運転していた父親が気づいた時は遅かった。目の前には玉突き事故を起こした車が数台。そこに猛スピードで突っ込んだのだ。
後部座席で、歩美と翔太は喧嘩の最中だった。言うことをきかない翔太に腹を立てて、歩美はサッカーボールを取り上げた。それを取り返そうと翔太が身を乗り出した時に、車が衝突したのだ。 運転席と助手席は、衝撃でエアバックが膨らんだ。翔太は背中を運転席の座席にぶつけて後頭部を強打。そして歩美は一一。
(投げ出されたんだ……翔太のサッカーボールを抱えたまま、車の外に……)
衝突のはずみでドアが開いた。そこから投げ出された歩美は、道路に叩きつけられて即死だった。
歩美はペタンと座り込んだ。死んだのは自分の方だった。それを初めて自覚した瞬間だった。
「君に訪れた死はあまりにも突然だったから、自分が死んだ事が分からなかったんだね。だからここに留まった。それを心配したおばあちゃんが、渡し守の僕に君を連れて行きたいって頼んできたんだ。だから僕はここに来た……君を迎えに来たんだよ」
(おばあちゃんが?渡し守って何?)
茫然としながらも、歩美は男の説明に耳を傾ける。ふと傍らを見ると、そこにはいなくなった筈の祖母が、またちょこんと座っていた。
「あーちゃん……あーちゃんがいつまでたっても渡って来ないから、お盆の帰省船の渡し守さんのこの人に、連れて行きたいって頼んだんだよ。おばあちゃんが声をかけても、歩美ちゃんには聞こえないからね。渡し守さんがいれば、この世に留まる霊と話が出来るんだよ」
(帰省船の渡し守?)
歩美は男を見た。男は穏やかに微笑んでいる。心が落ち着いてくるような、優しい笑みだった。
歩美の体から力が抜ける。
「命あるものは、死んだ後にあの世に通じる川を渡るんだ。僕はその渡し船の船頭だよ。最近じゃあの世の冥界も人手不足でね。僕は船頭の他に、君のような迷い霊を見つける仕事もしている。今回は君のおばあちゃんから依頼があったから来たんだよ」
(翔太は?翔太はどうなったの?このサッカーボールが翔太なの?)
歩美は手にしているサッカーボールを男に示した。さっき男が言っていたではないか。事故が起こった時、翔太の魂がサッカーボールに移った。だから翔太は目を覚まさない。
「翔太君は、事故以来ずっと意識不明で病院にいるんだ。君のご両親は毎日病院に通っているよ。家に帰ってきたら、あんな風に仏壇の前で手を合わせて泣いているんだ。この半年の間、ずっとね」
歩美は両親の背中を見た。心なしか細くなったように見える母親の肩が、微かに震えている。泣いているのだ。
「君に声をかけてこないのも当たり前だよ。だって君は死んでるんだから……。ご両親には姿が見えないんだ。でも君を思って……ずっとずっと悲しんでるんだよ。君はご両親からとても愛されていたんだ」
「子供を愛さない親なんかいないよ。二人共、心が押しつぶされそうになってるよ」
祖母がそう言って着物の袖で目を覆った。
男が歩美の持っているサッカーボールにそっと触れて諭すように話しかけてくる。
「歩美ちゃん。君を失って……ご両親は深く悲しんでいるんだ。この上、翔太君まで死んでしまったら、二人共立ち直れなくなるよ。それは嫌だろう?だから翔太君の魂を戻そう」
(どうするの?どうすれば、翔太の魂を戻せるの?)
歩美は立ち上がって男の腕にすがりついた。自分は死んでしまったから、悲しいけど仕方ない。でも翔太はまだ戻れるのである。
男はサッカーボールを指差して、にっこりと笑った。
「君は優しいね。簡単だよ。弟さんを思いながら、そのサッカーボールを投げるんだ。そしたら翔太君はきっと受け取ってくれる。大好きなお姉ちゃんからのパスだからね」
(大好きなお姉ちゃん?喧嘩ばっかりしてたのに?)
