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暗闇でダンス 第1部ー66



 ゆっくりとした覚醒に身を委ねて少し目を開ける。手を伸ばしてそこに居る筈の愛しい存在を探したが――。

「ソニア……?」

 伸ばした手の先に触れるのは、冷たいシーツの感触――。

 ジェルミナは跳ね起きた。隣に居る筈のソニアがいない。

「ソニア!」

「どうしたの?」

 ジェルミナの必死ともいえる呼び掛けに、ソニアがバスルームから顔を出した。見るとすっかり身支度を済ませている。それを見たジェルミナは、安堵の溜め息をついた。

「やだ、ジェルミナったら……」

 ソニアがジェルミナを見て吹き出した。

「寝癖がひどいわ……よく乾かさなかったでしょう?」

 ソニアがベッドに近付く。そして両手を延ばしてジェルミナの髪に触れた。その時――。

「きゃっ……」

 ジェルミナがいきなりソニアの腰を抱(いだ)いた。そして顔を胸に埋める。必死にすがりつくような抱擁であった。

「どうしたの?」

 ジェルミナはソニアの胸で、いやいやをするように首を振った。まるで子供の仕草である。

「起きたら横にいないから……ひとりで目覚めるのは……もう嫌だ……」

 ソニアははっとした。幼い頃から病がちだった母親はジェルミナを抱いて眠る回数が少なかった。母親の負担を減らす為にジェルミナには乳母が付けられたらしいが、あまり愛情深い存在とはいえなかったらしく、ジェルミナはいつもひとりで眠りに就いたという。そんな話を年に一度ガイナン邸に来ていたジェルミナが、ソニアに語った事があった。


――眠りに就くのも目覚めるのも、いつもひとり――


(私も母親がいなかったけど、ニーナがいた……でもジェルミナには……甘えられる存在がいなかったんだ……)

 ソニアはジェルミナの頭を掻き抱いた。すがりついてくるその腕が、堪らなく愛おしい。

「あまりにもよく寝ていたから……ごめんね。これからは目が覚めるまで側にいるから……」

「とりあえず……」

 ジェルミナが顔を上げて、照れくさそうに笑った。

「起こして欲しい……僕は朝の目覚めがすこぶる悪いんだ。なかなか目が覚めない……今日はびっくりして飛び起きたけど……」

「まあ、私は目覚まし代わりなの?失礼しちゃうわね」

 ソニアがそう言って唇を尖らせた。するとジェルミナは笑いながらソニアの頭を引き寄せて、軽いくちづけを交わす。

「これからは毎朝おはようが言える……おはよう、ソニア……」

 ソニアもまた笑いながら額をジェルミナの額に付けて言う。

「おはよう、ジェルミナ」

「もう、熱はないね」

「一晩眠れば下がるわ。大丈夫よ」

 ジェルミナが心配そうな表情を浮かべた。そんなジェルミナににっこりと笑いかけて、その手を引いた。

「さあ……その寝癖を何とかしなきゃ。いらっしゃい」

 ゆうべとは反対に、今度はジェルミナを鏡の前に座らせる。ソニアは寝癖のついたジェルミナの金髪を少し湿らせてとかしていった。

「本当に綺麗な金髪ね……絹みたいな手触りだわ」

「寝癖が付きやすくて困る……もう少し短く切るよ」

 首筋まで伸びた髪を撫でつけながらソニアが残念そうに言った。

「こんな綺麗な髪なのに……勿体無いわ」

「いいや、鬱陶しくて堪らない。切るったら切る」

 ジェルミナはソニアを見上げて、その髪に触れた。

「ソニアはもっと長く伸ばすんだよ。腰まであっていい」

「そんな……乾かすのが大変じゃない!」

 ジェルミナは立ち上がってソニアの髪を指に絡ませて、唇で触れた。

「僕が乾かしてあげるから……伸ばす事。これは命令だ」

「嫌よ、私だって鬱陶しいもの」

 そう言ってジェルミナの胸を押してその腕から逃れようとした。そうはさせじと、ジェルミナがソニアの腰に手を回して引き寄せる。
 ふたりは声を上げて笑った。不安や悲しみを吹き飛ばすかのように笑い合う。これから先、何が起ころうとも――。



 共に笑い――。
 共に泣き――。
 共に歩く――。



 もう――。


 ひとりじゃない。






「先に行ってて……着替えるから……」

 ジェルミナにそう言われて寝室を出ると、キリアとダイアンがテーブルを挟んでソファーに腰掛けていた。テーブルの上には朝食が用意されている。窓には寝る前にはなかった遮蔽カーテンが下ろされている。夜明けが近いのだ。

