パズは走った。もっと早く起きる筈だったのに、昨日の出来事のせいか疲れから寝坊をしてしまった。夜明けが近い。シャンティはまだ居るだろうか。
やがて初めてシャンティと出会った場所に辿り着く。すると、前方にふたつの影が見えた。
(ハモンさんだ……)
ハモンが立っているその足元にシャンティが居た。
(花を……植えているんだ……)
シャンティは花を植えていた。ひたすら穴を掘り、花を植える。今のパズには、それが無駄な行為には見えない。
花を植えて、すぐに枯れてまた植えて……何年も何年も繰り返したら、きっといつかは根付く――。
ハモンの声が聞こえる。彼はシャンティに懇願しているようであった。
「なあ、シャンティ。頼むから戻ってきてくれ。ミリアム様もそれを望んでいらっしゃる。ご嫡男のサタスウェイ様は……“癒やし人”なんだ。まだお小さいからそうでもないが、その内……疲弊される……お前の力が必要だ。助けて差し上げてくれ」
それは必死の懇願であった。パズはふと思う。
(ミリアム様って……たしか今の総督閣下の名前……?そのお子様が“癒やし人”って事?)
パズは昨日、シャンティが彼とバーバラに言った事を思い出した。
シャンティはバーバラを見ながらパズにこう言ったのだ。
『このお嬢さんは“癒やし人”だ。“癒やし人”は人々を癒やす度に、自分は疲弊していくんだ。パズ、お前が側にいて支えてやれよ。お前には素質がある。きっと力になる』
その意味するところは分からなかったが、シャンティは“癒やし人”である女神様の側にずっと付いていたという。“癒やし人”を支え続けたシャンティと同じ力が自分にあるのなら、その力でバーバラを支えてあげたい。
シャンティが花を植え終えたのか、袋を集めて道具を仕舞い始めた。そんなシャンティに向かってハモンは続ける。
「お前のその姿を見たら、ソニア様は悲しむぞ。いつまで囚われているんだ。そんな事は望まれていない。きっと悲しむ」
「悲しみゃしねぇよ」
シャンティがきっぱりと答えた。力強い声であった。揺るぎない信念を秘めた声。
「約束なんだ。ここを花で覆い尽くす。外側から惑星(ほし)に力を注ぐ。それが内側から生まれ変わろうとしている力を助けるんだって……」
花を植えよう、シャンティ一一。
「まだ帰らねぇよ。この辺境にはソニアがし残したことが沢山ある。パズみてぇな子供がわんさかいるんだ。お前達は中央で政治体制を整えてくれ。おいらは辺境で救える命を救う。喩え微々たるものでも、救うんだ。それがおいらに出来る唯一の事だ。ソニアの為に……」
ハモンは深い溜め息をついた。おそらく何度もついたであろう溜め息。これは何度目の説得になるのか。その度に返ってくる断固たる拒否。
ふとハモンの目が、シャンティの右手首に留まる。灰色の服を身に付けた彼の手首に結ばれた翠色の布。引き裂かれた服の切れ端であろうその布が、シャンティの唯ひとつの拠り所であり、呪縛でもあるのだ。
ハモンの脳裏に浮かぶ翠色の影は、今でも優しい微笑みを称えている。赤い縁取りに囲まれたその笑顔を思い出す度に、胸を刺す鋭い痛み。
シャンティの感じている痛みは、この比ではない筈だ。あの時、亀裂の縁で聞いた胸を裂かれるような慟哭は、今もこの耳にまとわりついて離れない。
その時、ハモンはこちらを見ているパズの姿に気付いた。
真っ直ぐにこちらを見据える瞳。
(まるで……初めて会った時のシャンティのようだな)
この少年と同じ年頃だったシャンティと、初めて会った時の事を思い出す。まるで鋭い切っ先を常に向けてくるような少年。5歳の時に人間である母親をこの荒野で亡くした――その傷はいかに深いものだったろうか。それを癒したのがあの方だった。
シャンティの笑顔の源は、今も彼を支えている。ハモンは時々、シャンティの側に幻影をみるのだ。
ハモンが愛した微笑みは、今もシャンティの側にいる。
パズは黙って去っていくハモンの背中を見つめた。パズを見て懐かしそうに微笑んだ彼は、パズの中に何を見い出したのだろうか。
「よお、パズ!」
シャンティが手を上げてパズを手招いた。パズは彼の側に駆け寄る。シャンティの足元には沢山の花が並んでいた。
「どうだ、綺麗だろう?花は小振りだが、群生したら見事だぞ」
そう嬉しそうに言うシャンティにパズは呟く。
「2、3時間後には枯れるね……でも!」
パズはシャンティの目を覗き込んだ。平凡な灰色の瞳。でも今までにこんな優しさを称えた瞳を見た事がない。きっと女神様も同じ瞳をしていたに違いない。