事ある毎に衝突していた自分と弟を思い出す。弟が自分を好いていたとは思えない。
「翔太君はお姉ちゃんが大好きだよ。だから魂がサッカーボールから離れないんだ。自分がこの世に留まったら、君が独りになってしまうって思ってるからだよ。翔太君は君の側にいてやりたいんだ」
そう言われて歩美はサッカーボールに目を落とす。事故に遭った時に付いたのだろう一一あちこちに傷があるが、潰れてはいない。
(翔太……)
憎らしいばかりだと思っていたが、側にいないと寂しかった。隣にいるのが当たり前だったやんちゃな弟一一。
(ごめんね、翔太……お姉ちゃんはもう死んじゃったんだ。だからもう喧嘩も出来なくなっちゃった)
歩美は、仏壇の前で手を合わせている両親の背中を見た。
歩美を失った上に、翔太はずっと意識不明なのである。ふたりの背中は憔悴しきっていた。
(お父さん、お母さん……もう泣かないで……翔太を返すからね。もう大丈夫だよ)
歩美は男を見た。男は笑っている。その笑顔を見ていると、不思議と穏やかな気持ちになってくる。
次に祖母を見る。祖母は泣いていた。まだ子供なのに、死んでしまった歩美の事を思って泣いている。
その時、祖母の隣に座る人影に歩美は気づいた。まだ若い男だった。あれは一一。
(おじいちゃんだ)
戦死した歩美の祖父は、ボロボロと泣きじゃくる祖母の肩を優しく抱いている。そして歩美の視線に気づいて、笑いかけてきた。
「君はだんだん向こうに渡る準備が出来てきたんだ。だから、ほかの霊が見えてきたんだよ。おじいちゃんの他にも、ご先祖様がわんさか還ってきているんだ。賑やかだよ」
男がそう言って両手を広げた。すると歩美の耳にたくさんの人の話し声が聞こえてくる。ふと傍らを見ると、5歳位の小さな着物を着た女の子が、歩美を見上げていた。歩美が見つめると、女の子はにっこりと笑った。
「その子はおばあちゃんの妹だよ。小さい頃に病気で死んだんだ」
祖母がそう言うと、女の子は歩美の手を握って、
「お姉ちゃん、遊ぼ」
と甘えたようにすり寄ってきた。
(おばあちゃんの妹からお姉ちゃんって呼ばれちゃった)
歩美は嬉しくなった。悲しいのに嬉しい一一不思議な気持ちだった。
徐々に周りの様子がはっきりしてくる。仏間の中には色々な時代の服装をした、老若男女がたくさん集まっていた。
お盆は魂の帰省ラッシュ一一。
「歩美ちゃんはラッキーだね。お盆の灯籠流しと一緒に向こう側に渡れる。賑やかだよ。寂しくないよね」
男がちょっとおどけた口調で言うと、周りから笑い声が起こった。歩美も釣られて笑う。
「さあ……翔太君にボールを投げてあげよう。お父さんとお母さんに翔太君を返そうね」
男の言葉に歩美は頷く。そして目の前の両親の背中に向けて、手にしたサッカーボールをポンと投げた。
刹那一一。
仏壇の向こう側に、体中にチューブを刺されてベッドに横たわる翔太の姿が垣間見えた。
そして一一。
その横たわる体の上に、体が透けた翔太の姿が見えた。
(透け透け翔太……命を返すよ。お父さんとお母さんを頼むね)
透けた体の翔太が、空中から現れたサッカーボールを受け取る。途端にその姿が掻き消えた。ベッドの上の姿も、歩美の前から消える。
そして一一。
電話のベルが鳴り響いた。
気がつくと、そこは川べりだった。いつの間にか移動したようである。
周りには人がたくさんいた。歩美は不安になって辺りを見回す。と、歩美は肩をポンポンと叩かれた。振り返るとそこにはあの男一一渡し守と祖母、若い姿の祖父に仏間にいたたくさんのご先祖様達が、歩美を囲んでいる。
