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空色のけもの 番外編〜『海の見える家にて その1』8最終回


 横たわるシャンティの右腕にしがみついたミリアムが、静かな寝息をたて始めた。その無邪気な顔を覗き込んだシャンティが、今度は左側を見る。目の前の蜂蜜色の髪が揺れて、琥珀色の瞳がシャンティを見上げた。
 リタはひとりで寝ると言ったのだが、シャンティは半ば無理やりベッドに連れ込んだのだ。

「眠れねぇのか?」

 そう問うと、リタは小さく頭を振って、シャンティの左腕にしがみついてきた。

「ううん……あのね、シャンティさん……」

「シャンティでいいぞ。リタは丁寧過ぎる。おいらは呼び捨てにしてくれ。さん付けにされたら、くすぐったくてかなわねぇ……」

 そうシャンティが請うと、リタは嬉しそうに笑って頷いた。

「うん、シャンティ……あのね……お父さん、リタのスープをおいしいって言ってくれたね。お代わりしてくれたね」

 アントニーは小食である。普通の成人男性の半分も食べない。ある事情により、病を得ている事が原因であるが、そのアントニーが、夕べの食事では、リタのスープを何度もお代わりをしていた。多少の無理は見られたが、父娘は幸せそうに笑い合っていた。それがリタの今の笑顔に繋がっている。
 シャンティはリタを引き寄せて、その蜂蜜色の髪に頬ずりした。ミリアムもそうだが、子供の髪からは日溜まりの匂いがする。シャンティはそれが好きだった。

「リタのスープは本当に旨かったぞ。ソニアが来たら作ってやれ。喜ぶぞ」

「うん。次は、ソニア様のアップルパイを作りたいんだ。教えてもらう……あの……シャンティ……」

 リタの口調が変わった。どこかはにかんだような声に、シャンティは見下ろして少女を見た。

「何だ?」

 リタの頬が、心なしか赤く染まっている。少し声を小さくして、リタは続けた。

「あの……ここにいる間に……ハモンさん、来るかなぁ?」

「ハモン?」

 シャンティの同僚であるハモンは、総督配下の情報収集官である。何人もの連絡員を従えて、惑星上に散らばる連絡所を転々としており、総督府にはなかなか戻って来ないが、時折この家には息抜きに立ち寄るのだ。

「さあなぁ……ハモンに何か用なのか?」

 シャンティが訊くと、リタはぶんぶんと頭を振った。見ると、顔が真っ赤になっている。

(ははぁ……こりゃ……)

 鈍感なシャンティにも分かった。少女の秘めた想い一一。

「あのね……ハモンさんの話を聞くのが楽しいの。色んな場所の話とか、色んな人の話……それでね……私、大人になったら連絡員になって、ハモンさんの部下になりたいって言ったら、いいよって……。ねぇ、なれるかなぁ?」

 いつもは口数の少ないリタから、流れるように言葉が放たれる。その中に込められた想いが、シャンティにひしひしと伝わってきた。
 ふと、先ほどレステラが言っていた言葉が浮かぶ。リタを手に入れる事の出来る男はラッキーだと言ったシャンティに返した言葉。


『あら、案外すぐ側にいるかもよ』


 この事だったのか一一と、レステラの含みのある笑いを思い出す。

「なれるさ。ハモンには勿体無いくらいの優秀な連絡員になるぞ、リタは……。あいつは抜けた所があるからなぁ。リタみたいなしっかりしたのが側にいた方がいいんだ」

 部下としてではなく、生涯を共にする伴侶として一一。

 そう心の中で呟いたシャンティだが、そうなるには乗り越えなければならない問題がある事も分かっていた。
 それは、アントニーの罪を許さない最大の針が、他ならぬハモンだからだ。アントニーがソニアに対して行った卑劣な仕打ちを、目の前にしながら止める事の出来なかった自分自身を、ハモンは今でも許していない。そして同時に、アントニーを許していない。時折アントニーに対して投げかけられる言葉の中には、聞くに耐えない辛辣さがあるのだ。
 そのハモンに、アントニーの娘であるリタが想いを寄せている。これは一一。

