(第275話)
「私ったら怒鳴ったりして……ごめんなさいね」
ソニアの言葉に、ダイアンが笑いながら首を振る。
「謝る必要はないわ。確かにあなたらしくなかったけど、でもあんな風に言えるようになったのはいい傾向よ。あなたはいつも自分の気持ちを押し殺して、我慢ばかりしてたから……」
ダイアンがそう返すと、ソニアはにっこりと笑った。その安心したような笑顔を見て、ダイアンはほっとする。ソニアにはああいう風に言ったが、ダイアンはまだキリアに問いただすかどうかを迷っていた。その機会があるかどうかも分からない。だが今は、ソニアを安心させようと思う。これ以上この優しい親友に、心配をかけてはいけない。
そのダイアンの気持ちを知ってか知らずか、ソニアはふと、こう呟いた。
「赤ちゃん……欲しいなぁ……」
その呟きを聞いて、ダイアンがからかうような口調で言った。
「毎晩、仲良くしてるんだから、直ぐに出来るわよ」
ソニアの頬が赤く染まる。だがすぐにその表情が陰った。
「私……お医者様に言われたの。子供が出来にくい体だって……。出来たとしても、流産し易いだろうし、出産に耐えるだけの体力もないって……無理かもしれないわ」
子供が大好きなソニア一一だが“癒やし人”であるが故の虚弱な体質は、母になるという夢を、阻むかもしれない。悲しそうにうなだれるソニアを見て、だがダイアンは強く言い切る。
「そんなのわからないじゃない。環境が変わって、体質だって変わったわよ。ここには優秀な医者と人間の世界にはいない治療師がいるし、あなたに力を与えるシャンティもいるわ。それにね……」
ダイアンはソニアを眺めた。見る者に安らぎを与えてくれる優しい微笑みと、誰もが抱(いだ)かれたいと思うであろう、柔らかい曲線を描く胸や腕。それは正に一一。
「あなたは“お母さん”になる為に生まれたような人よ。あたしには容易に思い浮かべる事が出来るわ。赤ちゃんを抱いたあなたの姿をね」
小さな命をその胸に抱(いだ)く親友の姿を、ダイアンは心底見たいと願う。それはどんなに美しい光景だろう。
ダイアンの言葉に力づけられたのだろう。ソニアの表情が明るくなった。
「ありがとう。そうね。諦めちゃ駄目よね。私ったら、あなたに諦めるなって言っておいて、自分はすぐに諦めちゃうんだから……」
そう言いながら、ダイアンの目を真っ直ぐに見据えて、ソニアが続けた。
「あのね……私、もし女の子が産まれたら付けようと決めてる名前があるの」
「名前?もう決めてるの?」
「そうよ。まだ出来てもいないのに早いわよね。でも、この名前は随分前から決めてたのよ」
勿論、理由はあるだろう。ダイアンは黙って頷いてから、ソニアの言葉を待った。
「笑わないでね。その名前は“ミリアム”っていうの」
「ミリアム……ミリアムって……」
ダイアンがソニアを見返してそう言うと、ソニアが目を細めて笑った。そして次の瞬間、二人は同時に言葉を発する。
「“かぼちゃパンツのミリアム”!」
静かな湖畔に、二人の笑い声が響いた。ソニアとダイアンは、楽しそうに声を上げて笑っている。特にソニアの澄んだ高い笑い声が、木々の狭間に響き渡っていた。それはまるで、美しい音楽のようだった。
ダイアンは笑いながら、ソニアの声に聞き惚れていた。物静かな親友は、めったに声を上げて笑わない。こんな風に笑い声を上げるのは、本当に稀なのだ。だからこの美しい笑い声を聞いた事のある者は、ごく僅かだろう。
(本当に……綺麗な声……)
もうジェルミナはこの笑い声を聞いただろうか。多分、聞いているだろうなと、ダイアンは思う。ソニアがこんな風に屈託なく笑い声を発するのは、心を許した者の前でのみだ。だからきっと、ジェルミナは聞いている。そう思うと、ダイアンは少し寂しくなった。
やがて笑い声が収まると、ダイアンが話を続けた。
「ミリアムって、あなたが小さい頃に大事にしていた人形の名前じゃない。でっかいかぼちゃパンツを穿いた、あなたと同じ赤い髪のお人形……」
「あのお人形は、三歳の誕生日にニーナから貰ったのよ。それからずっと、悲しい時や辛い時、寂しい時に、抱いて眠っていたの。そしたら不思議と安心して眠れたのよ。私の安眠剤代わりだったの」
「あたしの家に泊まりに来た時にも、持って来てたものね」
ソニアとダイアンは、小さい頃から頻繁にお互いの家に泊まりに行っていた。そしてソニアがダイアンの家に泊まりに来た時には、必ず人形を抱えていたのだ。母のいない寂しい日々を支えたであろう一体の人形は、正にソニアにとっての宝物だったのだ。
「スカートを穿いてても、あの大きなかぼちゃパンツははみ出てたわね。ミリアムっていうのは、あなたが付けた名前なの?」
