(第110話)
静かな時間が流れる。月の光は、ふたりの心を穏やかにした。
やがてジェルミナが、静寂を破る。
「ねぇ、ソニア……」
「ん?」
ジェルミナの問いかけに、ソニアが首を傾げて応える。
「さっきの歌……全部聴かせて欲しいな」
「私が?」
ソニアは困ったように笑う。ジェルミナが、そんなソニアの手を取って、その甲にくちづけた。
「僕の歌姫の歌が聴きたい……」
ソニアは静かに微笑んだ。優しい笑み一一。
(ここにいるのは、僕だけの歌姫……)
ソニアが息を吸った。そして吐息と共に、歌声が放たれる。
あなたと巡り会えた奇跡を一一
この月明かりに感謝しよう一一
うつらうつらとしていたハモンの頭に、突然歌声が響いた。驚いて飛び起きる。
「何だ……これは、奥方様の声?」
そう呟いて傍らを見ると、レステラが背中を向けて座っていた。その背中が、微かに震えている。
「レステラ?」
レステラは泣いていた。嗚咽を堪えながら、手の平で顔を覆って、泣いている。
ハモンは後ろから、そっと震える体を抱き締めた。
「……知ってる……」
レステラの呟きを、ハモンの耳が捉える。
「何?」
「私……この歌知ってる……」
好きな人とキスしよう一一
「辺境の……娼婦達が歌ってるの……キスは愛する人とだけ……」
レステラの口から、嗚咽が漏れる。ハモンは思い出した。
唇は処女なのよ一一。
レステラはそう言って、絶対に唇を許してはくれなかった。今でもそれは、変わらない。
「娼婦達は……体は許しても、唇は本当に愛する人の為にとっておく……だから、私も……」
「レステラ……」
ハモンの胸が痛む。レステラは、本当にジェルミナを愛しているのだ。その想いが一一痛い。
「ねぇ……ハモン、約束しよう」
突然、レステラが力強く言う。ハモンは驚いて、肩越しにその顔を覗き込んだ。
アイスブルーの瞳は、まだ涙に濡れていたが、レステラは微笑みを浮かべていた。
「約束?」
「私……あんたに、理想の女(ひと)をくっつけたげる。だから、あんたは私に、飛びきりのいい男を娶せてよ」
「はあ!?」
レステラがくるりと振り返って、ハモンを見る。もう涙はない。そこには、満面の笑顔があった。
「ソニア様みたいな女(ひと)を探すのは大変だけど、きっと見つけるわ。約束する。だからあんたも……」
「お館様みたいな男は、そうそういないぞ。無茶言うな」
そうハモンが言い放つと、レステラはカラカラと笑った。
「何年でも待つわよ。先は長いのよ。お互いに長生きしなくちゃね」
そんなレステラを見て、ハモンも笑いが浮かんでくる。
互いに笑い合いながら、肌を合わせる。男と女として出会う前に、同志として出会った。愛し合う事は出来ないけれど、いたわり合う事は出来る。
キス、キス、キス……キスしよう一一
ヴェルナールは思わず立ち上がった。突然、頭の中に歌声が響いたのだ。
故郷を遠く離れて一一
孤独なふたりが出会えた奇跡を一一
「ソニアだ」
シャンティの声に振り向くと、少年はベッドから身を起こして笑っていた。
「奥方様の……歌声が頭に響いているぞ。これは、何だ?」
ヴェルナールは混乱していた。耳から聴こえるのではなく一一直接、頭に響いているのだ。
「ソニアの癒やしの力だよ。静かに聴いてみてよ。安らぐ筈だよ」
そう言われてヴェルナールは、息を整える。すると、歌声がそっと、心の襞を揺らすように一一触れてきた。
懐かしい感覚一一。
いつの間にか目を閉じて、歌声に聴き入るヴェルナールを見ながら、シャンティは小さく呟いた。
「ソニアだけ……」
指がそっと、唇に触れる。
出会えた喜びを一一
このキスに込めて一一
「ソニア……?」
ダイアンはベッドの上で起き上がった。昼間の騒動のせいか、はたまた慣れぬ部屋のせいか、寝付けずに悶々としていたのだが一一。
「ソニアが歌ってる……」
ベッドから降りて、窓に向かう。裸足の足が板張りの床に触れて、ひんやりと心地よい。
観音開きの窓を開けると、小さなベランダに出た。そして、夜の闇に目を凝らして、耳をすます。
歌声は頭に響いている。それは分かっていた。ソニアの声は、癒やしの力を含むと、頭に直接届くのだ。だがつい一一耳をすませてしまう。
ふと一一視線を感じて横を見た。
「……!」
隣の部屋のベランダに、佇むのは黒衣の影一一。
(キリアさん……)
部屋が隣り合わせだと知った時は、妙に嬉しかった。特に不思議はない。このフロアには、ダイアンを入れて4人しかいないのだ。自然に部屋は寄ってくる。現に、ダイアンの部屋と、廊下を挟んだ向こう側には、レステラとハモンの部屋がある。
キリアは、ダイアンを見つめていた。ソニアの歌声に惹かれて出て来たのだろうか。いや一一。
(ずっと……いたみたい……)
寝着に着替えていない。昼間の黒衣のままだ。上着にズボン、中のシャツまで黒ずくめの姿が、ベランダの手摺りを掴んで、ダイアンを見つめていた。
その黒瞳は穏やかで、優しく微笑んでいるように見える。
ダイアンは、急に息苦しくなって、顔を背けて部屋に駆け込んだ。急いで窓を閉め、ベッドに俯せに倒れ込む。
心臓が、壊れそうなくらいに高鳴っていた。
「男なんか……男なんか嫌いよ」
そう呟いて、唇を噛む。
ダイアンの男嫌いの原因は、父親であった。
第5ドーム総督主席補佐官であり、防衛軍の長官一一フレドリック・ロイ。
ダイアンは、類い希な統率力を持ちながら、親友のロベルト・ガイナンの実力を認めて、補佐官に徹するこの父親を、世界で一番、尊敬していた。それと同時に、妻がありながら、他の女と関係を持ち、ダイアンとたった3日違いの異母弟を産ませた父親を、世界で一番、軽蔑していた。
(好きなんかじゃないわ……誰が男なんか、好きになるもんですか!)