(吉と出るか凶と出るか……親の罪は子供には波及しない。それが分からない奴じゃない、ハモンは……だから……)

 幼いこの恋慕が叶って欲しい。おそらくリタは、大人になってもハモンを想い続けるだろう。
 いつの間にかリタは寝息をたてていた。穏やかなその寝顔を見ながら、シャンティの願いは巡る。


 みんな幸せになってくれ。
 リタもミリアムもレステラも一一。
 たとえ叶わない想いでも一一。
 想う事は、人を幸せにするだろう。
 何故なら自分がそうだから一一。


(そうだよな、ソニア……)

 愛しい者が笑っていてくれれば、それが自分の幸せになる。






「ありがとう、レティ……楽になったよ」

 体の上に翳された手を優しく押し退けると、アルフレッドはレステラに笑いかけた。レステラは治療を止めて、心配そうにベッドを見下ろすと、横たわる痩せた体に、そっと布団をかけた。

「苦しくない?今日は賑やかだったから、疲れたんじゃないかしら……」

 そう言うと、アルフレッドは、

「賑やかなのは好きだよ。特に子供の明るい声はいい……。ここがこんなに賑やかになったのは、レティのお陰だ。ありがとう……朝、目覚めるのが楽しみになったよ……」

「アルフレッド……」

 出会って間もない頃一一アルフレッドは希望のない生活を送っていた。
 絶え間ない痛みと苦しみ一一そして後悔の念が、病に蝕まれた体と心を苦しめてていたのだ。
 そのアルフレッドに、少しでも希望を持ってもらいたい一一その一心でここまできた。
 眠りについたアルフレッドの髪に触れて、レステラは微笑む。命の期限は近いだろう。だが命が尽きるその瞬間まで、笑っていてくれるなら、どんな事でも厭わない。

 その為に自分に出来る事一一。




 それは、この海の見える家に、笑い声を絶やさない事一一。





『空色のけもの』番外編〜海の見える家にて1

       一完一

空色のけもの 番外編〜『海の見える家にて その1』7


 漆黒の荒野を、自動走行車が行く。それは、この惑星では有り得ない光景だった。
 荒野の夜は危険である。肉食獣のクオンが闊歩し、獲物を探し回る。その他の肉食獣達も、夜になるとねぐらから現れて、小さな獲物を狙うのだ。
 夜、荒野を彷徨く事は、死に直結する危険な行為なのである。
 だがこの自動走行車一一いや、乗っているアントニーには何の躊躇もない。送り出したシャンティ達も、特に止めはしなかった。
 アントニーは、自動操縦にして書類を片付けていたが、ふと顔を上げると、身を乗り出して自動操縦から手動に切り替えて、ブレーキをかけて停車した。
 荒野を走るのは危険だが、止まるのはもっと危険である。なのにアントニーは車を止めたばかりか、こともあろうに車の外に出たのだ。
 遠くでクオンの遠吠えが聞こえる。クオンの嗅覚は鋭い。アントニーの匂いを察したこの肉食獣が、今にも襲いかかってくるかもしれないのに一一。

「時期は早いが……気づくかな?」

 そんな独り言を呟きながら、アントニーは車の荷台から片手で抱えられる大きさのコンテナを取り出した。側面には、チカチカと点滅する小さなボタンが並んでいる。どうやら携帯用電気機器のようである。

「俺の血も、もうだいぶ薬にまみれてるからなぁ……クオンの血も混ざってるし、旨くはないぞ……すまないな……」

 そう呟きながらコンテナを片手で抱えて、車から少し離れた場所に移動した。その間もクオンの吠え声が近づいてくる。だが気にした風もなく、アントニーは地面にコンテナを置く。そして、

「あ、そうだ……」

 何かを思い出したように引き返し、車に頭を突っ込んでごそごそしていたが、やがてまた、コンテナを置いた場所へと向かった。

「リタがスープを作ったんだ。旨かったぞ。それと、アントニーが描いた絵だ。いい顔で笑ってるんだな、これが……。リタは写真だと、緊張して笑ってくれないからなぁ……」

 アントニーはコンテナの上に、小さな容器を置いた。それは、レステラが渡してくれたバスケットの中に入っていたリタのスープ入りの保温容器だった。その容器の下に、一枚の紙を挟む。
 その時、アントニーが耳をそばだたせた。聞こえたのは、獰猛な肉食獣の唸り声である。暗闇に目を凝らすと、こちらを爛々と見つめている赤いふたつの光と視線がぶつかった。
 暫し見つめ合うが如く視線を合わせていたが、やがて赤い光点が瞬きして消えた。アントニーは、ふっと笑う。

