ゆっくりとした覚醒に身を委ねて少し目を開ける。手を伸ばしてそこに居る筈の愛しい存在を探したが――。
「ソニア……?」
伸ばした手の先に触れるのは、冷たいシーツの感触――。
ジェルミナは跳ね起きた。隣に居る筈のソニアがいない。
「ソニア!」
「どうしたの?」
ジェルミナの必死ともいえる呼び掛けに、ソニアがバスルームから顔を出した。見るとすっかり身支度を済ませている。それを見たジェルミナは、安堵の溜め息をついた。
「やだ、ジェルミナったら……」
ソニアがジェルミナを見て吹き出した。
「寝癖がひどいわ……よく乾かさなかったでしょう?」
ソニアがベッドに近付く。そして両手を延ばしてジェルミナの髪に触れた。その時――。
「きゃっ……」
ジェルミナがいきなりソニアの腰を抱(いだ)いた。そして顔を胸に埋める。必死にすがりつくような抱擁であった。
「どうしたの?」
ジェルミナはソニアの胸で、いやいやをするように首を振った。まるで子供の仕草である。
「起きたら横にいないから……ひとりで目覚めるのは……もう嫌だ……」
ソニアははっとした。幼い頃から病がちだった母親はジェルミナを抱いて眠る回数が少なかった。母親の負担を減らす為にジェルミナには乳母が付けられたらしいが、あまり愛情深い存在とはいえなかったらしく、ジェルミナはいつもひとりで眠りに就いたという。そんな話を年に一度ガイナン邸に来ていたジェルミナが、ソニアに語った事があった。
――眠りに就くのも目覚めるのも、いつもひとり――
(私も母親がいなかったけど、ニーナがいた……でもジェルミナには……甘えられる存在がいなかったんだ……)
ソニアはジェルミナの頭を掻き抱いた。すがりついてくるその腕が、堪らなく愛おしい。
「あまりにもよく寝ていたから……ごめんね。これからは目が覚めるまで側にいるから……」
「とりあえず……」
ジェルミナが顔を上げて、照れくさそうに笑った。
「起こして欲しい……僕は朝の目覚めがすこぶる悪いんだ。なかなか目が覚めない……今日はびっくりして飛び起きたけど……」
「まあ、私は目覚まし代わりなの?失礼しちゃうわね」
ソニアがそう言って唇を尖らせた。するとジェルミナは笑いながらソニアの頭を引き寄せて、軽いくちづけを交わす。
「これからは毎朝おはようが言える……おはよう、ソニア……」
ソニアもまた笑いながら額をジェルミナの額に付けて言う。
「おはよう、ジェルミナ」
「もう、熱はないね」
「一晩眠れば下がるわ。大丈夫よ」
ジェルミナが心配そうな表情を浮かべた。そんなジェルミナににっこりと笑いかけて、その手を引いた。
「さあ……その寝癖を何とかしなきゃ。いらっしゃい」
ゆうべとは反対に、今度はジェルミナを鏡の前に座らせる。ソニアは寝癖のついたジェルミナの金髪を少し湿らせてとかしていった。
「本当に綺麗な金髪ね……絹みたいな手触りだわ」
「寝癖が付きやすくて困る……もう少し短く切るよ」
首筋まで伸びた髪を撫でつけながらソニアが残念そうに言った。
「こんな綺麗な髪なのに……勿体無いわ」
「いいや、鬱陶しくて堪らない。切るったら切る」
ジェルミナはソニアを見上げて、その髪に触れた。
「ソニアはもっと長く伸ばすんだよ。腰まであっていい」
「そんな……乾かすのが大変じゃない!」
ジェルミナは立ち上がってソニアの髪を指に絡ませて、唇で触れた。
「僕が乾かしてあげるから……伸ばす事。これは命令だ」
「嫌よ、私だって鬱陶しいもの」
そう言ってジェルミナの胸を押してその腕から逃れようとした。そうはさせじと、ジェルミナがソニアの腰に手を回して引き寄せる。
ふたりは声を上げて笑った。不安や悲しみを吹き飛ばすかのように笑い合う。これから先、何が起ころうとも――。
共に笑い――。
共に泣き――。
共に歩く――。
もう――。
ひとりじゃない。
「先に行ってて……着替えるから……」
ジェルミナにそう言われて寝室を出ると、キリアとダイアンがテーブルを挟んでソファーに腰掛けていた。テーブルの上には朝食が用意されている。窓には寝る前にはなかった遮蔽カーテンが下ろされている。夜明けが近いのだ。
「おはようございます、ソニア様」
キリアがソニアに挨拶する。変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。ソニアは気まずかったが、キリアが何事もなかったかのように笑いかけてくれたので、笑顔を浮かべる事が出来た。
