携帯を忘れた。


気がついたのは電車に乗り込んでから。テーブルの上だとすぐに思い出したが、往復するほど余裕は無いので取りには戻れない。
いつも片手に鞄、片手に携帯を持ち、ニュースサイトを眺めて移動時間を過ごしているが、今日は空いた手でつり革をつかむ。帰宅するまで携帯のない生活だ。緊急連絡など来なければ良いのだが。


周囲の中吊り記事をぐるりと見渡しても興味の湧くような内容は見受けられず、窓の外は始まったばかりの九月が「もう夏は終わりましたよ」と八月ののれんをしまい始めている。周囲には学生達が二ヶ月前と同じように詰め込まれて、先週よりも混み合った賑やかな通勤電車。

そう、夏休みは終わったのだ。

学生時代より会社務めの年数が長くなっても「夏休み」という言葉には心が躍る。憧憬に胸の奥が焦れるような感覚を覚える。
始まらないはずのそれに何かを期待して、終わる寂しさに肩を落とす。ガラス窓の向こう側にある、もう決して交わらない世界を眺めて一喜一憂しているだけなのだが、どうしても漠然とした「夏休みがもたらしてくれる、ものすごい何か」が向こうからやって来てくれるんじゃないかと思っている自分がいる。いい年をして、おこがましいのは理解している。それでも当事者になりたい欲は無くならず、年を経る毎に膨らむばかりで。
それは、白馬に乗った王子様が目の前に現れて、今から舞踏会に行って結婚しようなどと言われるそれと良く似ている。認めたくはないが。

(…あり得ないなんて分かっているさ)

今年のお盆休みだって、結局何もせずに終わった。気になっていた美術展に行った程度で新しい出会いとか嬉しいハプニングとか、そういった類は一切無かった。
いや、ハプニングならちょっとだけあった。


美術展を見終えた後、中庭でソフトクリーム買ってみた。
真夏の暑さの中で冷たいソフトクリームを食べたかったんだ。蝉時雨が絶えず降り注ぐ木陰のベンチ。目の前の道には強い光と木の枝が和らげた影のコントラストが美しく落ちている。夏を感じるには素晴らしいシチュエーションだ。
同じ事を考える人達で、アイスクリーム屋のワゴンは列が出来ている。私もそこへ並ぶ。ソフトクリームなんて何年ぶりだろう。
わざわざ暑い中、並んで買ったソフトクリーム。先端を舐めれば冷たく甘い刺激が欲を満たす。
ベンチの端に腰掛けて堪能していたら、足に痛みが走り目の前 を金色の光が横切った。





続きます