「すまないな、俺で……飢えてるだろうに、喰えない奴で……。クオンは共食い出来ないからな……。出来れば喰って貰いたいところだが……」

 だれか他の人間が見たら、驚愕に目を見張る光景である。クオンが人間を目の前にして襲わずに引き下がった。絶対に有り得ない状況である。
 荒野でクオンと遭遇する事は、即、死に直結する。飢えたクオンは時折、荒野に暮らす人間の集落を襲うのだ。人間にとっては、飢餓や病気よりも脅威なのが、クオンなのである。そのクオンと対峙して生き延びる人間がいる。あまつさえ、“喰って貰いたい”などと発言する人間がいるとは一一。
 だが当のアントニーは、何事もなかったかのように車に戻った。そしてシートに寄りかかって、目を閉じる。
 眠ってはいなかった。今の彼には、安らげる眠りが訪れる事はない。罪を背負い、自らを罰する日々を送る彼には、決して一一。
 その時一一背後から一一。

 一瞬の光一一。

 暗闇を照らす白い光が差してくる。だが、アントニーは振り返らない。数秒の後(のち)に、もう一度光が差したが、彼は振り返らない。目を閉じたまま、微動だにしない。そして更に数秒の後(のち)に、アントニーの目が開き、彼は漸く振り返る。自動走行車の後部座席のガラスの向こう一一。
 見やったアントニーの口元に、微かな笑みが浮かんだ。

「リタのスープで、暖まってくれ……」

 誰に話しかけているのか。アントニーの呟きに応える声はない。そしてその視線の先の地面には、もう何もなかった。






 より一層の漆黒の闇の中、佇む影がある。ついと差し出された白い右手がぼうっと浮かんだ。掴んでいるのは一枚の紙。そこに描かれている少女の笑顔も、闇に浮かぶ。ふいに上げられたのは、もう片方の右手。そこには、アントニーがコンテナの上に置いた、あの保温容器が握られていた。蓋が開けられて、湯気の立ち上る容器と、ただ鉛筆で描かれた少女の絵が、冷たい闇を一一束の間暖かい日溜まりに変える。


空色のけもの 番外編〜『海の見える家にて その1』6


 アントニーの乗った自動走行車が遠くなっていく。リタは一歩前に進み出て、じっと見送っていた。
 行かないで一一そう言いたいのかもしれない。だがこの少女は、一度も自分から父親に何かを頼んだ事はないのだ。
 その、蜂蜜色の髪を風が揺らす。幼い少女の、諦めたような表情を、シャンティは痛ましく見つめた。
 その時、この場の静寂を破る声が夜空に響く。

「リタちゃんとミリーちゃんに、いいものをあげるわ!」

 シャンティが振り返ると、レステラがにこにこ笑って、リタとミリアムを見つめていた。

「なあに?いいもの、なあに!?」

 すぐにミリアムが反応する。嬉しそうにレステラの足にしがみつく。リタも、遠慮がちながら、どことなく期待するような目で、レステラを見ていた。
 レステラはポケットを探って、何かを取り出した。そしてその場にしゃがみ込み、まずミリアムの首に手を回した。
 シャンティが身を乗り出して見ると、レステラがミリアムの首につけているのは一一。

「首飾りか?へぇ……パワー・ストーンだな」

 ミリアムの首に細い鎖が下がっている。その先端で輝いているのは、小さなミリアムの小指の爪位の大きさの、緑色の石だった。
 治療師が指輪に付けている色とりどりの石は、パワー・ストーンと呼ばれている。治療を補助する力を持つらしいが、最近はこの石が、一般の女性達に人気なのである。 それは一一。