「おはようございます、ソニア様」

 キリアがソニアに挨拶する。変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。ソニアは気まずかったが、キリアが何事もなかったかのように笑いかけてくれたので、笑顔を浮かべる事が出来た。

「おはようございます、キリアさん」

 そしてダイアンにも声をかける。

「おはよう、ダイアン。よく眠れた?」

 ダイアンは湯気の立つコーヒーを飲んでいたが、ソニアを見て憮然とした表情で言った。

「おはよう……隣が新婚さんだもの……眠れるわけないじゃない」

 それを聞いたソニアの顔が赤く染まる。キリアがクスクス笑いながら、ソニアにコーヒーを差し出した。

「どうぞ、お座り下さい。大丈夫ですよ、ソニア様。寝室の防音は完璧ですから……」

 ますます赤くなったソニアは、コーヒーを受け取ってソファーに座って俯いた。

「意地悪ね、ふたり共……」

「こら!」

 ジェルミナの声が叱咤するように響く。

「ソニアを虐めるな」

 そう言って近付いてきたジェルミナは、ソニアの隣に腰掛けて肩を引き寄せる。それを見たダイアンがやれやれと天を仰いだ。

「朝から仲のよろしい事で……最初からそんなだと、飽きるのも早いわよ」

「そんな事は未来永劫ない」

 ジェルミナがきっぱり言う。そしてにやりと笑って言い返した。

「何だ、羨ましいのか?だったらキリアと一緒すればよかったのに……」

 ダイアンがコーヒーを吹き出した。幸いそれ程含んではいなかったので目の前の朝食には被害がなかったが、自分の膝にコーヒーを零してしまった。

「あっつぅ!」

 するとすかさずキリアが素早く傍らのタオルを手にダイアンの側に移動して、コーヒーを拭う。ダイアンはその素早さに、ぽかんと口を開けた。

「火傷はなさいませんでしたか?」

「あ……ううん……そんな熱くなかったから……」

 キリアがダイアンを見上げて安心したように笑いかけた。

「それはよかった……お召し物はシミにならないように、向こうに着いたら出して下さいね」

 ダイアンは居心地悪そうに顔を背けて言う。

「ありがとう……でも洗濯くらい自分で出来るわ」

 そのふたりの様子――特にダイアンの反応――を面白そうに眺めていたジェルミナが、キリアに向かって言った。

「キリア、何故お誘いしなかったんだ?」

 キリアは自分の席に戻って座りながら肩をすくめた。

「お誘いはしたのですが、断られてしまいました。残念です」

 ダイアンは目を白黒させていた。ソニアが吹き出すまいと必死に堪えているのが見える。

「あんた達ってば……!」

 そう言いながらも、ソニアの楽しそうな様子に、胸の中に安堵感が広がっていく。

(ソニアが幸せなら、それでいい……)

 その時、操縦席の方からアラーム音がした。ダイアンとソニアは驚いてそちらを見る。だがキリアとジェルミナに動揺はなかった。

「ああ……ドームとの通信可能空域に入ったのですよ。もうすぐ着きますよ」

 この惑星では、頻繁に発生する電磁嵐や磁場の影響で、あらゆる通信手段が無効になる。ドーム内なら可能だが、ドーム間では情報は専(もっぱ)ら人間が移動して伝える。だからドームにはある一定の距離に近付かなければ通信は出来ないのだ。
 キリアがドームと通信をした。到着の時間と迎えの事について打ち合わせている。ソニアは緊張してくるのが分かった。初めて足を踏み入れるヴァシュアのドーム。それもただの旅行者ではなく、領主の奥方としてである。迎えてくれる領民達――殆どがヴァシュア――に、どんな態度をとればいいのか。

「ソニア、大丈夫。君は普通にしていればいいんだ。気負う事はない。僕が付いているから……」

 ジェルミナがソニアの肩を引き寄せて力づけるように言う。ソニアは頷いた。

「夜明けだわ」

 ダイアンの声に窓を見る。遮蔽カーテンの隙間から光が差して来ている。ソニアは立ち上がり、窓に歩み寄った。ジェルミナがその後に続く。カーテンを少し開ける。長時間浴びると有害な太陽光は、夜明けのこの時間だけはそれ程害がないと言われている。
 輝く太陽光がソニアを包む。そして目の前には――。

「アテナスドーム……ヴァシュアの第5ドームだよ。僕の居城だ」

 ヴァシュアの人々は実際の居城ではなく、ドームそのものを居城と呼ぶ。丸い半円の巨大な黒いドームは、夜明けの光を浴びてその全貌をソニアの前に現した。
 ジェルミナがソニアの両肩に手を添えている。その力強い手の感触に支えられて、ソニアは徐々に近づきつつある漆黒のドームを眺めていた。