「おはようございます、キリアさん」
そしてダイアンにも声をかける。
「おはよう、ダイアン。よく眠れた?」
ダイアンは湯気の立つコーヒーを飲んでいたが、ソニアを見て憮然とした表情で言った。
「おはよう……隣が新婚さんだもの……眠れるわけないじゃない」
それを聞いたソニアの顔が赤く染まる。キリアがクスクス笑いながら、ソニアにコーヒーを差し出した。
「どうぞ、お座り下さい。大丈夫ですよ、ソニア様。寝室の防音は完璧ですから……」
ますます赤くなったソニアは、コーヒーを受け取ってソファーに座って俯いた。
「意地悪ね、ふたり共……」
「こら!」
ジェルミナの声が叱咤するように響く。
「ソニアを虐めるな」
そう言って近付いてきたジェルミナは、ソニアの隣に腰掛けて肩を引き寄せる。それを見たダイアンがやれやれと天を仰いだ。
「朝から仲のよろしい事で……最初からそんなだと、飽きるのも早いわよ」
「そんな事は未来永劫ない」
ジェルミナがきっぱり言う。そしてにやりと笑って言い返した。
「何だ、羨ましいのか?だったらキリアと一緒すればよかったのに……」
ダイアンがコーヒーを吹き出した。幸いそれ程含んではいなかったので目の前の朝食には被害がなかったが、自分の膝にコーヒーを零してしまった。
「あっつぅ!」
するとすかさずキリアが素早く傍らのタオルを手にダイアンの側に移動して、コーヒーを拭う。ダイアンはその素早さに、ぽかんと口を開けた。
「火傷はなさいませんでしたか?」
「あ……ううん……そんな熱くなかったから……」
キリアがダイアンを見上げて安心したように笑いかけた。
「それはよかった……お召し物はシミにならないように、向こうに着いたら出して下さいね」
ダイアンは居心地悪そうに顔を背けて言う。
「ありがとう……でも洗濯くらい自分で出来るわ」
そのふたりの様子――特にダイアンの反応――を面白そうに眺めていたジェルミナが、キリアに向かって言った。
「キリア、何故お誘いしなかったんだ?」
キリアは自分の席に戻って座りながら肩をすくめた。
「お誘いはしたのですが、断られてしまいました。残念です」
ダイアンは目を白黒させていた。ソニアが吹き出すまいと必死に堪えているのが見える。
「あんた達ってば……!」
そう言いながらも、ソニアの楽しそうな様子に、胸の中に安堵感が広がっていく。
(ソニアが幸せなら、それでいい……)
その時、操縦席の方からアラーム音がした。ダイアンとソニアは驚いてそちらを見る。だがキリアとジェルミナに動揺はなかった。
「ああ……ドームとの通信可能空域に入ったのですよ。もうすぐ着きますよ」
この惑星では、頻繁に発生する電磁嵐や磁場の影響で、あらゆる通信手段が無効になる。ドーム内なら可能だが、ドーム間では情報は専(もっぱ)ら人間が移動して伝える。だからドームにはある一定の距離に近付かなければ通信は出来ないのだ。
キリアがドームと通信をした。到着の時間と迎えの事について打ち合わせている。ソニアは緊張してくるのが分かった。初めて足を踏み入れるヴァシュアのドーム。それもただの旅行者ではなく、領主の奥方としてである。迎えてくれる領民達――殆どがヴァシュア――に、どんな態度をとればいいのか。
「ソニア、大丈夫。君は普通にしていればいいんだ。気負う事はない。僕が付いているから……」
ジェルミナがソニアの肩を引き寄せて力づけるように言う。ソニアは頷いた。
「夜明けだわ」
ダイアンの声に窓を見る。遮蔽カーテンの隙間から光が差して来ている。ソニアは立ち上がり、窓に歩み寄った。ジェルミナがその後に続く。カーテンを少し開ける。長時間浴びると有害な太陽光は、夜明けのこの時間だけはそれ程害がないと言われている。
輝く太陽光がソニアを包む。そして目の前には――。
「アテナスドーム……ヴァシュアの第5ドームだよ。僕の居城だ」
ヴァシュアの人々は実際の居城ではなく、ドームそのものを居城と呼ぶ。丸い半円の巨大な黒いドームは、夜明けの光を浴びてその全貌をソニアの前に現した。
ジェルミナがソニアの両肩に手を添えている。その力強い手の感触に支えられて、ソニアは徐々に近づきつつある漆黒のドームを眺めていた。
だが――。
偽りの太陽がテラスから射す自分の部屋で、血溜まりの中に倒れている父親と、既に病院に運ばれた錯乱状態のニーナの事を――。
ソニアはまだ知らない――。
『暗闇でダンス』第1部
――End――
第2部へ続く――