「瞳の色と同じ色のパワー・ストーンを身につけると、愛する人と必ず結ばれる!」

 レステラがそう言って、ミリアムの頬にキスをする。ミリアムはパワー・ストーンを嬉しそうに握りしめた。
 レステラの言った言葉は、この石にまつわるまじないである。数年前から、若い女性達の間で、このまじないが流行っているのだ。発端は、ミリアムの母親であり、総督夫人であり、“癒やし人”として、人々の敬愛を一身に受けているソニア・ガイナンである。彼女が唯一身に付けている装身具が、その瞳の色と同じ緑色のパワー・ストーンが嵌った指輪であった為、このまじないが生まれたのだ。
 総督夫妻の仲の良さは語り草になっている。絶世の美貌を誇る総督、ジェルミナ卿は、妻であるソニアを深く愛していた。その愛情の深さは尋常ではなく、ジェルミナ卿にとって、ソニア以外の女は皆、芋かカボチャにしか見えないのではないかと揶揄される程である。
 それにあやかる為に言われ出したのが、このまじないなのである。
 レステラは、喜ぶミリアムを離してリタを見た。リタはミリアムの首から下がる緑色の石を、目を輝かせて見つめていた。
 パワー・ストーンは希少価値のある石である。数は少ない。だから望んでも手に入れる事がなかなか出来ないのだ。その上、自分の瞳と同じ色でなければならないとなると、ますます入手は困難となる。それが故に世の女性達は、こぞって手に入れたがるのである。
 幼い少女であるが、リタはまじないの事を知っていた。そして、ソニアの事を慕っていた。
 そのリタにレステラが近づき、目の前に膝を付いてその瞳を覗き込んだ。
 美しい琥珀色の瞳一一。
 その瞳の前に、ふいと同じ色の石が現れた。

「あ……」

 リタの前に翳されたレステラの手から、細い鎖が下がり、その先に琥珀色の石が輝いていたのだ。

「これ探すの大変だったのよ。なかなかなくてね、この色。すっごい貴重よ、リタ」

 レステラはそう言いながら、鎖をリタの首にかけた。

「うん、似合う似合う。素敵よ、リタ。これでリタは、必ず愛する人と結ばれるわ」

 リタは、自分の首から下がった石を、じっと見つめていた。その頬が紅潮している。そして顔を上げると、真っ直ぐにレステラを見つめる。はにかんだような笑顔はいつものままだったが、おどおどとした様子は消えていた。

「ありがとう、レステラさん。大切にします」

 そのリタの元に、ミリアムがすり寄ってきた。リタが見ると、ミリアムは嬉しそうに自分の石を指さしてから、リタの石を指差して言う。

「リタ!お揃いだよ」

 リタがミリアムに優しく笑いかける。

「うん、お揃いだね。ミリーちゃんの石、綺麗だよ」

 その様子を、一歩下がってにこやかに見ているレステラに、シャンティが声をかけた。

「よく手に入ったな。前にソニアから頼まれてたんだよ。ミリーとリタのパワー・ストーンが欲しいってな。最近じゃ、なかなかないんだよな」

 レステラはシャンティをちらっと見た。その表情は勝ち誇っているようであった。

「ふふん、私も頼まれていたのよ。治療師の方が石探しは得意よ。でも確かに、最近はないわねぇ……特に、リタのはなくてね。ある娼婦から譲ってもらったのよ」

「よく譲ってくれたなぁ」

 シャンティが驚くと、レステラは少し悲しそうな顔をして、

「先が長くないのがわかっていたのよ。娼婦にしては珍しく、想い人と結ばれた女(ひと)でね。それが石のお陰だって……。同じ瞳を持つ娘が、自分と同じように幸せになってくれるならって、譲ってくれたのよ」

 と応えた。その口調から、石を譲ってくれた娼婦が、既にこの世にいない事を、シャンティは察した。
 シャンティは、嬉しそうに石を手の平に載せて眺めているリタに目を向けた。いつもひっそりと佇むこの少女の、こんな嬉しそうな笑顔を見るのは、久しぶりであった。

「だったらリタは、絶対に幸せになるぞ。想いの籠もった石だ。好きな奴と必ず結ばれる。どんな奴かなぁ、リタを手に入れる奴ってさぁ……リタはすっげえ美人になるだろうからさ。ラッキーだよな、そいつは。心根も優しいしさ」

