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暗闇でダンス 第4部ー76

 
(第276話)


 嬉しそうににこやかに笑うソニアが、唇に笑みを残したまま続けた言葉は、再びダイアンを驚かせた。

「もうひとつ、お願いがあるの。あのね……あなたに女の子が生まれたら、私の名前をミドルネームに付けて欲しいの」

「えっ!?」

 思いがけない懇願だった。ダイアンは、すぐに言葉を返せなかった。

「お互いの名前を、お互いの娘に付けるのよ。素敵でしょ?」

 そう言ってますますにこやかに笑うソニアに、ダイアンが慌てて返した。

「ちょっと待ってよ。あたしに女の子って……あたしが子供を産む訳ないじゃない!」

 するとソニアは、首を傾げてきょとんとした表情になった。そして、

「あら、どうして?」

 と、屈託のない口調でダイアンに訊く。

「だって……あたしが母親なんて……有り得ないわ!」

 母親になったソニアなら容易に想像出来る。だが自分は駄目だ。赤ん坊を抱いた姿など、とてもじゃないが浮かばない。もとよりダイアンは、子供を産むつもりはないのだ。それは、相手がスティーブンであっても変わらない決意だ。

「あたしは……あたしには、子供を育てる余裕はないわ。色々したい事は山ほどあるし……」

「だから……みんなで育てるのよ。あなたが母親業に専念する必要はないわ。仕事をして帰ってきたらお母さんとして、ギュッと抱き締めてあげるの」

 そう言って、ソニアは我と我が身を抱き締めた。それは、愛し子を抱(いだ)く母親の仕草だった。
 だがダイアンは、思いもよらぬ展開に混乱していた。自分が母親として子供を抱く?一一駄目だ。そんな未来は有り得ない。

「だから……無理だって!」

 するとソニアは、唇に笑みを浮かべたまま、真剣な眼差しでダイアンを見据えた。そして静かに話し出す。

「ダイアン……難しく考える事はないのよ。女はね。自然に母親になれるのよ。そういう風に、心も体も出来てるのよ。ダイアンだってそうよ。きっと、産みたくなるわ」

 ダイアンを見るソニアの瞳は真っ直ぐで、何の迷いもなかった。全ての女性が、母性愛溢れていると信じて疑っていないのだ。
 だが、ダイアンは知っていた。軍の一員として荒野を巡る内に見た娼婦宿や辺境で働く子供達は、その殆どが実の親に売られたという現実を一一。その中には、母親に捨てられた子供も少なからずいた。泣く泣く手離した母親もあるだろうが、中には最初から“売るつもり”で子供を身ごもる女もいるのだ。
 荒野に出た事のないソニアは、その現実を知らない。だがダイアンは、今それを知らせるつもりはなかった。いつかは知る時が来るかもしれない。その時に、ソニアは苦しむだろう。打ちひしがれるに違いない。それでもソニアは、きっと立ち直る。そしてそれは、ソニアが進むべき道を示すきっかけになるかもしれない。その為にも、ソニアはダイアンの口からではなく、自らの目で現実を見る必要があるのだ。
 だから今は、ソニアの理想に合わせよう。ソニアの願いを受け入れよう。そう思い、ダイアンはソニアに向かって肩をすくめて頷いた。

「仕方ないわねぇ……確約は出来ないけど、万が一あたしに娘が生まれたら、ミドルネームにあなたの名前を貰うわ」

 するとソニアは、ほっとしたような表情を浮かべた。心なしか、目が潤んでいるように見える。

「ありがとう、ダイアン。楽しみが増えたわ。これからもずっと一緒にいて、子供を産んで育てて……孫の顔まで見なくちゃね」

 孫の顔を見るどころか、子供の成長すら見届ける事が叶わないかもしれない“癒やし人”であるソニアのその言葉は、ダイアンの胸に深く響いた。

(叶えてあげなきゃ……)

 このささやかな約束を、叶えてあげたい。

「ミリアム・ダイアンと何とかソニアちゃんね」

 ソニアが楽しそうにそう続けると、ダイアンもまた、楽しそうな笑みを浮かべて言った。

「リタよ。リタ・ソニアって付けるわ」

「リタ?」

「そう、リタよ。あたしの名前は、リタになってたかもしれないのよ。親父が名前を付ける時に、最終的にこの2つの名前が残ったんだって。それでね、ママが二枚の紙にそれぞれの名前を書いて裏返して、親父が一枚を選んで……それがダイアンだったのよ。よかったわぁ、ダイアンで……リタなんて女らしい名前、あたしには合わないもん」

