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頭の中


転職してから夜通し泣くことはなくなり、アムカもしなくなり、髪の毛を毟ることも、暴食、拒食を繰り返したり過呼吸にもならず、薬を飲まなければという強迫観念に駆られることもありません。
ただ、これでいいのだろうかと思います。
寧ろ、淡々としすぎて生きている実感はなくなり、生きたいと思うほどの理由もありません。衝動的に消えたいと思うことは過去に何度もありましたが、今はぼうとする時間が多く頭の中がほぼその感情で埋め尽くされてる感じ。

ハムスターを喪ってから、ずっと気づいてなかった、そしてどうして今まで気づかなかったんだろうと思うことに気づきました。


日常というものは、恒久的なものだと思っていました。


妙な考えだと分かっていますが、敢えて書かせてください。
私が、中学2年生だったとき、どこかで小学4年生の子がいたと思います。
私が23歳になると、どこかの小学4年生の子は高校2年生くらいになってることでしょう。
でも私はそれが分からなかったんです。
体感的に、私は何も変わっていなかったから。
私が23歳になっても、その高校2年生の子はさておき、小学4年生の子というのはどこかには存在してるので、時の流れというものを実感できずにいたのです。
年の離れた知り合いがいないのもそれに助長していたのだと思います。
訳わかんない理論と思われることと思います。なぜ疑うこともなかったのか私でさえ不思議です。
ニュースを見ても、私自身は何も変わっていないので、情勢も私の変化のない日常の一端でした。

私は。
学校を卒業し、病院に就職をし、命の始まりと終わりを真近に感じてきたはずなのに、「社会には、私が何歳になっても、様変わりすることなく存在するものがある」、それだけことに、時の流れを実感できずにいたのです。自分のことは置いといて。
ハムスター、大切な子の死に、そんなことは決してないことに気づきました。

例えとして小学4年生をやたら出しましたが、他意はないです。

生と死は0と1。生と死は表裏一体。死は一時的な別れの一点であり、生はずっと続くそれを結ぶ線のようなもの。死ですべてが否定されるわけではない。
いくら生と死について理屈や精神論で理解しようとしても。
今まで気づかなかっただけに、真近に感じた「死」に戸惑いを隠せません。
時の流れと、死は、気づかなかっただけですぐそこにありました。

この考えに至って、何の弊害があると言うと、何をしても無駄…とまでは思いませんが後ろ向き?な感情が付き纏います。
いえ、後ろ向きと言うよりは。
「避けられない現実」を意識しすぎて何事にも無気力になってしまっている。
あれだけ今まで死にたいとか言ってきて、死について改めて考えさせられました。


「心がない人はそもそも死について悲しんだりしない。無駄なお金をかけたと思うだけでしょう」
ペットロスの人のためのバイブルにこんな感じのことが載ってありました。
「無駄なお金をかけた」。そんな考えもあるのか、と思いました。
親が私のことをどう思ってるかはとりあえず置いといて、私が今ここで自殺すると、親は無駄な投資をし続けたことになると思うと踏み止まります。
向こうだって機械ではなく一人ひとりの人間なんだから、死んだときの周りの苦労なんかを考えると、きれいさっぱりいなくなりたい、そういう感情が強いです。


色々思うことがあったり実行しようとしてることがあるので、また近いうちまとめたいと思います。
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