 だが――。






 偽りの太陽がテラスから射す自分の部屋で、血溜まりの中に倒れている父親と、既に病院に運ばれた錯乱状態のニーナの事を――。





 ソニアはまだ知らない――。






『暗闇でダンス』第1部
――End――



第2部へ続く――




暗闇でダンス 第1部ー65



 白い異形(いぎょう)の影が音もなく近づいてくる。ニーナは恐怖で引きつりながらも、ロベルトを庇って両手を広げた。

「どきな……」

 白い影が軽く右手を振る。するとニーナの体が弾かれたようにロベルトの前から吹き飛んだ。その小柄な体は、背中から壁に当たって鈍い音を立てる。

「ニーナ……」

 ロベルトが頭を巡らせてニーナの姿を視線に捉える。ニーナはうめき声を上げながら、ロベルトを見ている。だが、体を動かす事は出来ないようだ。背骨をやられたのか――。

「邪魔をしなきゃ、命までは取らないよ。無関係な者は殺さない。あたしは優しいんだよ」

 ロベルトの前に立った異形(いぎょう)の者は、その場でしゃがみ込んで彼と同じ視線になる。近くで見ると、顔立ちはやはり整っている。しかしその色の異様さが美しさに勝り、不気味な雰囲気を醸し出しているのである。

(アルビノ……体質……)