 そう言ってダイアンが肩を竦めると、ソニアはクスクス笑った。

「あら、リタも合うわよ。きっと淑やかな乙女に育ったわ」

「うわぁ、止めてよ!気持ち悪いわ」

 ダイアンが心底嫌そうに眉をしかめて手を振ると、ソニアはますます楽しそうに笑う。ダイアンもつられて笑う。二人にとって、久しぶりの和やかで楽しい時間であった。
 やがてソニアがダイアンに右手を差し伸べる。ダイアンは迷う事なく、その手を握った。離すものかと、力強く、しっかりと。

「子供達が大きくなったら、今日の日の事を話してあげましょうね。きっと子供達も、私達みたいな親友になってるわ」

 ソニアの言葉に、ダイアンは頷く。リタ・ソニアは生まれない可能性が高い。ダイアンにその気がないからだ。だが、ミリアム・ダイアンはきっと生まれてくる。

(護る……あたしが側にいて護るんだ)

 母と娘を末永く幸せに過ごさせる為に、ダイアンはここで生きる事を決意した。キリアへの恋慕は叶わなくても構わない。ソニアの幸せは、どんな事より優先するのだ。

「ずっと……一緒……」

 ソニアの呟きが、ダイアンの耳朶をくすぐる。

「うん……ずっと側にいるわ」

 この約束は反故にはしない。ソニアからは、決して離れない。


 そう一一。


(結婚式の誓いの言葉にあったわね)


 死が二人を分かつまで一一。


 離れない一一。





☆・゜:*:☆・゜:*:☆・゜:*:☆:*:☆

この話にリンクするストーリーはこちら↓

空色のけもの 3〜『箱庭の中で金褐色の花が咲く』26




幕間のご挨拶〜26〜リタの母親


 

暗闇でダンス 第4部ー75

 
(第275話)


「私ったら怒鳴ったりして……ごめんなさいね」

 ソニアの言葉に、ダイアンが笑いながら首を振る。

「謝る必要はないわ。確かにあなたらしくなかったけど、でもあんな風に言えるようになったのはいい傾向よ。あなたはいつも自分の気持ちを押し殺して、我慢ばかりしてたから……」

 ダイアンがそう返すと、ソニアはにっこりと笑った。その安心したような笑顔を見て、ダイアンはほっとする。ソニアにはああいう風に言ったが、ダイアンはまだキリアに問いただすかどうかを迷っていた。その機会があるかどうかも分からない。だが今は、ソニアを安心させようと思う。これ以上この優しい親友に、心配をかけてはいけない。
 そのダイアンの気持ちを知ってか知らずか、ソニアはふと、こう呟いた。

「赤ちゃん……欲しいなぁ……」

 その呟きを聞いて、ダイアンがからかうような口調で言った。

「毎晩、仲良くしてるんだから、直ぐに出来るわよ」

 ソニアの頬が赤く染まる。だがすぐにその表情が陰った。

「私……お医者様に言われたの。子供が出来にくい体だって……。出来たとしても、流産し易いだろうし、出産に耐えるだけの体力もないって……無理かもしれないわ」

 子供が大好きなソニア一一だが“癒やし人”であるが故の虚弱な体質は、母になるという夢を、阻むかもしれない。悲しそうにうなだれるソニアを見て、だがダイアンは強く言い切る。

「そんなのわからないじゃない。環境が変わって、体質だって変わったわよ。ここには優秀な医者と人間の世界にはいない治療師がいるし、あなたに力を与えるシャンティもいるわ。それにね……」

 ダイアンはソニアを眺めた。見る者に安らぎを与えてくれる優しい微笑みと、誰もが抱(いだ)かれたいと思うであろう、柔らかい曲線を描く胸や腕。それは正に一一。

「あなたは“お母さん”になる為に生まれたような人よ。あたしには容易に思い浮かべる事が出来るわ。赤ちゃんを抱いたあなたの姿をね」

 小さな命をその胸に抱(いだ)く親友の姿を、ダイアンは心底見たいと願う。それはどんなに美しい光景だろう。
 ダイアンの言葉に力づけられたのだろう。ソニアの表情が明るくなった。