「よく覚えてないんだけど……多分ニーナが付けたのよ。ミリアムちゃんですよって、渡された覚えがあるわ」
「そうなんだ。でも……いつの間にか持って来なくなったわね。どうしたのかしらって思ったんだけど……何か?」
ダイアンからそう訊かれると、ソニアは悲しげに瞼を伏せた。
「11歳の時にね。お父さんに捨てられちゃったの。汚いって……怒られちゃって……」
ソニアの答えを聞いて、ダイアンの目が驚きに見開かれた。
「ロベルトおじ様が?そんな事するとは思えないけど……」
敏腕で厳格な政治家であるソニアの父親は、だが娘には優しかった。彼がソニアを叱っているところを見た事がない。もちろんソニアは、父親に叱られるような事をするような子供ではなかったのだが。
「突然、お父さんが私の部屋に入って来て、ベッドの上に寝かせてあったミリアムを掴んでダスト・シュートに放り込んじゃったの。その時に、いつまでこんな汚い人形を持ってるんだって怒鳴られて……泣いちゃったわ」
「信じられないわ。あのおじ様がそんな事するなんて……」
「私もびっくりしたわよ。それにね。それまでお父さんが、私の部屋に入って来る事もなかったの。私、あの部屋に6歳の頃から寝てるんだけど、一度も入ってこなかった。お母さんが自殺した部屋だから、無理はないけど……」
ダイアンは頷いた。妻が自殺した部屋なのだ。その部屋を自分の部屋にしたソニアの動機は聞いている。母親の自殺の原因を知りたかったのである。
「あの頃、お父さんはお仕事が大変だったの。ほら、中央政府からバンタン議員が派遣されてきたのが、ちょうどあの頃でしょ?だから随分苛ついていたわ。それで、あんな風に私を叱っちゃったんだと思うわ。泣いてる私を見て、お父さん……気まずい顔をしていたし……」
ダニエル・バンタン一一その名前を聞いたダイアンの唇が、不快そうに歪む。中央政府がロベルト・ガイナンを妨害する為に派遣してきたバンタン議員は、それまで纏まっていた議会を真っ二つにして、あからさまに総督に反旗を翻したのだ。当然の如く、政務は滞る。さしものロベルト・ガイナンも、苛つきを抑えられなかったのであろう。
「たかが人形の事で、お父さんがあんなに怒ったのも変だけど……とにかくミリアムは捨てられちゃって、私は三日三晩泣きっぱなし。ニーナが随分心配してたわ。そして三日目の夜に決心したの。私をずっと支えてくれた人形のミリアムを、次は人間として生まれ変わらせたいって。」
「それで、女の子が生まれたら名前をミリアムにするのね。あなたらしいわね」
それはソニアの優しさから出た決意なのだ。普通の子供なら、そういう考えにはならない。
「男の子だったら、ジェルミナに任せるわ」
「あら、きっと女の子よ。ミリアムはきっと生まれ変わってくるわ。可愛いミリアムちゃんに会うのが楽しみね」
ダイアンがそう言うと、ソニアは嬉しそうに笑った。そして優しい眼差しでダイアンを見つめた。ダイアンはその眼差しを、同じように笑顔で受け止めたが、ソニアの次の言葉を聞いて目を見張った。
「それでね。ダイアンにお願いがあるの……ミリアムのミドル・ネームにあなたの名前を付けたいの。ミリアム・ダイアンってね」
「あたしの名前を?お転婆娘になっちゃうわよ」
「あら、構わないわ。ダイアンみたいに強く育ってくれたら嬉しいもの」
「強くねぇ……」
ダイアンは首を傾げたが、内心嬉しかった。親友の子供に自分の名前が付けられるのだ。嬉しくない筈がない。
「もちろんいいわよ。但し、お転婆になるのは間違いないわ。あたしの名前を付けるからじゃないわよ。あたしはミリアムの側にいて、成長を見守るもの。影響は与えちゃうわ」
「もちろんいいわよ。一緒に育てましょう」
「あははは!ジェルミナに怒られちゃいそうね」
「構わないわ。私は夫婦だけで子育てをするつもりはないもの。みんなで育てたいの。その方が、伸び伸びと育つわ」
それがソニアの育児方針なのだろう。そしてダイアンは、そんな風に未来を語るソニアを見ていると、幸せな気持ちになった。長くは生きられないかもしれない“癒やし人”であるソニア一一だが明るく未来を見据えるソニアには、そんな暗い影は微塵も感じられない。
(大丈夫かもしれない……ううん、きっと大丈夫!)
ソニアはきっと生き延びる。“癒やし人”の寿命を遥かに超えて、幸せに長生きするのだ。
(あたしはそれを見届ける……そして、ずっと側にいて支えるんだ)
キリアの事は関係ない。彼とどうなろうと、ソニアの側で支える。
もうそこには、弱気で後ろ向きなダイアンはいなかった。
執筆日記&拍手御礼