。
「誰に唆されたか知らないが、選りに選って私の執務室に入って来るとは度胸があるな。私の焔を見たことがあるのだろう?」
マスタングは侵入者の目の前で発火布の手袋を嵌めた指先を擦り合わせた。
「私は首謀者が誰かなどには興味が無い。君がなんと言うおと耳を貸さない。ただ焼くだけだ。苦しいと叫びたくても喉が焼けて声を出せない苦しみを、味わわせてやろう」
マスタングの膝の下で、侵入者が震えている。
本当に弱いだけか?
ビックリショーは無しなのか?
マスタングは「さようなら」と言ってから、パチン、と指を鳴らして発火布から火花を散らした。しかし焔は出ていない。錬成しなかったからだ。一見気弱そうな侵入者に、最後にもう一押し鎌をかけただけだ。
それでも全く微動だにしない侵入者の様子を見ようと、マスタングは侵入者の顔を覗き込んだ。
息を飲んだ。
言葉を失くした。
侵入者が泣いていたからだ。
そして失禁していることにも気付いてしまった。
おいおい、勘弁してくれよ、と内心で思った。侵入者を撃退した積もりが、これでは自分が新兵を虐待していることになっている。副官に見られでもしたらなんと言われるか。
マスタングは新兵の口から万年筆を抜いて、体を退かせた。
「名前を言いなさい」
それでも新兵は何も話さない。
「上官は誰だね?」
新兵は動揺したのか何やら声を発したが、それが何かマスタングには判然としなかった。
「腰が抜けたか」
マスタングは立ち上がろうとする、というより逃げ去ろうとする新兵に手を貸そうとしたが、当然それを拒否された。失禁したのを恥じているらしく顔が真っ赤だしマスタングを見ようともしない。
軍人たる者、とマスタングは思った。
敵に背を向けるな。
狼狽えるな。
戦意を失うな。
諦めず毅然として最期まで戦うべきだ。
例え失禁しようとも。
例え戦火に死のうとも。
マスタングは酷く情けない気持ちで新兵を見て、それからその情けない後姿がどうしようもなく愛しく感じた。守るべきものだと思えたからだ。
何故私は沢山の命をこの手に掛けたのか。
何故これからも、何人でもまだ殺す覚悟があるのか。
理由はきっと『コレ』だ。
マスタングは冷静になって新兵を見た。その冷静さが余計に恐怖を煽っていることにまでは気付いていない。
さて、どうしたものか。
焔で乾かしてやるか?
それも面白そうだ。
相手が鋼のかハーボックならば実際に荒っぽく焔で彼らの股座を乾かしてやっていただろうが、流石に今の状況で、冗談でもそんなことはできない。
「着替えを持って来るから、そこで待っていたまえ」
マスタングはそう言ったが、侵入者が失踪しても追う積もりはなかった。弱い者をいじめるような、そんな情けないことはできない。
飛び込んで来る弱者を痛め付けるのは楽しいが、弱者を追い回すのは趣味ではない。人には理解されないが、マスタングにはそういうポリシーがある。
やれやれ、仕方あるまい。
バケツに湯を入れて、タオルと雑巾を用意して、ロッカーにある軍服の替えを持った。
「何やってんスか?」
部下に声を掛けられても、「ちょっと」と言って立ち去るしかない。
武闘派で肉体労働もお手の物とは言え、今のマスタングは側から見れば雑用らしきことをしているようにしか見えない。ちょっと異様である。
何をやっているのだろうね、私は。
マスタングは溜め息をついて執務室に戻った。
「や、これは」
侵入者は正座していた。
軍服の上を脱いで、それで床を拭いたらしいことも分かった。
「申し訳ありませんでした。許してください」
侵入者は顔を真っ赤にして低く頭を垂れたままか細い声でそう言った。
マスタングは耳にした侵入者の言葉に、彼女が女性であることに初めて気が付いた。道理で力が無い訳だ。
これは。
本当に参ったな。
「これは着替えだ。男物だがね。湯とタオルもある」
マスタングは新兵に気を遣って着替えを少し遠くから放った。バケツとタオルはその場に置いて椅子に腰掛けて、くるりと壁の方に体を向けた。
「それで、名前ぐらいは言う気になったかね?」
マスタングが尋ねても新兵は何も話さない。
「まさか、私に尋問されたい訳でもあるまい?」
マスタングが振り返っても新兵はまだ着替えに手を付けていなかった。遠慮して当然だが、新兵は部屋を立ち去ろうとする様子も見せない。
マスタングは立ち上がって彼女を真っ直ぐ見下ろした。
「着替えないのかね?」
やはり何も答えない。
「私が手を貸そうか?」
そう言って新兵に近付くと、彼女は面白いぐらいに動揺した。
「いけません!」
「はい?」
「汚れます…」
は?
新兵は顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに顔を俯かせた。
マスタングは言い返す言葉もなく、かつてはよくあったことを思い返していた。
若い頃はよくあった。頭脳明晰でいつも冷静でよく体が鍛えられていて常人離れして強い焔の錬金術師であり女性には優しく凛々しい顔付きだった若い頃のマスタングにはよくあったことだ。老いも若きもマスタングを見て頬を染めた。
もしかして。
いや、まさか。
「だったら自分の手で着替えたまえ。でなければ本当に私がやるぞ」
新兵は逡巡してから「はい」と答えた。
マスタングが新兵に背を向けると間も無くタオルを湯で濡らす音と衣擦れの音が聞こえた。漸く着替える気になったらしい。息を吐いてマスタングは発火布の手袋を机に置いた。
「それで、君は、まだ名前を言う積もりがないのかね」
「……ミシェル・パトリシアと申します。ランドール大佐の隊に属しています」
ランドール大佐の?
今のところマスタングは彼と友好的な関係である。
「ミシェル、いい名前じゃないか。それで、なんで私の執務室に入って来た?」
ミシェルは「間違えました」と消え入りそうな声で答えた。
「は?」
『間違えた』?
それは右に行こうとしていたけど誤って左に行ってしまうようなことを言っているのか?
「まさか、マスタング大将の執務室だとは思わず…本当に申し訳ありませんでした」
「どこと間違えた?」
「ペニントン少将の執務室です」
マスタングは顎に手を当ててペニントン少将の執務室の場所を思い返してみた。彼の執務室はこの建物の左右全く逆の位置にあり、しかも一つ下の階層だ。
『間違える』などということがあり得るか?
「少将に呼ばれていたのか?」
「はい」
「大遅刻じゃないか」
「はい」
「君は、自分で、何故間違えたと思う?」
ミシェルは目を左右に揺らした。そして何かを言おうとして口を開いたが、直ぐにまた閉ざした。
「ミシェル」
マスタングは優しく声を掛けた。
「命令せずとも、進んで話してくれると有り難いのだがね」
ミシェルは泣きたくなった。
その表情は、余りに優しくて、その声は、余りに近くて、その仕草は、余りに悠然として、余りに熱くて、余りに、憧れが強くて、夢にまで見た、好きで、好きで、触れるのも怖いくらいの、人だから。ミシェルは泣きたくなった。
「申し上げたくありません」
ミシェルはマスタングを見ずにそう言った。
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