 アルビノとは、髪や皮膚のメラニン色素が先天的に欠損している生物の突然変異の事である。髪や皮膚が白いのが特徴で、多くは瞳孔が朱色になる。そして盲目である事が多い。

「あたしを覚えているかい?まだ2歳だったけどさ、こんな成りだから覚えているだろう?」

 ロベルトの記憶の底から蘇る小さな白い影と、目の前の影が重なる。

「ま……さか……」

 朱色の片目が輝きを増す。だがその目は、ロベルトに焦点が合っていなかった。

「覚えていたかい!そりゃ嬉しいねぇ……じゃあ何故自分が殺されなくちゃならないのか、それも分かるだろう?」

 蒼白い手の平が、ロベルトの胸に刺さっているナイフの柄の先端に押し当てられる。

「このままでも出血多量で死ぬけどさ……お前はあたしが殺らなきゃならないんだ……少しずつ心臓に食い込ませてあげるよ……」

「……!」

 影が牙を剥き出しにして笑った。手の平がナイフの柄には触れていないのに、確実に刃がめり込んでいく。

「ぐ……があ……」

 ロベルトが身を捩る。微かな悲鳴がニーナの口から零れる。

――少しずつ
――少しずつ

 だが確実に心臓にめり込む鋭い切っ先――。

「安心しな……お前の娘もじきに後を追わせるからな」

 それを聞いたロベルトが、目を見開いて影に掴みかかろうとしたその瞬間――。

 ナイフが深く心臓を貫いた――。

 声もなくその場に倒れ込むロベルトの体が最後の痙攣に震える。やがてその動きも静まり、流れ出る血潮がその体を染めていった。

「ざまあみろだ……本当はもっと苦しむべきだったんだぞ。慈悲深いあたしに感謝しな」

 影はそう言い放つと、倒れているニーナに近付いて行く。そしてしゃがみ込んでニーナの頭を右手で掴んだ。

「殺しゃしないよ。殺しゃしないが、記憶は消させてもらうからね。その途中で気が触れても、それはあたしの責任じゃないからね」

 ニーナの体がピクリと震えた。次第に目の焦点が合わなくなってくる。
 その時、遠くからサイレンの音が近付いてきた。

「おやおや……ようやく救いの手がいらしたみたいだよ。死体運搬車の方がいいんじゃないかねぇ……」

 影がマントを体に巻き付けて、フードを頭から被った。その異形(いぎょう)の姿が漆黒に包まれた次の瞬間、足元に光の輪が現れて同時に姿が掻き消えた。

 後には残響が残る――。


――次は赤い髪の女だ――






 アントニーは走った。ひたすら走った。もう何も考えられない。求めるのはただひとり――。


――ソニア……ソニアソニアソニア――


 目の前に浮かぶ赤い髪の面影を追いかけて――。


 走る、走る、ひたすら走る――。


 そして――。


 悪意の糸の罠に飛び込んだ――。






 光の輪が現れる。同時に現れた漆黒の影が、目の前に佇む夜色のマントに駆け寄った。

「グリーグ様……」

 夜色のマントは振り向かない。声のみが駆け寄る者の耳に響く。

「恨みは晴らせたか……ゼナファン……」」

 フードを脱いだ白い顔が嬉しそうに笑う。先程の非情さは影を潜め、無邪気とさえいえる笑い――。

「はい……積年の恨みを晴らせました。残るはあの男の娘……」

「ならぬ」

 嬉しそうに語る白い異形を途中で遮るのは、氷のような冷たい言葉。

「グリーグ様……」

 笑みの消えた朱色の瞳が、夜色の背中を縋るように見詰める。だがその背中は振り返る事なく、冷たい言葉を続けた。

「ジェルミナの奥方は私が奪う……あの女にも渡さない……刻印の上書きを施し私のものにする……手を出す事は許さぬ」

「刻印の上書きは禁忌です……」

 ゼナファンと呼ばれた白い異形(いぎょう)の影は、その朱色の瞳に振り向かぬ背中を映して呟いた。

「禁忌だと……?」

 夜色のマントを羽織ったグリーグの口から失笑が洩れる。

「何を今更……ヴァシュアも人間も敵に回そうとしている私に禁忌など、最早存在せぬわ……」

「しかし、あのような娘!グリーグ様が刻印を賜る価値などございません!」

 グリーグがちらりとゼナファンを振り返る。その横顔には何の感情も浮かんでいなかった。ただ美しい冷たい彫像のごとくに――。

 しかし――。

 その唇から発せられる言葉には、はっきりとした侮蔑の感情が込められていた。

「私に意見するか……半端者の白子が……お前のような異形(いぎょう)が生きてこれたのは、私の情けがあったからこそ……その事を、努々(ゆめゆめ)忘れるでない……」

 ゼナファンは膝を付き、その場で平伏する。微かに体が震えていた。怒り故か、恐れ故か――はては悲しみ故か――。
 その様子を見て、グリーグはふっと笑った。その笑いは、ソニアが一瞬垣間見たあのゼイフォン卿と同じ微笑み――しかしゼナファンはそれを見る事なく、ひたすら平伏している。やがてその微笑みはすぐに消えて、冷たい彫像に戻ったグリーグが、足元を見やって言う。

「食事をしようと糸を張っていたら、蝶ならぬゴミがかかった……さて、拾うべきか捨て置くべきか……」

 それを聞いたゼナファンが、グリーグの足元を見る。そこには男が俯せに倒れていた。

「この男は……さっきの……」

 ゼナファンがガイナン邸の前に着いた時、飛び出してきた男――。ロベルト・ガイナンの胸に、ナイフを刺したであろう男――。
 ゼナファンがその事をグリーグに伝えると、

「ほお……」

 と呟いたグリーグが、男――アントニーの顔を覗き込む。

「役に立つやもしれぬな……拾っていくか……ゼナファン!」

「は、はい……!」

 ゼナファンが急いで立ち上がった。グリーグが顎でアントニーを示す。

「それを拾え……さっさとここから去るぞ……偽りとは言え、もうじき太陽が上がる……不愉快な光なぞ浴びたくもないわ……」

 グリーグはさも嫌そうにそう言い捨てた。ゼナファンが頷いて、倒れているアントニーの襟首を掴んで持ち上げる。そしてそのままズルズルと引き摺ってグリーグから少し離れた場所に移動した。
 ゼナファンはフードを被りグリーグをちらりと見た。その様子は心なしか寂しそうに見える。

「では……移動致します……」

 次の瞬間、三人を光の輪が囲み、その姿を包む。やがて光が消えた後には、何事もなかったように微(そよ)とした風が吹いていた。



暗闇でダンス 第1部ー64



 ジェルミナはソニアが泣き止むまで、優しくその背中を抱き締めていた。やがてソニアの泣きじゃくる声が小さくなってくる。

「ソニア……」

 ジェルミナはソニアの濡れた髪を指で櫛けずる。

「ねぇ……熱があるの?熱いよ……」

 そう心配そうに訊いてくるジェルミナに、ソニアは頷く。

「いつもの事だから……大丈夫……」

「大丈夫じゃないよ。髪を乾かそう。このままじゃ駄目だ」

 ソニアはジェルミナに支えられながらゆっくりと立ち上がった。ガウンに袖を通すと、ジェルミナが前を留める。すぐ側の洗面台の前に座らされたソニアは、ジェルミナがドライヤーで髪を乾かしてくれる間、ぼんやりとしていた。ジェルミナは優しく髪を乾かしてくれる。やがて完全に乾ききった髪の房に、ジェルミナは頬ずりする。