渡し守は川を指差した。見ると何艘かの小さな船が浮かんでいる。
「渡し船だよ。もうすぐ灯籠流しが始まるんだ。ほら、歩美ちゃんのお父さんとお母さんもいるよ。どうやら病院から駆けつけたらしいね」
「病院から?あ……」
歩美は口を押さえた。今まで心の中で思っていた言葉が、口をついて出てきたのだ。
「歩美ちゃんは“精霊”になれたんだ。だから言葉が出るようになったんだよ。もう僕がいなくても、おばあちゃん達と喋れるよ。よかったね」
「あーちゃん……やっと向こうに渡れるね。“おしょろうさん”になれたんだ。ほら、船に乗ろう」
祖母が歩美を促す。横に立っている若い祖父は、照れくさそうに歩美に笑いかけている。無理もない。祖父は歩美どころか、息子である歩美の父親の顔も知らないまま戦死したのだ。
歩美は川に浮かぶ船を見た。そして不安になる。船は小さかった。とてもじゃないが、この人数が乗れるとは思えない。
歩美の表情に気づいた渡し守が、安心させるように船の縁に手を乗せて、歩美を導いた。
「大丈夫だよ。見かけより広いんだ。大勢乗っても、沈みゃしないよ」
歩美は導かれるままに、船に足を踏み入れた。すぐに他の者も乗り込んでくる。渡し守の言う通り、何人乗っても船は満員にはならない。
どうやら全員が乗り込んだらしい。見ると、ほかの船にも人影が乗り込んでいく。
「ほら、歩美ちゃん。お父さんとお母さんが君の灯籠を流すよ」
最後に乗り込んできた渡し守が、櫂を手にして向こうを指差す。歩美が見ると、川べりに集まった人々が、それぞれ手にした灯籠を流し始めていた。その中に、歩美の両親がいる。二人はほんのりと灯火(ともしび)の灯った灯籠を持っている。そして、大事そうに二人で抱えた灯籠を、そっと川に流した。
ゆらり一一。
たくさんの灯籠が川を流れる。渡し守は船を出して、その中を進む。
ゆらゆら一一。
「病院から来たって言ってたね。翔太は目を覚ましたんだね」
櫂を漕ぐ渡し守に歩美が尋ねると、あの一一心が穏やかになる笑みと共に答えが返ってきた。
「うん、もう大丈夫だよ。まだここには来れないけどね」
「よかった……でも、あたしはお別れなんだ……」
歩美は流れてくる自分の灯籠と、遠くなっていく両親を交互に見て、寂しそうに俯いた。その歩美の隣に、いつの間にか若い姿の祖父が立っている。歩美が祖父を見上げると、そこには優しい笑みがあった。父親によく似ている。その傍らにいた祖母が、小さく首を振って言う。
「さよならじゃないよ。また来年還ってくるんだ。だからね、あーちゃん……」
「また、来るよ……」
それは祖父だった。照れくさそうにやっと絞り出したような声だった。
「また……来るよ……」
歩美が呟く。
また来年一一。
また来るよ一一。
また……還って来るよ一一。
「還ってくるのが魂の帰省ラッシュなら、今は魂のUターンラッシュだね。来年も是非、僕の船に乗船して下さいな」
渡し守がおどけた口調で言うと、周りから笑いが起こった。歩美も笑う。祖母も若い姿の祖父も笑う。
賑やかに賑やかに、この世の川からあの世の川に、渡し船はゆっくりと進む。
ゆらりゆらゆら
水面(みなも)に揺れて
ゆらりゆらゆら
いのちの灯(ひ)
おしょろうさんが川を行く
この世の川からあの世の川に
ゆらりゆらゆら
流れ行く
おしょろうさんが黄泉に向かう
また還って来るよ一一。
―完―
【あとがきのようなモノ】