 シャンティがそう言うと、レステラはクスクスと悪戯っぽく笑った。

「あら、案外すぐ側にいるかもよ」

 どういう事だ、と尋ねようとしたシャンティを牽制するように手を振ると、レステラは無邪気に喜ぶふたりの少女の元に、歩み寄った。

「さあさあ、明日海で遊ぶなら、もう寝なきゃ駄目よ。お風呂に入ろうね」

「シャンチィと入るぅ!」

 ミリアムがそう叫ぶと、シャンティに駆け寄ってしがみつく。シャンティはその小さな体を抱き上げると、リタに言った。

「リタも一緒に入るか?」

 するとリタは、真っ赤な顔をして首を振った。

「私……レステラさんと入る」

 するとミリアムが、

「やっぱりレチィと入る!」

 と、すぐに変える。シャンティは苦笑いを浮かべて、ミリアムの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「何だお前……真似っこだな」

「女は女同士よね、ミリーちゃん、リタちゃん」

 またも勝ち誇った表情でリタの手を取り、スタスタと家に入ろうとしたレステラが、振り返って言い放つ。

「はい、さっさと入る!アルフレッドが独りぼっちになってるわ」

 そう言われて、シャンティは肩をすくめた。

「やれやれ……リタに振られて、ミリーにも振られちまった」

 そんなシャンティの頬を、小さな右手でピチピチと叩いてから、ミリアムも言い放つ。

「女同士なんだよぉ」

 シャンティは声を上げて笑う。そしてミリアムを抱いて家に入ろうとしたが、ふと振り返って彼方を見やる。
 アントニーは今頃、荒野をひた進んでいるのだろう。

(見せてやりたかったな。リタの嬉しそうな顔を……)


空色のけもの 番外編〜『海の見える家にて その1』5


 台所では、粘土細工のような団子入り一一主にミリアム作一一スープが完成していた。

「上手よ、リタ。もうスープはリタに任せていいわね」

 味見をしたレステラからそう褒められて、リタは照れくさそうに笑う。それを見たミリアムが、レステラに抱きついてきた。

「ミリーはっ?ねぇ、お団子はっ?」

 そう必死に聞いてくるミリアムを、ギュッと抱きしめたレステラは、

「もちろん!ミリーちゃんも上手よぉ!お団子美味しいだろうね」

 と言って、にこにこと笑った。傍らで、リタも笑っている。その様子を見ながら、アルフレッドはスケッチブックを抱えて、鉛筆を走らせていた。
 その時、アルフレッドの横のドアが開いて、遠慮がちに顔を覗かせたのは一一。

「どうした、アントニー。仕事は終わったのか?」

 アルフレッドの問いかけに、アントニーは首を振る。

「いや……まだだけど……」

 その声に振り返ったリタが、早足でアントニーの側に駆け寄ってきた。アントニーはリタを抱き上げる。

「あのね、お父さん。リタね、スープを作ったの。飲んでくれる?」

 そう言って首にしがみついてくる小さな体を抱きしめて、アントニーがすまなそうに言う。

「リタ……お父さんな、仕事に戻らないといけないんだ。リタはここで、いい子にしててくれ」

 リタがしがみついた腕を外した。一瞬、泣きそうな顔になったが、すぐに笑って応える。

「うん。いい子にしてるよ。お父さんも頑張ってね」

 そんな親子の様子を、アルフレッドが悲しそうに見上げる。ふと、視線を感じて振り返ると、そこには同じように悲しそうな目で、アントニーとリタを見つめるシャンティが立っていた。

「何よ、アントニー。仕事に戻っちゃうの?せっかくリタがスープを作ったんだから、食べてから行きなさいよ」

 レステラがそう言って、ミリアムを離した。そして立ち上がって、流しの方に歩いていく。その後をミリアムが付いていった。
 ごく自然な動きに見えたが、レステラはアントニーを見なかった。視線はそらしたまま、言葉だけかける一一。
 シャンティはその様子を見て、小さな溜め息をついた。

(ここにも、針が1本……)






