そろそろ陽が完全に沈もうかという時間帯。細い路地は闇が立ち込め、背の高い建物の落とす影と同化を始める。
橙色の残光が濃紺の浸食に抗うように狭い空を彩っていた。
べきん。叩き落としたナイフが硬い音を立てて歩道の氷と共に靴の下で砕け散る。
「ナイフが刺さらないって、化け物かてめえ…ッ」
「…るっせえなぁ……わざわざノミ蟲野郎を思い出させるエモノまで持ち出しやがってよぉ」
猛獣の唸り声にも似た低音が空気を震わせると、へたり込んだ男の体もまたガタガタと震え出す。勝手に喧嘩を吹っ掛けて、勝手に腰を抜かし怯える。その身勝手さにうんざりした。
「とりあえず、」
静雄は伸ばした手に男の襟首を掴んだ。
「俺の前から消えやがれ!!」
大の男の体重をものともせず、ボールを投げるくらいの無造作さで振りかぶって放り投げた。男は軽く数メートルを水平方向に飛んでいき、道路を挟んだ向かい側の店の壁にぶち当たる。倒れて痙攣する男を見ることなく、静雄は踵を返した。
「…くそ、苛々させやがって」
大きく息を吐き捨て、ポケットから取り出した煙草に火をつけようとした時。
「静雄さん…っ」
遠巻きに出来ていた人垣を掻き分け、赤茶色のくせっ毛を揺らして少年が駆け寄って来る。手に下げたコンビニのビニール袋が揺れてかさかさ音を立て、靴音に重なった。先日積もった雪が溶けずに凍っているためコケやしないかと静雄は心配になったが、小走りで駆ける様は安定感があって平衡感覚の良さを感じさせる。
細っこくて幼さの残る容姿は頼りなさげでつい手を伸ばしたくなるが、運動神経は悪くないのだと。知ってはいても過保護になる自分の思考が可笑しくて、静雄は表情を緩めた。
一瞬息を詰め、小さく吐き出すと煙草とライターをポケットに戻す。街灯の明かりに照らされる中、白いコートを纏った小柄な姿が近付くにつれ、沸騰していたはずの怒りが急速に冷めていくのが不思議だった。
「三好」
すぐ目の前まで来た少年の名前を静雄が呼べば、三好は律儀にこんばんはと頭を下げてみせる。しかしすぐに顔を上げると、素直そうな目に心配気な光を浮かべて長身の青年を真っ直ぐに見つめた。
「大丈夫ですか?」
「…?」
何を訊かれたのか理解できず首を捻った静雄に、三好は少し眉を下げる。
「喧嘩になっていたみたいだから…、怪我、してないですか?」
真剣に見上げてくる大きな瞳に苦笑を閃かせ、静雄は肩程の高さにある三好の頭に軽く手を乗せた。大丈夫だ、と頷いてやれば漸く三好はほっと頬を綻ばせる。
「良かった…」
「三好はバイトか?」
親元を離れ一人暮らしを始めた少年は、学費以外の生活費を稼ぐため幾つかのバイトを掛け持ちしていた。無理をしてないかと訊ねても、いつだって笑って大丈夫だと答えるけど。出来ることがあるなら、力を貸してやりたいと思っている。
こくりと首肯して、三好は手に持ったビニール袋をちょっと持ち上げてみせた。
「でも少し時間があるんです。よかったら、一緒に中華まん食べませんか?」
見てる方まで穏やかな気持ちになる、そんな笑顔の誘いを断る理由を見つける方が難しかった。
通い慣れた近くの公園、ベンチに並んで腰を降ろす。三好は紙袋を開いて静雄に見せた。
「あんまんと肉まん、静雄さんはどっちがいいですか?」
冷たい空気を押し退けるようにふかふかと立ち上る湯気、二つの中華まんを前に静雄は悩んだ。元々三好が食べようと思って買ったもの。優しい後輩は静雄の好きな方を譲ってくれるだろうけど、厚意に甘えるばかりでいいのか。自分の方が先輩だというのに。何故か難しい顔で眉間に皺を寄せる静雄と袋の中へ視線を往復させ、三好は納得したように微笑した。
「…はんぶんこ、しましょうか」
「おぉ…」
あんまんと肉まん。真ん中半分というには少し不器用に割って、三好はホット烏龍茶と一緒に大きい方を静雄に渡した。
「この時期、外で食べる中華まんておいしいですよね」
両手に持ったそれを何だか幸せそうな顔で口に運ぶ三好の隣、同じように中華まんにかぶり付きながら静雄はそうかもなと頷いた。
誰かと分け合って食べる温かいものは、冬の夜のきんと冷えた空気すら遠ざける。
言葉数はお互い少ないながら、会話をしながら食べ終わるのはあっという間。最後の一口を飲み込んで、三好は立ち上がった。
「時間か?」
「はい。静雄さんは、お仕事終わりましたか?」
「ああ、後は帰るだけだな」
ついでだから途中まで送るかと考えつつ、静雄も腰を上げる。そこへ、三好が小さなビニール袋を差し出した。
「…なんだ?」
「ショートケーキなんですけど」
「ケーキ?」
甘いものは好きだが、なんでいきなりと静雄の頭に疑問符が浮かぶ。
自分のことのように嬉しそうな顔で三好はにこりと笑った。
「誕生日おめでとうございます、静雄さん」
「…誕生日…」
呆然と呟く静雄に三好は首を傾げる。朝、学校に向かう途中で偶然会ったトムとの立ち話の中で出た話題。間違いではないはずなのに。
「28日ですよね?」
「…ああ、今日か」
学生時代は家族が祝ってくれたが、それ以降他人から祝福された記憶はない。意識もせず、すっかり忘れていた。
おめでとう、なんて言葉を人から掛けられるとは思いもしなかった。不思議な感じだったが、嫌な気分じゃない。
―――というか。くすぐったい温かさが胸に生まれたのをごまかすように、静雄は三好の頭をそっと撫でた。
最悪の気分で終わるはずだった一日を特別なものに塗り替えてくれた、その細やかな優しさが嬉しいと思う。
「今日、お前が会いに来てくれて良かった。ありがとな、三好」
Happy birthday!
2012.01.28
静雄さん、おめでとう!