「ありがとう。そうね。諦めちゃ駄目よね。私ったら、あなたに諦めるなって言っておいて、自分はすぐに諦めちゃうんだから……」

 そう言いながら、ダイアンの目を真っ直ぐに見据えて、ソニアが続けた。

「あのね……私、もし女の子が産まれたら付けようと決めてる名前があるの」

「名前?もう決めてるの?」

「そうよ。まだ出来てもいないのに早いわよね。でも、この名前は随分前から決めてたのよ」

 勿論、理由はあるだろう。ダイアンは黙って頷いてから、ソニアの言葉を待った。

「笑わないでね。その名前は“ミリアム”っていうの」

「ミリアム……ミリアムって……」

 ダイアンがソニアを見返してそう言うと、ソニアが目を細めて笑った。そして次の瞬間、二人は同時に言葉を発する。

「“かぼちゃパンツのミリアム”!」

 静かな湖畔に、二人の笑い声が響いた。ソニアとダイアンは、楽しそうに声を上げて笑っている。特にソニアの澄んだ高い笑い声が、木々の狭間に響き渡っていた。それはまるで、美しい音楽のようだった。
 ダイアンは笑いながら、ソニアの声に聞き惚れていた。物静かな親友は、めったに声を上げて笑わない。こんな風に笑い声を上げるのは、本当に稀なのだ。だからこの美しい笑い声を聞いた事のある者は、ごく僅かだろう。

(本当に……綺麗な声……)

 もうジェルミナはこの笑い声を聞いただろうか。多分、聞いているだろうなと、ダイアンは思う。ソニアがこんな風に屈託なく笑い声を発するのは、心を許した者の前でのみだ。だからきっと、ジェルミナは聞いている。そう思うと、ダイアンは少し寂しくなった。
 やがて笑い声が収まると、ダイアンが話を続けた。

「ミリアムって、あなたが小さい頃に大事にしていた人形の名前じゃない。でっかいかぼちゃパンツを穿いた、あなたと同じ赤い髪のお人形……」

「あのお人形は、三歳の誕生日にニーナから貰ったのよ。それからずっと、悲しい時や辛い時、寂しい時に、抱いて眠っていたの。そしたら不思議と安心して眠れたのよ。私の安眠剤代わりだったの」

「あたしの家に泊まりに来た時にも、持って来てたものね」

 ソニアとダイアンは、小さい頃から頻繁にお互いの家に泊まりに行っていた。そしてソニアがダイアンの家に泊まりに来た時には、必ず人形を抱えていたのだ。母のいない寂しい日々を支えたであろう一体の人形は、正にソニアにとっての宝物だったのだ。

「スカートを穿いてても、あの大きなかぼちゃパンツははみ出てたわね。ミリアムっていうのは、あなたが付けた名前なの?」

「よく覚えてないんだけど……多分ニーナが付けたのよ。ミリアムちゃんですよって、渡された覚えがあるわ」

「そうなんだ。でも……いつの間にか持って来なくなったわね。どうしたのかしらって思ったんだけど……何か?」

 ダイアンからそう訊かれると、ソニアは悲しげに瞼を伏せた。

「11歳の時にね。お父さんに捨てられちゃったの。汚いって……怒られちゃって……」

 ソニアの答えを聞いて、ダイアンの目が驚きに見開かれた。

「ロベルトおじ様が?そんな事するとは思えないけど……」

 敏腕で厳格な政治家であるソニアの父親は、だが娘には優しかった。彼がソニアを叱っているところを見た事がない。もちろんソニアは、父親に叱られるような事をするような子供ではなかったのだが。

「突然、お父さんが私の部屋に入って来て、ベッドの上に寝かせてあったミリアムを掴んでダスト・シュートに放り込んじゃったの。その時に、いつまでこんな汚い人形を持ってるんだって怒鳴られて……泣いちゃったわ」

「信じられないわ。あのおじ様がそんな事するなんて……」

「私もびっくりしたわよ。それにね。それまでお父さんが、私の部屋に入って来る事もなかったの。私、あの部屋に6歳の頃から寝てるんだけど、一度も入ってこなかった。お母さんが自殺した部屋だから、無理はないけど……」