 たくさんの書類の束を抱えたアントニーが、自動走行車に乗り込む。シャンティが、瞬間移動で連れていこうかと声をかけたのだが、アントニーは、その申し出をやんわりと拒否したのだ。

「いや……自動運転にして、書類整理をしたいんだ。これを終わらせないと、帰ってからすぐに執務に取りかかれない」

 総督府のあるドームまで、自動走行車で丸1日一一その間、アントニーはずっと仕事をし続けるつもりなのだ。
 シャンティはまたも溜め息をつく。

「お前な……そんな事してっと、倒れちまうぞ。只でさえ、後遺症が酷いんだから……。書類整理なんか、他の補佐官に任せろよ」

 そう言っても、アントニーは力なく笑うばかりであった。
 シャンティの傍らで、リタが心配そうに、自動走行車に乗り込む父親を見ていた。
 その時、後ろから聞こえた声は、シャンティが“針が1本”と称したレステラのものだった。

「お待ちなさいよ、アントニー」

 シャンティが振り返ると、レステラが片手にバスケットを抱えて歩いてきていた。横には早足で付いてくるミリアムの姿がある。
 レステラは自動走行車のドアを開けて、アントニーにバスケットを差し出した。

「これ……食べやすいようにパンにお肉を挟んであるから……それとサラダ。保温容器には、リタのスープよ。途中で食べなさい。ちゃんと食べないと、本当に倒れちゃうんだからね」

 口調はぶっきらぼうであったが、言葉の端々に気遣いを感じる。シャンティは自然に笑みが浮かんできた。
 アントニーはバスケットを受け取って、小さく頭を下げる。

「ありがとう……リタをよろしく……」

 レステラはリタを見て、にっこりとした。リタが嬉しそうに笑っていたのだ。

「任せなさい。とは言うものの……リタちゃんは、ミリーちゃんのお守りをする事になっちゃうから、大変だわね」

 するとリタは、遅れてやって来たミリアムの手を握って、首を振る。

「ミリーちゃんと遊ぶのは楽しいよ。ミリーちゃん、明日は海で遊ぼうね」

 ミリアムは目を輝かせて、リタを見上げた。そして、何度も頷く。
 その様子を、アントニーは目を細めて眺めていたが、ついとシャンティに視線を移して言った。

「総督と仕事を交代したら、ここに行くように勧めるよ。賑やかになるだろう?」

 そしてお前は、また独りか一一。

 シャンティの胸が痛む。こんな風に、アントニーはずっと孤立を選んできた。そしてこれからも、この男はずっと独りで自分を酷使していくのだ。
 生きる事を、とうの昔に放棄したかに見えるアントニーを、この世に留まらせているのは、傍らの少女の微笑みなのであろう。


空色のけもの 番外編〜『海の見える家にて その1』4


 丸めた背が目の前にある一一。

 シャンティはそっと背後のドアを閉めた。ノックをしても返答がない為、勝手に入った小さな一室で、ひとりの男がこちらに背を向けて机に向かっていた。
 その一一丸めた背の持ち主が、人の気配に気づいたのか、ゆっくりと振り返った。

「ここに来てまで仕事か。それじゃ、リタが可哀想だぞ」

 シャンティがそう言うと、男は椅子をくるりと回して向き合う。
 まだ若い一一だが、妙に老成化した男である。黒髪にはちらほらと白いものが混ざっている。整った精悍な顔立ちであるが、生気がない。ただ、真っ直ぐにシャンティを見つめる黒い瞳には、僅かな力強さが、残り火の如く光っていた。
 男は力なく笑う。