「ソニアの髪……大好きだよ。初めて会った時から、何て綺麗な髪なんだろうと思っていた……」

「私は……あまり好きではないの……」

 ソニアが俯いて呟く。ジェルミナはソニアの横に膝を付いて顔を覗き込んだ。

「ソニア……君は僕の容姿が好きなの?」

 ソニアが弾かれたように顔を上げる。目の前のジェルミナの表情が少し寂しげだった。

「ちが……私は……」

 止まった筈の涙がまた溢れて流れる。それをジェルミナが指で拭う。

「ああ、ごめん……僕はね……ソニアの髪も肌も綺麗な緑色の瞳も……ほくろのひとつひとつまで好きだよ……」

 そして、少しおどけて続ける。

「ちょっとした擦り傷も、小さな打撲の痕も、欠けた爪も、全部全部ひっくるめて大好きだ」

 ソニアが驚いて指を見ると、右手の薬指の爪が一部欠けていた。

「僕はね、ソニアの全てを愛してる。そしてソニアもそうだと信じているよ」

 ジェルミナが立ち上がり、ソニアの頭を胸に掻き抱いた。

「これから辛かったり悲しかったりしたら、僕の胸で泣いてくれ……ひとりで泣かないで……お願いだから……」

 ソニアは小さく頷いた。先はどうなるか分からない。でも今はこの胸に甘えよう――。
 その時、ソニアは自分を抱(いだ)くジェルミナの袖から覗く左腕の傷に目を留めた。
 変貌してしまった母親によって付けられた傷――。
 4年前には酷く引きつれた痕だったが、今は目立たない白い線になっている。ジェルミナがソニアの視線に気付いて、笑いながら言った。

「もう殆ど分からないだろう?僕のヴァシュアの血も大したものだ。その内殆ど分からなくなるよ」

 ソニアは傷痕を手で撫でる。

(傷痕がなくなっても……)


 ジェルミナの心の傷は消えない――。


(私よりずっとずっと辛い筈なのに……私が支えにならないといけないのに……何て情けないんだろう……)

「あ……」

 ソニアが思わず声を上げた。突然ジェルミナがソニアを横抱きに抱えたのだ。いわゆる“お姫様抱っこ”である。

「ジェルミナ……!重いから!歩けるから!」

 ソニアの訴えを無視して、ジェルミナはそのまま開け放たれたドアを通ってベッドに向かう。そしてソニアの体をシーツの上にそっと横たえた。

「何が重いだ。羽根みたいに軽いじゃないか。君はもっと太らなきゃ駄目だ。体力つけて、もっと健康にならなきゃ……熱なんか吹き飛ばすんだよ」

 ジェルミナが笑いながらソニアの頬を優しく撫でた。

「僕もシャワーを浴びてくるから待ってて……」

 もう何も考えまい――ソニアはそう思い目を閉じた。今はこの幸せに浸ろう。ジェルミナに甘えよう。
 少しまどろみかけた時、隣にジェルミナが入ってきた。ソニアはその胸にすり寄る。ジェルミナの腕がソニアを優しく包んだ。

「ソニア……」

 ジェルミナの声が聞こえる。とても心地よい澄んだ声。

「1年前に君が死にそうな目に遭っていたなんて……知らなくてごめん……」

「あれは……私が悪いの。軽はずみな事をしちゃったのよ。ハーミリオンおば様だからこそ出来ていた事なのに、自分の器を知らなすぎた……」

「シャンティが君を助けたんだね……」

 その口調があまりにも寂しげだったので、ソニアはジェルミナの背中に腕を回して抱き締めた。

「シャンティが羨ましいよ。あの子は君を癒やす事が出来る。僕には出来ない事が出来るんだ」

「ジェルミナ……貴方だって私を癒やしてくれてるわ」

 ソニアがそう言うと、ジェルミナが笑った気配がした。

「シャンティは君の命を長らえる事が出来る。だから君の側には置くよ。でも……渡さないから……」

「何を言ってるの?シャンティはまだ10歳よ。子供なのよ」

「僕が10歳の時には、もう君を奥方にしようと決めていたよ」

 そう言うジェルミナに、ソニアは黙り込んだ。するとジェルミナは少しソニアから体を離した。そしてソニアの顔を上向かせて視線を合わせた。

「笑っていいよ。僕はシャンティに嫉妬してるんだ。彼が羨ましくて堪らない。だけど君は僕のものだ。彼が君にとっての“癒やす者”であろうとも、絶対に譲らないからね」

 そうして彼はソニアを抱き締める。他の誰でもない、彼だけの特権――。

「5歳の時……父上に抱かれた君を見上げた時、母上と見た人間のドームでの美しい夕陽を垣間見た……」

「えっ……」

「母上の具合がまだそれ程悪くはなかった頃、父上に連れられて一度だけ母上と人間のドームに行ったんだ。知っているだろうけど、ヴァシュアではドームの内側の天候プログラムは常に曇り空だ。太陽は覗かない。昼は薄暗い曇り空と夜は漆黒の闇の世界……僕はその時初めて夕陽を見たんだ……美しかったよ……その夕陽と同じ色が僕を見下ろしていたあの瞬間に、僕は恋に落ちたんだ……」