 ダイアンは頷いた。妻が自殺した部屋なのだ。その部屋を自分の部屋にしたソニアの動機は聞いている。母親の自殺の原因を知りたかったのである。

「あの頃、お父さんはお仕事が大変だったの。ほら、中央政府からバンタン議員が派遣されてきたのが、ちょうどあの頃でしょ?だから随分苛ついていたわ。それで、あんな風に私を叱っちゃったんだと思うわ。泣いてる私を見て、お父さん……気まずい顔をしていたし……」

 ダニエル・バンタン一一その名前を聞いたダイアンの唇が、不快そうに歪む。中央政府がロベルト・ガイナンを妨害する為に派遣してきたバンタン議員は、それまで纏まっていた議会を真っ二つにして、あからさまに総督に反旗を翻したのだ。当然の如く、政務は滞る。さしものロベルト・ガイナンも、苛つきを抑えられなかったのであろう。

「たかが人形の事で、お父さんがあんなに怒ったのも変だけど……とにかくミリアムは捨てられちゃって、私は三日三晩泣きっぱなし。ニーナが随分心配してたわ。そして三日目の夜に決心したの。私をずっと支えてくれた人形のミリアムを、次は人間として生まれ変わらせたいって。」

「それで、女の子が生まれたら名前をミリアムにするのね。あなたらしいわね」

 それはソニアの優しさから出た決意なのだ。普通の子供なら、そういう考えにはならない。

「男の子だったら、ジェルミナに任せるわ」

「あら、きっと女の子よ。ミリアムはきっと生まれ変わってくるわ。可愛いミリアムちゃんに会うのが楽しみね」

 ダイアンがそう言うと、ソニアは嬉しそうに笑った。そして優しい眼差しでダイアンを見つめた。ダイアンはその眼差しを、同じように笑顔で受け止めたが、ソニアの次の言葉を聞いて目を見張った。

「それでね。ダイアンにお願いがあるの……ミリアムのミドル・ネームにあなたの名前を付けたいの。ミリアム・ダイアンってね」

「あたしの名前を?お転婆娘になっちゃうわよ」

「あら、構わないわ。ダイアンみたいに強く育ってくれたら嬉しいもの」

「強くねぇ……」

 ダイアンは首を傾げたが、内心嬉しかった。親友の子供に自分の名前が付けられるのだ。嬉しくない筈がない。

「もちろんいいわよ。但し、お転婆になるのは間違いないわ。あたしの名前を付けるからじゃないわよ。あたしはミリアムの側にいて、成長を見守るもの。影響は与えちゃうわ」

「もちろんいいわよ。一緒に育てましょう」

「あははは!ジェルミナに怒られちゃいそうね」

「構わないわ。私は夫婦だけで子育てをするつもりはないもの。みんなで育てたいの。その方が、伸び伸びと育つわ」

 それがソニアの育児方針なのだろう。そしてダイアンは、そんな風に未来を語るソニアを見ていると、幸せな気持ちになった。長くは生きられないかもしれない“癒やし人”であるソニア一一だが明るく未来を見据えるソニアには、そんな暗い影は微塵も感じられない。

(大丈夫かもしれない……ううん、きっと大丈夫!)

 ソニアはきっと生き延びる。“癒やし人”の寿命を遥かに超えて、幸せに長生きするのだ。

(あたしはそれを見届ける……そして、ずっと側にいて支えるんだ)

 キリアの事は関係ない。彼とどうなろうと、ソニアの側で支える。
 もうそこには、弱気で後ろ向きなダイアンはいなかった。






執筆日記&拍手御礼

 

暗闇でダンス 第4部ー74

 
(第274話)


 ソニアがダイアンの様子を窺っている。だが、ダイアンは言葉が出なかった。すると突然、ソニアの表情がクシャリと歪み、緑色の瞳からポロポロと涙が流れ出した。ダイアンは驚いて、ソニアの肩を掴んだ。

「どうしたの、ソニア!?」

「ごめんなさい……私……私は自分勝手なの……あなたがキリアさんを好きなのにかこつけて……あなたがキリアさんと結ばれたら、私の側にずっと居てくれるって思って……スティーブン兄さんと結婚したら、離れ離れになってしまう……あなたの幸せを一番に考えなきゃならないのに……」

