話題:メンタル
曾おばあちゃんに会いたくなりました。会いたくなったと言うよりは、亡くなってから三年間、心に秘めていたという状態です。追々書きたいのですが、生前「会いたい」と口にするのは実家ではご法度でした
今日はその思いが急にドッと強くなって、台所でフライパンを洗いながら泣いてしまいました
曾おばあちゃんのことを思い出す度強く思います、あの頃の自分を殺してしまいたいと。
曾おばあちゃんは、実家とは少し離れた場所に一人で暮らしていて
時々私は母と顔を見に行ったり、お土産やご飯を持って行ったりとそんな関係でした
曾おばあちゃんはいつもニコニコしながら玄関まで迎えにきてくれて、帰るときもニコニコしながら玄関まで見送ってくれた
話ができる時間も機会も、決して多くはなかったけど、楽しかった
会いたい会いたいとせびる私に、母は苦労したみたいです
私は全てを包んでくれるような、優しい曾おばあちゃんが大好きでした
中学生になったある日、工場関係の方々が台所にやってきて、台所と居間の間に壁を作り始めました
「明日からこの部屋に入れないから」
工事が終わった翌日、母は言いました。私は兄とその部屋でアイスを食べながらふーんと聞いていました
私が実家の居間を「実家の」居間と思うのは、この日以降一度もありません。
それからしばらくして、曾おばあちゃんが一緒の家で暮らすことになりました。しばらく会えていなかったので、わくわくしました
でも、会ってはならない、話してはならない、近寄ってはならないと父に、祖母に、祖父に、厳しく言われました
その言葉が本気だと知ったのは、台所側のドアに鍵がかけられてるのを見たときです
狭い居間に曾おばあちゃんを閉じ込めていたのです。内側からは開けられないようになっていました
内から「ここ開けてほしい」と言われても、怒られるのが怖くて開けられませんでした
「開けてって言ってるよ!」
私は祖母に抗議しに行くと、祖母は曾おばあちゃんを叱りに行きました。
何度も思いました。黙ってれば良かったと。
どういう経緯か分かりませんが、曾おばあちゃんは時々外に出て、詳しくは教えられていませんが他人様に迷惑をかけていたようです。
祖母が曾おばあちゃんに怒鳴る声が毎日のように聞こえました
こんな暮らし方を始めて一年近く経ったとき、私がお風呂から上がると、廊下側のドアが開いていてびっくりしました。今まで開いているところを見たことがなかったからです。
ドアが開いていると言っても、青い網戸のようなもので隔たれていました。
布団の上で座ってる曾おばあちゃんは、最後に見たときより驚くくらいちっちゃくなっていました。
曾おばあちゃんは、私に気づくと、手招きしながら
「かわいいねえ、こっちへおいで」
と、私に言ってくれました
どんな思い出も、この思い出以上の出来事はありません
行こうか悩む私を母と祖母が見つけ、私は母に連れられ、祖母は曾おばあちゃんを叱りに行きました
良くも悪くも、私が曾おばあちゃんの声を聞いたのはこれで最後でした
それからまた日が過ぎて、曾おばあちゃんは近くの病院にお世話になることになりました。一度もまともに会わず、話もできないまま、曾おばあちゃんは行ってしまいました。
台所にできた壁の向こう側、居間の方には、曾おばあちゃんが去った後も入ることが許されないままでした。
病院に行ってからも、私は一度も会いに行きませんでした。
今思うと、怒られても行けば良かった、そう思います
何度も「危篤」という言葉を母と父の会話から聞きました
普段温厚な二人の会話が今も耳から離れません
「こんなに面倒みてやる家は他にない」、「いつまで生きてるんだ」
信じられませんでした
今、私がここで、車から飛び降りてびっくりさせてやろうか、とか、そんなこと言うな!と言ってやろうか、と頭の中がぐるぐるしたまま、私は怒られるのが怖くて何もできませんでした。
所詮、私も同じです