 ジェルミナがうつらうつらとしていた。彼は喋りながら夢心地になっていた。やがて静かな寝息を立て始める。ソニアはその寝顔を見ながら、ジェルミナの言った事を反芻する。

――父上に抱かれた君を見上げた時――

――その夕陽と同じ色が僕を見下ろしていた――

(私はゼイフォン卿に抱き上げられていたの?)


 記憶にない――全く記憶にないのだ。ソニアの記憶では――。

『可愛らしいお嬢様ですね。初めまして、ソニア嬢』

 そう言われて頭を撫でられた。そして目の前に金色の煌めき――ジェルミナの姿を認めたのだ。

(抱き上げられた……)



――私を引き寄せ、優しく抱き締める腕――

――私は
この腕を
この胸を
この人を
知っている――



(間違いない……)

 ソニアは背筋が寒くなるのを感じた。記憶を操作されていたのか、ただ忘却していただけなのか。
 ただ、間違いのない事がひとつ――。

(私に夢送りをしていたのはグリーグ卿ではない。あれは……あれは……)





――ゼイフォン卿だ――



暗闇でダンス 第1部ー63



「ソニア様……何か私に訊きたい事があるのではないですか?」

 キリアの問い掛けに我に返ったソニアは、手にした果実水を飲み干してグラスをテーブルの上に置いた。そしてキリアに視線を向ける。

「キリアさん……あの……教えて頂きたい事が……」

「縁(えにし)の切り方ですか?」

「え……」

 キリアは漆黒の瞳でソニアを見据えていた。じっと見つめられると、吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥りそうになる。彼は目を細めてソニアから視線を逸らした。

「分かりますよ……ジェルミナ様から切れるのなら、自分からも切れるのではないかとお思いですね?」

「私は……本当に先が長くはないのです。自分の体の事は、よく分かっています。だから……」

「お教えできません」

 ソニアの声に重なるようにキリアがきっぱりと言った。その断固とした拒否を聞いて、ソニアは顔を歪める。

「キリアさん……」

「ソニア様……私がジェルミナ様の望まない事をお教えすると思いますか?」

 キリアの言葉が胸に刺さる。ソニアは俯いた。涙が溢れてくる。

「ソニア様……」

 キリアの声が和らいだ。

「ジェルミナ様は貴女と同じ時間を生きる事を選びました。どうかその思いを受け止めて差し上げて下さい」

「でもっ……!」

 ソニアは顔を上げて声を上げる。溢れた涙が頬を伝った。

「ジェルミナには生きて欲しい!私の運命に巻き込むなんて嫌!生きて……欲しいの……」

 嗚咽が漏れる。幸せな筈なのに、こんなに辛い。

「ソニア様……どうか聞いて下さい……」

 キリアが懇願する。ソニアは嗚咽を抑えながら小さく頷いた。

「ジェルミナ様は、貴女に初めて出逢ってから、ずっとずっと貴女を思ってらしたのですよ。ハーミリオン様が……あんな風になられて……寄宿学校に入られてからも、混血だという事でずいぶん辛い目にも遭って来ました。今回ヴァシュアの領主になるのに際しても、血の滲むような努力をなさいました。それら全てが、貴女の為なのです。貴女はジェルミナ様の生きる希望なのですよ」

 キリアの言葉にずっと頷きながら、それでもソニアの決意は変わらない。

「私は……やり方を自分で見つけます。どうしても……ジェルミナを生かしたい……それだけは譲れません……キリアさん……」

 ソニアは立ち上がり、キリアに告げた。

「ジェルミナの時間を数年間だけ私に下さい。必ずお返ししますから……」

「ソニア様……それは……」

 ソニアは頭を下げた。そしてすぐにきびすを返してドアに向かい、その向こうに消えた。
 その後ろ姿を見送って、キリアは小さな溜め息をつく。

「ジェルミナ様のお心は全て貴女にあります……空っぽな状態のあの方を返されても……困りますよ……第一……」

 キリアは肩をすくめた。

「縁(えにし)は力の強い方からしか切れない……いくら貴女が切ろうとしても所詮は人間……拒否されればそれまでです。」







 そっと閉めたドアに背中を押し付けて、ソニアはベッドの中のジェルミナを見た。安らかな寝顔――彼が安心して休める居場所になりたい――


(でも私には時間がない……)