 ソニアは両手で顔を覆って、むせび泣いた。ダイアンはそんなソニアを、そっと抱きしめた。先程とは逆である。

「ソニア……」

 愛しくて愛しくて堪らない。こんなにも自分を必要としてくれている親友を、泣かせたくはなかった。

「ねぇ……あなたにはジェルミナが居るわ。二人で歩いて行くのよ。あたしがいなくても……大丈夫よ」

 ソニアの側を離れたくはなかった。だがダイアンは、自分を必要としてくれているスティーブンの所に行くと決めたのだ。以前の不安定な関係のソニアとジェルミナなら、残して行く事など出来ないだろう。しかし今は違う。二人は何かを乗り越えた。確固たる絆で結びついたのだ。だからもう大丈夫。自分がいなくなっても、大丈夫なのだ。
 ダイアンの腕の中で、ソニアの肩が震えた。そして、何度も首を振る。

「違うの、違うの……ジェルミナとあなたは違うのよ……こんなの欲張りだって分かってるわ……でもあなたとはずっと一緒に居たいの……離れるのは嫌……だから、あなたがキリアさんを好きだって分かった時は、嬉しかったの……だって、キリアさんはジェルミナの側にずっと居るわ。あの人がジェルミナから離れる事はない。だからあなたともずっと一緒に居られるって……」

 ソニアの言葉を聞きながら、ダイアンは頷いた。そう、キリアがジェルミナから離れる事はない。彼はジェルミナの“影”なのだ。生まれる前から決められていた主従の絆は、何人たりとも引き裂けない。自分もそうありたかった。ソニアの側にいて、護りたかった。でももう居られない。ソニアの最愛の夫の“影”に嫌われてしまったのだから一一。

「キリアさんに嫌われてしまったもの。もうここには居れないわ。ごめんね、ソニア」

 辛かった。悲しかった。ソニアと離れる事も、キリアから嫌われている事も、こんなに辛い思いは、今まで感じた事がなかった。そう思い、腕の中のソニアを強く抱き締める。だがその時、ソニアが身じろぎしてダイアンの胸を押し、身を引いた。そして顔を上げて、ダイアンを見た。その表情に、ダイアンははっとする。

「ソニア……」

 ソニアは唇を引き結び、ダイアンを睨んでいた。いつも優しいソニアの、こんな怒りを含んだ表情を見るのは初めてだった。

「情けない事、言わないでよ!」

 ソニアはダイアンの二の腕をむんずと掴んで、引き結んだ唇を開き、それまでとは全く違った激しい口調でダイアンに詰め寄った。

「キリアさんに直接訊いた訳じゃないでしょ!?なのに何故そう決めつけるのよ!そんな風に怖じ気づくなんて、ダイアンらしくないわ!」

「怖じ気づく……」

 そうなのだ。ダイアンは怖いのだ。キリアの口から、“嫌い”だと聞くのが、怖くてたまらないのだ。だから決めつける。キリアは自分を嫌っているのだと、そう自分に言い聞かせて、さっさとこの恋を諦めた方が楽なのである。

「駄目よ、ダイアン……そんなの絶対後悔するわ!それに……そんな気持ちのままスティーブン兄さんの所に行っても、幸せにはなれないわ。兄さんにも失礼よ」

「スティーブン……」

 ダイアンの脳裏に、真っ赤な顔をして求婚してきたスティーブンの姿が浮かぶ。やがて総督となるその未来に、傍らにいて支えて欲しいと自分を望んでくれた男(ひと)。

「スティーブンは、妻として女としてでなく、パートナーとしてあたしを望んでいるのよ。だから何の支障もないわ」

 ダイアンがそう言うと、ソニアは激しく首を振った。その頬に、また涙が流れている。

「違うわ!スティーブン兄さんは、女としてのダイアンを求めているのよ!仕事は二の次よ!愛し愛されたいの!でも、あなたはキリアさんを愛している……それじゃ、スティーブン兄さんは納得しないわ!」

 そう言われて、ダイアンは言葉に詰まった。仕事のパートナーとして望まれている一一それはダイアンが、そうであって欲しいと自分に言い聞かせている願望だった。それをソニアに見透かされている。
 ソニアは掴んでいた手を緩めた。その表情が、怒りから悲しげなものに変わる。それを見たダイアンの胸に、痛みが走った。