「やあ、シャンティ。書類仕事は、やってもやっても終わらないよ。お前が来たという事は……」

 男の目に不安が浮かぶ。それを見たシャンティが首を振った。

「ソニアは来てない。ミリーを連れてきたんだ。ソニアはお館様と一緒だよ」

 男がほっとしたように笑う。だがシャンティの表情は浮かない。

「ソニアがお前に会いたがっている。お前さ、ソニアが帰って来ると、いつも消えちまうだろ。そういう事やめろよ。ソニアが悲しむ」

 男が目を伏せた。その口元にはまだ笑みが浮かぶ。だがその笑みは、自嘲気味なものに変わっていた。

「ソニアは優しいな。だがその優しさが……俺には耐えられない。どの面下げて会えるんだ。俺の存在は、ソニアにとっては、悪夢でしかない。なるべくなら会わない方がいい」

 男の胸に去来するのは、かつて犯した罪なのか。取り返しのつかない、過去の記憶。

「俺が今生きているのは、リタがいるからだ。本当なら……リタを手離して、死んじまった方がいいんだかな……」

「……!」

 シャンティがつかつかと男に歩み寄り、その襟首を掴んだ。浮かんでいるのは、怒りの表情。
 男はされるがままになっている。全身に力がない。

「ふざけるな!お前は、リタにとってたったひとりの肉親なんだぞ!少しは父親らしくしやがれ!」

 男は何も言い返さない。シャンティの怒りを、あるがままに受け止めているように見えた。その様子に、シャンティは力を抜く。男の抱える罪の意識は深い。それは、決してぬぐい去る事の出来ないものなのであろう。
 シャンティの手が襟首から離れた。男はぐったりと椅子に沈み込む。生気がないのは、どこか体の具合が悪いからなのか。じっとしていても、呼吸が荒いのだ。

「ソニアはリタを本当の娘のように可愛がってくれた……本当はソニアに託したらよかったと思っている。ソニアになかなか子供が出来なかったのは、俺のせいなんだ。リタは、ソニアに育ててもらった方がよかったんだよ。だけど……ミリーちゃんが生まれたからな……」

「ソニアは今でも、リタを可愛がってるよ。ミリーの姉扱いをしてる。ミリーだって、リタが大好きだ。お前がそんなだから、リタはいつも遠慮がちなんだ。もっとソニアに甘えてもいいのに……」

 リタは、6歳という年齢よりも大人びていた。それは、父親の生き様に影響を受けているからだ。常に影に徹する父親に倣って、幼い少女もまた、ひっそりと立つ。シャンティはそれが不憫でならない。

「ソニアに育ててもらいたかったんだ。実際にそうしようとした。だが……」

 男の視線が床に落ちた。そして一点をジッと見つめる。まるで、床を透かして地の底を見ているように一一。

「あいつは俺にリタを託した。だから俺が育てようと思った。せめてリタが……生涯を共に過ごせる相手と巡り会えるまでな……」

 男はそう言って、顔を上げた。シャンティは何も言えなかった。男の言葉の端々に、紛れもない一一娘への深い愛情を感じ取ったからだ。
 ふと、男が気づいたように言った。

「ソニアが総督とふたりきりという事は……執務を代わってやらないとな。すぐに戻ろう。総督は執務どころじゃないだろう」

 男の顔に、初めて明るい笑みが浮かんだ。それを見たシャンティも、おかしそうに笑う。

「ソニアを膝に乗せて仕事してるさ。周りが気の毒だな。慣れちゃいるが、仕事にはならねぇ」

 男が声を上げて笑った。そうすると、男の表情が和らぐ。元々、明るい表情が似合う顔立ちをしているのだ。いつもそういう風だといいのにと、シャンティは思う。だが、男の罪の意識が一一そして、周りの者が抱く憎しみが、男から明るさを奪っているのだ。
 男を最も憎んで然るべき女(ひと)は、とっくの昔に許している。なのに周りが許さない。男はまさしく針の筵に座らせられている状態なのだ。
 男一一アントニー・ロイを前に、シャンティは自問する。自分もその針の一部になっていないだろうか。誰よりも憎んでいるのではないだろうか。

(人を憎むのは悲しいな、ソニア……)

 憎しみからは何も生まれない一一シャンティの最愛の女(ひと)は、そう言ってアントニーを許した。


『許す事から始めようよ、シャンティ』


「そうだな、ソニア……」

 シャンティの呟きは、椅子から立ち上がってドアに向かうアントニーの耳に届いた。彼は立ち止まり、振り返る。明るい笑みの余韻が、その唇に残っていた。


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プロフィール
月乃みとさんのプロフィール
性 別 女性
誕生日 12月15日
系 統 普通系
血液型 O型