 ソニアはふらつきながら左手にあるドアを開いて中に入った。そこは脱衣場である。ゆるゆると服を脱いで、シャワー室に入る。熱いお湯を頭から浴びて、体を洗った。石鹸の甘い香りが体を包む。
 シャワー室を出てから体に付いた水滴を拭う。髪の毛を拭きながら、ふと横を見ると、そこには等身大の鏡に映る自分の姿があった。
 ソニアは鏡に向かう。手を伸ばすと、向こう側からも伸びてくる手――手の平で、鏡の冷たい感触を確かめながら、自らの裸身を眺める。
 特筆する程の容姿ではないと思う。個性のない何処にでもいる、ちょっと綺麗な娘。今は濡れそぼった赤い髪が顔や肩に貼りつき、何とも貧弱な様相である。ジェルミナの輝かんばかりの美貌には及ぶべきものではない。ダンスパーティーの時に感じた嫉妬と羨望の視線の中に、何であんな娘が――という蔑みの視線を確かに感じた。その上、自分は――。
 足元がふらつき、たまらずその場に座り込む。熱が出てきている。

(いつもの事……)

 心に負担を感じた日は、必ずその夜に発熱した。昨日からの出来事は、確実にソニアの心を疲弊させている。ダイアンから訊くまでもなく、自分の体が徐々に衰えていっているのは随分前から分かっていた。長生きはしない――それも分かっていた。覚悟はしていた――筈なのに――。

(死にたくない……)

 ジェルミナの側にいつまでもいたい。たった数年ではなく、もっと長く。

(生きる時間の長さが違うのは分かっているけど……)

 ジェルミナはヴァシュアのダンピールだから、自分とは生きる時間の速さが違う。だから確実に自分の方が先に死ぬ。

(でも……出来るだけ長く……一緒にいたい……)

 欲が出てきている。それがソニアは堪らなく嫌だった。愛される喜びに我を忘れてはいけない。

(縁(えにし)を……切るの……)

 左胸に刻まれた刻印を触れる。ジェルミナとの絆――。いつの間にか涙が止めどなく流れていた。鏡に額を押し付けてむせび泣く。高くなる熱と心臓の動悸で息が苦しい。

(シャンティ……)

 ふと浮かぶ笑顔が、ソニアの心に安堵感を与えた。

(会いたい……)

 その時、ソニアの肩にふわりとガウンが掛けられた。驚いて前を見上げると、鏡にジェルミナの苦悩に満ちた顔が映っている。

「ジェルミナ……」

 ジェルミナは屈みこんで、ソニアをガウンで包み込むようにして後ろから抱き締めた。その口から苦しそうな囁きが洩れる。

「もっと僕に甘えて……頼って欲しい……こんな所でひとりで泣かせる為に連れてきたんじゃない……」

「……」

 ソニアは振り返ってジェルミナの首にしがみついた。そして声を上げて泣きじゃくった。子供の頃でさえ、こんな風に泣いた事はない。いつも物陰でひっそりと泣く子供だったのだ。なのにジェルミナの前では思いっ切り泣けた。その事に驚きつつ、ソニアは泣きじゃくる声を止められなかった。



暗闇でダンス 第1部ー62



「ロベルト……ロベルト……」

 その呼びかけに目を開く。目の前には見慣れたニーナの顔――涙を流してくしゃくしゃに歪んでいる。

「ニーナ……」

「ああ……!気が付いたのね……すぐに救急車が来るから……しっかり!」

 ロベルトの左胸にはまだ鈍い輝きを放つナイフ――見ると、根本までは刺さっていなかった。

「心臓までは達していないのよ……ああ、神様!感謝致します!」

 だが、出血が酷かった。血管を傷付けているらしい。

(これは……駄目だな……)

 ロベルトは覚悟を決めた。そして涙に濡れているニーナの頬に手を伸ばして触れる。

「ロベルト……?」

「本当に……すまない事をした……長い間苦しめて……だが悪いのは私だ。全ての罪は私にある……ソニアにも……伝え……」

 ニーナがロベルトの手の平を頬に押し付けて首を振る。

「いいえ……いいえ!私が悪いの!私が!自分の気持ちを抑えられなかったから……」

 長い年月が――ふたりの間をよぎる――。忘れかけていた熱情が、そしてその罪が――ニーナの心を震わせた。

 その時――。

 微かなキーンという音が背後でした。振り返ると先程見た――。

「光の……輪……」

 ニーナの胸に安堵感が広がる。ソニアなの?――。
 だが――小さな光の輪と同時に現れた人影は――。

「えっ……」

 ――異様な人影であった。
髪は――銀色に見えるが、よく見るとどうやら白髪である。ろくに手入れをしていない肩までの白髪に縁取られた蒼白い顔は、整ってはいるがどこか不気味で、右目には黒い眼帯をしており、残りの左目は――。