「ねぇ、ダイアン……確かめてみようよ。このままじゃ、納得出来ないよ。ダイアンだってそうでしょ?あなたはいつでも真っ直ぐ前を見ていたわ。どんな事にも目を逸らさず、真っ直ぐね。私はそんなダイアンが大好きなの。私にない強い意志を持つダイアンを尊敬しているの。だから……ね?」

 強くない。あたしは弱い一一ダイアンはそう返したかった。だが、これ以上、大切な親友を悲しませたくはない。それに、ソニアの言う事は正しい。思い込んで怖じ気づいても、この気持ちに決着はつかないのだ。


 ならば、当たって砕けるのもいい一一。


 ダイアンは、ソニアに笑いかけた。力強い笑みだった。ソニアがいつも頼もしく思う、自信に満ちた表情がそこには垣間見れた。

「ありがとう、ソニア。そうよね。このままじゃ、癪に触るわ。振り回されるのは、もうたくさん。ガツンと訊いてみるわよ。嫌いならはっきり言えって……。それで嫌いだって言われても、構うもんですか。あたしはソニアがお母さんになるまでは側にいるって決めているのよ。嫌われたって、関係ないわ」

「私がお母さんになるまで?」

「そうよ。あたしがあなたの子供を抱かないとでも思ってるの?楽しみにしてるんだからね。続けてニ、三人、頑張って産んで頂戴」

「ニ、三人?それは無理よ」

 ソニアが首を振ってクスクスと笑う。もう涙は流れていなかった。

(もう、ソニアを泣かせたくない……)

 辛い気持ちはまだある。だがソニアを泣かせるのは、もっと辛いのだ。その笑顔を絶やさない為には、どんな事でも厭わないと思うダイアンであった。


 

暗闇でダンス 第4部ー73

 
(第273話)


 そんな風にダイアンが葛藤しているとは露知らず、ソニアはまたも考え込んでいる様子であったが、やがて強く頷くとダイアンを真っ直ぐ見据えて言葉を続けた。

「ダイアン……キリアさんはあなたの事を嫌ってなんかいないわ。それどころか、キリアさんにとってあなたはとても大切な存在なのよ。これはジェルミナもそう言ってるわ。生まれた時からずっと一緒にいるジェルミナがそう言うのよ。間違いないわ」

「そんな事ないわ!何度もからかい気味にベッドに誘われてるのよ!他の女に対する態度と同じよ!大切なものですか!」

 ソニアの言葉に、ダイアンは激しく反論する。大切に思っているなら、あんな風に軽くベッドに誘ったりはしない。だがソニアは、そのダイアンの反論にも冷静に返した。

「でも、未だにその……到ってはないのでしょう?」

「えっ……?」

 要は、まだベッドを共にはしていないという事を言っているのだが、ダイアンは、内気なソニアの口からこんな言葉が出た事に驚いた。

「ジェルミナはね。それが証拠だと言うのよ。キリアさんがあなたを大切に思っている証拠。一度きりの関係にしたいのなら、強引にでも“ものにしてる”って。そうじゃないから、まだなのよ。そんな軽い気持ちじゃないのよ」

 突然、ダイアンがクスクス笑い出した。ソニアは困惑気味な表情で、笑うダイアンを見た。

「あなたの口から“ものにする”なんて言葉が出るなんてね」

 ソニアの頬が紅潮した。

「だって……他にどう言えばいいの?」

「まあ、いいわ。確かにあたしはまだキリアさんとそういう関係にはなっていないわ。そして、これからもなるつもりはないわ。それに……あたしに手を出さないのは、あたしがあなたの親友だからだって思ってたけど……今朝、分かったもの。キリアさんはあたしを嫌ってるってね。だから誘いはしても、実際に抱くつもりはなかったのよ。大切に思ってるなんて、勘違いも甚だしいわ。」

 ダイアンはそう淡々と言い放った。言葉が辛辣になっている。そんな風にソニアには言いたくはなかったが、どうしても刺々しくなる。

(何て嫌な女だろう……)

 ソニアはダイアンを心配してくれているのだ。それなのに、こんな辛辣な口調でしか返せない。ダイアンは自己嫌悪で押し潰されそうになっていた。消えてなくなりたいとも思った。だがそんなダイアンに、ソニアは優しく微笑みかけて話を続けた。