いじめられるのが怖いから、自分もいじめに加担する。そんな子と一緒です
とうとう耐えきれなくなった私は、母にコッソリ頼んで、曾おばあちゃんのいる病院に連れて行ってもらいました
病棟は静かでした
曾おばあちゃんの病室のドアは開いていました
ベッドで寝ている曾おばあちゃんの手を、看護師さんが握っていました
私も握りたい
そのとき、はかったようなタイミングで母の電話が鳴って、父の「早く帰ってこい!」と怒鳴り声が聞こえました
私は駄々をこねましたが、聞き入れてもらえず、何もできず帰る羽目になりました。
また会いに行こう。病院と病室は分かったから、今度は、一人で部活が終わったら行ってみよう。何時まで開いてるのか今度看護師さんに聞いてみよう。何か持っていった方がいいのかな。部活が音楽部って言ったら何て言うかなあ。
なんて放課後考えていると
母から電話があり、曾おばあちゃんが亡くなったと知らせを受けました
それからはあっという間でした。
曾おばあちゃんが入った棺の傍で、私は兄とたくさん鶴を折りました
「おまえ、前に、曾おばあちゃんに会いに病院いったってほんと?」
「うん」
「すごいな、俺は行けない。怖くて、会いに行けなかった」
それからは黙々と鶴を折ったり、兄が折り紙で私を笑わせてくれたり。
年の近い親戚がいなかったので、私はずっと兄といました
私は鶴を折る前に、折り紙に手紙を書きました。何羽書いたのかは覚えてません。でも全部折るのがへたくそで、文字が見えて、曾おばあちゃん宛てだから、私以外の誰かがとったら恥ずかしいな、と考えていました
それから、お葬式が始まりました
今思うと、不思議です。式中は私も黙って座っていました。泣きませんでした。
目の前の席には、私の通う中学校の生徒がいました。どうやら一つ年が上の人で、親戚だったようです。彼女は泣いていたので、私はかなり冷淡な人に見えていたでしょう
参列の後、棺が運ばれるところで
私は不動のまま、涙と鼻水でグチャグチャになりながら見送りました
あんな泣き方をしたのは初めてです
ああ、もう会えないんだ
そのときやっと自覚しました
それから、あの部屋は祖父と祖母の共同スペースとなりました
両親と祖父母は不仲なので、私も必然的に近寄りません
何より、曾おばあちゃんが隔離されて過ごしていた部屋という思いが強すぎて、つらくて、意識的にあまり入らないようにしています
祖父母と私も相当仲が悪いです
祖父母間で小さな原因の大きな喧嘩が絶えなくて、私はそれが嫌で距離を置いています
父、母、兄はそれを止めるためにまた声を張り上げます
大きな声も音も、嫌いです
実家にはあまり帰りたくない気持ちが少しあります
そして今日、
いろんなことに毎日うだうだ悩んでいても仕方ない、と、久々に自炊でもしようと思って台所に立っていました
ブサイク、気持ち悪い、死ね、ウザい、言われることが多くても、慣れません
フライパンを洗いながら、曾おばあちゃんだったらこんなこと言わないよなあ、と思い返して
また会ったとき、かわいいなあ、って言ってくれるかなあ
覚えててくれてるかなあ…
そこまで考えて、どうにも涙を止められなくってしばらく泣きました。
会ってはいけない、と言われたのは、もしかしたらもう私のことを忘れてしまっていたのを気遣って言ったのかも知れません。
ただ、今でも、家族はどうしてあんなにも頑なに曾おばあちゃんを煙たがっていたのか、私には分かりません
あの日、何も考えず、こっちへおいでって言ってくれた曾おばあちゃんの元へ駆け寄っておけば良かった
悔やんでも、当時の私になることはできないし、曾おばあちゃんにも、もう会えない
曾おばあちゃんが亡くなってから三年が経ちますが、会えなくなってからだと、六年くらい
ほんとは会いたかった
勇気がなかった
ほんの少しの勇気が出せなくて、馬鹿をみた
一生後悔することになった。
曾おばあちゃんに、会いたいです
もう、何もかも遅いけど