そう思いながら、心臓の高鳴りを抑えきれない一一。
好きな人はあなただけ一一
慌てて部屋に駆け込む後ろ姿を目で追いながら、キリアはふっと笑いを浮かべる。そして一一耳をすました。
その唇から、微かな呟きが漏れる。
「懐かしいですね……」
少し間をおいて、同じ唇から漏れる呟きは一一。
「ああ、懐かしいな……」
まるで会話をするような、ふたつの呟きが、同じ唇から漏れる。
いつまでも変わらぬこの想いを一一
暗い廊下を、足音もたてずに歩む足が止まった。
ジョルジュアは、頭を巡らせて、宙を見詰める。
あの月に誓おう一一
「ソニア様……」
ふと、背後に気配を感じて振り向くと、そこには、静かに佇むマリカの姿があった。
「マリカか……いや……」
ジョルジュアは小さく首を振ると、小柄な女官に向かい合い、深々と頭を下げた。
「奥方様……」
マリカが微笑む。
マリカでない誰かが、微笑む。
「久しぶり、ジョルジュア……元気そうね」
マリカの声で一一マリカでない誰かが、ジョルジュアに声をかける。
ジョルジュアは顔を上げて、マリカを一一マリカでない誰かを、見詰める。
「この感覚は……懐かしいわね……」
マリカが一一マリカでない誰かが、響いてくる歌声に耳をすます。
「はい……心に直接触れる感覚……あまりの懐かしさに、涙が出そうでございます」
ジョルジュアの言葉に、マリカが一一マリカでない誰かが、頷く。
次の瞬間一一。
「ジョルジュアさん……ソニア様が歌ってます……」
マリカがそう呟いて、涙を流していた。
ジョルジュアは、ふっと笑って、マリカを見る。もうそこには、マリカしかいない。
「何だか……懐かしい感じがします……」
マリカがそう言うと、ジョルジュアは小柄な姿に笑いかけた。
「お前はこの惑星で生まれたから、母なる星は知らない筈だが……遺伝子が覚えているのかな。心に響くこの感覚を……」
マリカが不思議そうに、ジョルジュアを見た。ジョルジュアは、そんなマリカにまた、笑いかける一一向こう側の誰かにも一一。
故郷を遠く離れたこの地で誓おう一一
「ソニア……」
ジェルミナが声をかけると、ソニアは歌うのを止めた。そして、はにかんだように頬を染める。
「下手でしょ……おば様みたいには歌えないわ……」
「ソニアの声は綺麗だよ。不思議だ……歌声が頭に響いてくる……」
これが一一癒やし人の能力(ちから)一一。
ジェルミナは改めて、ソニアが類い希な女(ひと)である事を知るのであった。
母であるハーミリオンよりも、生命力に満ちた歌声は一一おそらく、このドームの隅々まで、響き渡ったであろう。
独占してはいけない存在一一。
だが一一。
「ソニア……押し倒していい?」
ジェルミナの囁きに、ソニアは慌てて首を振った。
「駄目よ、こんな所で……。誰か来たらどうするのよ……」
「大丈夫……ここは、夜間立ち入り禁止だ」
「え?」
「ここは、アテナス卿と奥方の……逢瀬の場所だったらしいよ。だから今でも、夜間は出入り禁止なんだ」
かつて一一仲睦まじいふたつの影が一一この場所で、逢瀬を重ねた。
今また一一ふたつの影が重なり合う。
(僕だけのソニア……)
月の光に照らされて一一。
草の褥(しとね)に横たわり一一。
愛を交わす一一。
あなたと巡り会えた奇跡を一一
この月明かりに感謝しよう一一
好きな人とキスしよう一一
キス、キス、キス……キスしよう一一
故郷を遠く離れて一一
孤独なふたりが出会えた奇跡を一一
出会えた喜びを一一
このキスに込めて一一
好きな人はあなただけ一一
いつまでも変わらぬこの想いを一一
あの月に誓おう一一
故郷を遠く離れたこの地で誓おう一一
キス、キス、キス……キスしよう一一
これからずっと、ずっと先一一
年を取ってもずっと、ずっと一一
月明かりに照らされながら一一
キス、キス、キス……キスしよう一一
『暗闇でダンス』第2部
一一End一一
第3部へ続く一一。