「今朝、キリアさんはぐっすり寝入っていた……彼にしたら珍しい程にね。あなたが入って行っても気付かない程……」

「そう……随分深く眠ってたみたい。それでつい覗き込んじゃって……そしたら突然起き出して……」

 ダイアンの顔が歪んだ。突然起き出したキリアに抱きしめられた時は、驚きはしたが嬉しくもあったのだ。それが次の瞬間、奈落に突き落とされた。

「しまったって思ったのね。あたしを抱きしめた事を……。心底嫌そうな表情だったわ。あれが彼の本心よ」

 ダイアンは肩を落とした。もう攻撃的な気持ちはなくなっている。心配してくれるソニアに当たってはいけない。もうこの話題は、終わりにしたかった。

「ソニア、もう……」

「夢を見ていたのよ」

 もう終わりにしよう一一そう言いかけたダイアンを制するように、ソニアが尚も続けた。だがその言葉の意味が、ダイアンには分からなかった。

「えっ?」

 思わず訊き返したダイアンに、ソニアは真剣な眼差しを向けた。

「キリアさんは夢を見ていたのよ。それも悪夢よ。あなたを抱きしめたのは、夢の延長上の行動なのよ。決して、あなただと認識していた訳ではないわ。そして嫌悪の表情を浮かべたのも、夢の続きよ」

「夢の続き?」

 唐突に何を言い出すのだろう一一ダイアンはそう思いつつ、つい訊き返してしまった。

「そうよ、キリアさんはまだ夢から覚めていなかったのよ。ほら、私はキリアさんの心の一端に触れたでしょ?」

 心の一端に触れた一一それはソニアとジェルミナが縁(えにし)を結んだ夜の事だ。キリアを“癒やし人”として抱きしめたあの時に、ソニアはキリアの心に触れたのだ。

「ほんの……ほんの少しだったわ。キリアさんの心の闇は深くて、少ししか触れられなかった。キリアさんは何人たりとも心の深層に触れさせまいと、固いガードを張ってるのよ」

 それはダイアンも感じていた。キリアは心を閉ざしている。自らの命に代えても護ろうとしているジェルミナにさえだ。

「ほんの少し触れたキリアさんの心……彼は逃げていたわ。何からか分からないけど、ひたすら逃げていた……そして誰かに縋っていた……助けてと……」

 ダイアンはソニアの話を、固唾を飲んで聞いていた。知りたいと思っていたのだ。キリアが何を思っているのか。その穏やかな笑みの下に、どんな闇を抱えているのか。

「縋った先にあったのは……“絶望”。縋った者はキリアさんを助けてくれる存在ではなかった……」

 ソニアの表情が悲しみに歪む。それを見たダイアンの心も、キリキリと痛んだ。ふと、キリアの叫びが聞こえたような気がした。絶望に打ちひしがれた、悲痛な叫び声が一一。


 

暗闇でダンス 第4部ー72

 
(第272話)


 そんな事ない一一即座にそう返そうとしたのだが、言葉が出なかった。すっかり固まってしまったダイアンを、ソニアは尚も悲しげに見つめて続けた。
 
「私はあなたの力になりたいの。あなたはずっと私を支えてくれたわ。今度は私があなたを支えたい……こんな頼りない私だけど……あなたが辛い思いをしているのに、何も出来ないなんて情けなくて……」

 ダイアンの口から、苦しげな溜め息が漏れる。誰よりも大切な親友が、自分の身を案じてくれている。それは分かっていた。ソニアが気にしない筈はない。

(あたしは自分の事ばっかりしか考えていなかった……自分が辛いって事ばっかり……)

 情けないのは自分の方である。ここに来て、ソニアに心配ばかりかけている。ダイアンは唇を引き結んだ。それを見たソニアが、ダイアンの目の前ににじり寄ってくる。そして、両手を伸ばして、ダイアンの両腕を掴んだ。

「ダイアン……あなた、キリアさんが好きなんでしょ?恋をしてるのよね?」

 それは問いかけであってそうではなかった。自分がキリアに恋をしているのは、誰の目にも明らかな筈だ。ダイアンは、周囲に対して自分の感情を隠しきれていない事を自覚していた。