「枯れたらまた植えて……繰り返し繰り返し植えたら……きっと根付くよね」
それを聞いたシャンティが、パズの頭を引き寄せて抱き締めた。シャンティの胸は暖かかった。遠い昔、面影さえも覚えていない父親も、こんな風に暖かい胸をしていたのだろうか――。
「ありがとうな。正直おいらもめげる時がある。枯れていく花に申し訳ないと思うんだ」
シャンティはパズの髪を撫でた。それがパズには心地よかった。このままずっとこの胸の中で微睡(まどろ)んでいたい。叶わない事だけど――。
シャンティとは生きる時間の流れが違うのだ。
《ヴァシュアのダンピール》
周りの人々が死んでいく中、生き続けなくてはならない存在。
(俺は確実にシャンティより先に死ぬ)
この底抜けに優しい微笑みで人々を魅了しながら、親しい者の死を見送る。
何人も――。
何人も――。
何回も――。
何回も――。
それでも彼は笑う事を止めない。そんな彼に笑顔を与えたのが、女神様なのだろう。
(祈ろう、女神様に……。祈りは無駄じゃない)
シャンティがパズを離して立ち上がる。次第に明るくなっていく空を見上げて4、5歩歩いて行き、振り返ってこちらを見た。
「花と少年――いい構図だ。アルフレッドならいい絵を描いただろうな」
そう楽しそうに笑うシャンティを見ながら、パズは思う。
(アルフレッドというのも見送った人なのかな?俺の事も、こんな風に楽しそうに思い出してくれたらいいな)
シャンティは少し猫背気味の体を手すりに預けた。暗い空間が徐々に明るい光に満ちてくる。
その時――。
(あ……)
パズは思わず立ち上がった。そしてシャンティを見つめる。その目が驚きに見開かれていた。
シャンティの隣に人影が浮かび上がってきたのだ。それは次第にはっきりとした形になっていく。
(ええっ!そ、そんな……)
パズは自分の目が信じられなかった。シャンティの隣に――赤い髪の女性が立っている!
翠色のドレスに身を包んだしなやかな体――。あの、翠色はシャンティの手首に結ばれている布と同じ色だ。それに――ここからでもはっきりと分かる澄んだ緑色の瞳は、シャンティと同じような優しさに満ち溢れていた。緩やかな曲線を描く真っ赤な髪は、流れるように背中を覆っていた。これが――。
“癒やし人”ソニア――。
人々が女神と崇める女(ひと)は、パズを見てにっこりと微笑んだ。
(幻……幻なの?でも……たしかに見える……でも……シャンティには……)
シャンティには見えていない――。
誰よりも会いたい女(ひと)が隣に立っているのに、シャンティは気付かない。
「シャンティ……あのさぁ……」
「ん?何だぁ」
シャンティがパズの方を見る。すぐ真横に会いたい女(ひと)がいるのに……!
「横に……」
女神様が……。
パズがそう言いかけた時、赤い髪のその女(ひと)がパズを見て、人差し指を立てて唇に当てた。
(シィ……)
(えっ……)
黙っていろと?黙っていろというの?
会いたいのに。誰よりも会いたいのに。
その女(ひと)は笑っている。穏やかに笑っている。シャンティに寄り添って幸せそうに笑っている。
(ああ、そうか……)
いつか会えるその日まで――。
シャンティが自分で気付くその日まで――。
女神様はそれを待っているんだ――。
「どうしたんだ?変なものでも見たような顔をして……」
シャンティがそう言って笑う。女神様も笑う。
同じ笑顔――。
パズは流れそうになる涙をこらえた。シャンティに寄り添う女神様の体が、明るくなるに従って次第に薄くなっていく。その姿が完全に見えなくなった時、パズはシャンティに向かって叫んだ。
「シャンティ!俺さ、学校に行くよ!でさ……植物学者になるんだ!この荒れた土地や気候にも耐える花を、必ず育てる!貧乏だけど、働いて働いて……勉強して、きっと学校に行くから……」
昨日の夜、バーバラが言っていた。花の研究をするなら植物学者になればいい。
こらえていた涙が零れる。次から次から溢れては流れる。
お前も頑張れよう。諦めなければ願いは叶うんだ。生きてりゃ何とかなるもんだ――。
「いつか……ここで花が咲いているのを見たら……俺を思い出して!時間はかかるし、俺、途中で死んじゃうかもしれないけど……必ず咲かせるから……」
その時にきっと、シャンティは会いたい女(ひと)に会える筈だ。その為にきっと花を咲かせる。
シャンティが笑う。女神様と同じ様に笑う。
そうしてずっと笑いながら――。
空色のけものは、巡礼の地で花を植え続けるのだ――。
空色のけもの〜『巡礼の地で花を植える』
―完―