(こんな目の色は……見た事がない……)

 ニーナは恐怖に身を竦ませた。その瞳の色はまるで血のような朱色である。蒼白な顔に白い髪、眉毛も睫も白く唇さえ蒼白いその中で、ひと際異彩を放つ朱い瞳が、ニーナ達を見据えていた。
 やがて異形(いぎょう)の人影は、にやりと笑った。その唇の間から覗いたのは、鋭い切っ先の牙――。

(ヴァシュア!)

 ジェルミナに小さな牙がある事は知っている。ヴァシュアが持っている牙――それはほんの小さなものであり、目立つ程のものではない。しかし目の前の異形(いぎょう)の影が持つ牙は、その存在感が際だっており、それだけで恐怖の対象と成りうるものである。
 その白い影が纏っているのは漆黒のマント――体つきから女性と推測される。次の瞬間発せられた声で、それは証明された。

「ああ、よかった……まだ死んでないんだね。あたしの手で殺せる……よかった……」

 少し掠れ気味の紛れもない女性の声は、安堵したように、しかし剣呑な言葉を発した。






 ソニアは微かに寝息を立てるジェルミナの顔を見下ろした。安心しきったような寝顔は、まだ少年の面影を残している。先程まで激しい熱情でソニアを愛してくれた逞しさは潜められて、あどけなく眠る姿はまるで天使のようである。
 初めて出逢った幼き頃と全く変わらない寝顔――ソニアの胸に愛しさが湧いてくる。やがて意を決したように頷くと、ソニアはベッドから降りて、床に散らばる服を身に付けた。ジェルミナは深い眠りに落ちている。その寝顔を一瞥してから、そっとドアに向かう。静かにノブを回して少し開いたドアの隙間から、ソニアはそっと滑り出た。
 後ろ手にドアを締めて前を見る。そこにはキリアが窓の側に立ち、外側の漆黒の闇を見つめていた。キリアの視線がソニアに向かう。

「どうなさいました?」

 ソニアは緊張した。キリアの前に立つと、妙な緊張感に身が引き締まる。彼から発せられる感情の波動がそうさせるのか、ソニアには分からなかった。
 ただとても気になる。過去を語るキリアから伝わってきた感情が、たまらなくソニアを落ち着かない気持ちにさせるのだ。

「あ、あの……喉が乾いて……」

 そう言うと、キリアは優しい笑いを浮かべた。こんなに優しい穏やかな微笑みを浮かべる人を前にして、なぜ私はこんなにも緊張するのだろうか――ソニアはそう思う。

「どうぞお座り下さい」

 キリアがソファーにソニアを誘(いざな)う。ソニアは頷いて静かに腰掛けた。
 すぐにキリアが飲み物を入れたグラスを持ってきて、ソニアに手渡す。

「美味しい……」

 ひと口飲んだソニアの言葉に、キリアが変わらず穏やかに言う。

「先程、ダイアン嬢も気に入られたご様子でした。ヴァシュアの果実水です。私は……甘い物が苦手なので、飲まないのですけど……」

「あら、私の父も甘い物が苦手なのよ。男の人は苦手な方が多いわね」

 それを聞いたキリアは、少し驚いた風にソニアを見ていたが、やがてどこか嬉しそうに言った。

「貴女は……私を普通に扱って下さるのですね。ヴァシュアではなく、普通の人間のように……」

 空気の刃(やいば)などという、危険な技を身に付けた者が、普通の人間である筈もない。キリアは今まで出逢った人間達の反応――まるで化け物を見るような目を、当たり前の反応だと思っている。だが、ソニアは初めて逢った時から違っていた。

『初めまして、ソニアです』

 にこやかに笑いながら差し出された手は、とても暖かかった。他人が傷付くよりも自分が傷付く方を選ぶ女(ひと)――。

「普通の人間?貴方もジェルミナも私達と何も変わらないわ。ヴァシュアだって……ゼイフォン卿はとてもお優しかったわ」

「ありがとう……そして先程も……ありがとう」

 ソニアははっとした。キリアから感じた波動に、たまらず抱きついたあの行為は――。

(この人は……何かを求めている……何を……一体何を……)

 あの時――視線を合わせた瞬間に、何かを掴んだ気がした――。
 今は――分からない。


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プロフィール
月乃みとさんのプロフィール
性 別 女性
誕生日 12月15日
系 統 普通系
血液型 O型