「ソニア……あたしは……」

 言葉が続かない。目の前のソニアの澄んだ緑色の瞳が、心の奥底まで見透かしているように思えて、今回ばかりはごまかしやはぐらかしが通用しない事がわかるからだ。

「ダイアン……今朝、何があったの?あなた、泣いたでしょ?」

 ダイアンははっとして思わず右目の縁に触れた。ソニア達の居住区に戻る前に鏡で確認したところ、赤みは見られなかったので安心していた。よく冷やし、目薬を点して赤みを取った。泣いたなんて、絶対にソニアに悟られてはならないからだ。だがそれは無駄だったようだ。

「私ね。自分が泣き虫だからすぐに分かるのよ。赤みはないけど、少し腫れてるわ。あなた滅多に泣かないから、余計に分かるわ」

 ソニアがにっこりと笑ってそう言うと、ダイアンの右頬にそっと触れた。

「話して……あなたの苦しみや悩みを……二人で解決しようよ。ね、お願い……」

「……!」

 我慢の限界だった。ソニアの優しさは、抑え込んでいたダイアンの苦しみを噴き出させた。

「ソニア……あたし……あたし!」

 ダイアンはソニアに抱き付く。甘い香りのする髪が頬をくすぐった。堪(こら)えていた涙が、堰を切ったように流れ出す。ソニアはそんなダイアンの背中に両腕を回して、そっとさすってくれた。その掌から、暖かな波動が伝わってくる。これが“癒し人”の能力である。

(ソニアの手は魔法の手……握ると不安が薄らぐ……)

 ダイアンは幼い頃からずっとそれを体感してきた。だから“癒し人”について調べたのだ。そして知ってしまった。“癒し人”は長生きしない。人に癒やしを与えながら、自らは疲弊していくからだ。
 こんな風にダイアンに癒やしを与えながら、ソニアは自分の命を削っていく。だからソニアに縋ってはいけない。わかっているのに一一。

(あたしみたいな弱い人間は……縋りついてしまう……あまりにも心地よい温もりを求めて……)

 ソニアに縋りついて、嗚咽を漏らす。いけないと思いながら、ダイアンは離れる事が出来なかった。
 やがて、ひとしきり泣いたダイアンの口から、ポツポツと言葉が流れだした。キリアと初めて出会った二年前のパーティーから今までの出来事を、静かに語る。ソニアは時折頷きながら、黙ってた聞いていた。ダイアンの心が次第に落ち着きを取り戻してくる。だが、今朝の出来事を語り始めると再び胸が激しく痛み、涙が溢れてきた。そしてより一層、ソニアに強く縋りつく。

「……あたしを見るキリアさんの表情は、心底嫌そうだったの……あたしは嫌われていたの……もう側には近寄れないわ……もう無理……」

 キリアの瞳にはダイアンが映っていた。それを忌むように、何度もまばたきをしていたキリアの表情が浮かぶ。嫌悪感に満ちたその顔が、どうしても忘れられない。心に深く刻みつけられているのだ。


 鋭い刃物で切りつけられた如く、深く深く一一。


 語り終えたダイアンの震える体を、ソニアは強く抱き締めてくれた。その細い腕が、今のダイアンの心を支えている。
 暫しの沈黙の後、ソニアが口を開いた。それは問いかけだった。

「キリアさんは、ぐっすり眠り込んでいたのね」

「えっ……?」

 予想もしていなかった問いかけだった。ダイアンは身を引いた。そしてソニアを見る。目の前の親友は、何かを思案しているようだった。戸惑いながらも、ダイアンは頷いて答える。

「ええ……あたしが部屋に入ったのにも気づかずに眠り込んでいたわ。あの人にしては、珍しいわね」

 キリアの、あんな無防備な姿を見たのは初めてだった。だからつい、覗き込んでしまったのだ。そして、あんな目に遭ってしまった。ダイアンは唇を咬む。

「やっぱり疲れているのね……きっとずっと寝ていないんだわ。ジェルミナに言わなくちゃ……」

 ソニアは独り言のように呟くと、小さく頷いた。そしてダイアンを見て、にっこりと笑った。優しい微笑み一一だが今のダイアンには、その微笑みさえ辛く感じる。そしてそう感じる自分の卑屈さが嫌だった。ソニアには余裕がある。それは今が幸せだからだ。ジェルミナからあんなにも愛されている。その事に、微かな嫉妬を感じる自分が疎ましい。


 

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プロフィール
月乃みとさんのプロフィール
性 別 女性
誕生日 12月15日
系 統 普通系
血液型 O型