続きです。
微々裏ぐらいですが、閲覧にはご注意下さい。






「…偽善、者…」

ユーリの胸元から身体を離して、フレンが小さく呟く。掴まれたままの両手首に、僅かに力が込められた気がした。

ユーリに投げ付けられた言葉を、ゆっくりと反芻する。虐げられている人々を救いたい。それは間違いなく本心から思っている事だった。しかし、目の前のユーリはそれを信じていないようだ。

そもそもユーリはフレンを篭絡しようとしていたのだが、その行動はあの男達に強要されているのだろうとフレンは思っていた。このような場所に好きでいる筈がない、というのがフレンの中の絶対的な考えであり、その事こそフレンが今の立場を手に入れる為に必死で努力をしてきた理由だった。

偽善などではない。
そう思ったら我慢ならなかった。


「何で…。君は、こんな事を続けるのが嫌じゃないのか!?」

「……こんな事、ね…」

「そうだ。…僕の育った街は貧しくて、大人が自分の子供を売るのが当たり前だった。売られた子供がどうなったか…考えただけで、気分が悪い」

ぎり、と奥歯を噛み締めたフレンが悔しそうに顔を歪め、固く握った拳を震わせる。
なるほど、そのような行為を心から憎んでいるのだろうという事はユーリにも理解出来た。


「だから、僕は」

「二つ目、教えてやるよ」

「は……、え?」

いきなり話を遮られて、フレンは一瞬動きを止めた。
ユーリの声は、どこまでも冷たい。
その手が触れている自分の手首から、まるで体温を奪われていくかのような錯覚すら覚えるほどだった。


「ふ、二つ目?」

「あんたの質問には、二つの意味があっただろ?一つ目は、あんたとおっさん達の話を『なぜ』オレが知ってんのか」

「…あいつらに言われていたから、だろう?」

フレンの言葉を無視してユーリが続ける。

「二つ目は、あんたの言うところの『こんな事』を、『なぜ』オレがやってるのか」

「だから、あいつらに…!」
「違う」

「違う…?何が違うんだ」

「無理矢理でも、強制でもない。オレは自分の意思で、ここを失くさないために今、ここにいる」

「え……」

「あんたみたいに、表面しか見てないやつにはわかんないんだよ。だから偽善。大きなお世話。…オレは、自分の仕事に誇りを持ってる」

「!!」


ユーリの言葉に、フレンは衝撃を受けていた。



「…オレはこの宿で生まれ育った。母親もここの大夫で、相当の美人だったらしいぜ」

オレは母親似なんだってさ、と軽い調子でユーリが言う。

「あっちこっちのお大尽から引く手数多だったらしいけど、身請け話も全部断って…オレを産んで、すぐ死んだ」

「……」

「客の一人に惚れてたんだってさ。オレは、そいつとの間に出来た子供ってわけ」

聞かない話ではなかった。だが年季の明けない遊女が身篭った場合、新しい命の殆どはこの世の光を見ることはない。身請けが決まっていればまだ話は違うかもしれないが、相手が子を望んでいない場合、身請け話自体がご破算になってしまう事すらあった。

「…君の父親は?」

「オレが生まれる少し前に戦に出て、死んじまったって聞いた。オレを育ててくれたのが、ここの女将さん夫婦」

「……だからここを潰させまいとするのか」

「あんたには分からないかもしれないけど、オレは自分を不幸だなんて思ってない。姐さん達は優しかったし、色んな事を教えてもらった。芸事も、教養も。知ってるか?ただ顔と身体がいいだけじゃ、大夫にはなれないんだぜ」

そう言って少し笑ったユーリは、確かに誇らしげだった。しかし、すぐに瞳が臥せられる。

「初めて客を取った時は、怖かった」

フレンは何も言う事が出来ない。

「でも、客の男もちゃんと女将さんが選んでくれた。もっと金を出す、っていうやつらを蹴ってまで。終わったあとは、姐さん達が気遣ってくれた。…なあ、なんでか分かるか?」

「………」

「オレ達は、ここで生きる以外の生き方を知らない。ここにいるみんな、家族みたいなもんなんだよ」

「それでも…辛い思いだってするだろう。君みたいにここで生まれ育ったというならまだしも、無理矢理連れて来られて酷い目に遭う人だっているんだぞ!?」

たまたまこの遊郭の経営者が人格者で、ユーリが恵まれていただけに過ぎない。そうとしか思えなかった。

実際、この街の外れには幾つもの安宿があって、宿泊客への性的奉仕を行っているところも少なくない。
衛生面の問題から病気になる者も多く、その殆どは満足な治療を受けることも出来ずに命を落とす。フレンがこの街へ来て、初めて目にした現実だった。


「そんなの知って――!」

ユーリが顔を歪ませる。
いつの間にか、フレンはユーリの手首を握り返していた。

「…っ、痛……!!」

強く握られて、ユーリは指先が痺れるような感覚がし始めた。

フレンは力を緩めない。
その指先はユーリとは逆に赤く色付き、掌にユーリの拍動を感じるほどきつく握り締めてなお、離す気にはならなかった。

「く……!」

「痛い?でも君は恵まれてる。今この時も、もっと辛い思いをしてる人はたくさんいるんだ…!」

「…っは、こっちがあんたの本性?」

苦しげに眉を寄せて、ユーリはフレンを見上げた。
しかし何故か口元には笑みを浮かべていて、それはフレンの心を激しく波立たせる。何に対してこれ程までに苛つくのか、フレン自身もよく分からなかった。


「…何がおかしいんだ」

「だからあんたは偽善者だって言うんだよ。オレが恵まれてる?そんなのオレが一番良く分かってる。だったら何だ。やってる事の中身は同じなのに、『恵まれてる』オレにはこの態度か?あんたには救う相手を選ぶ権利があるとでも?…笑わずにいられるかよ」

「なん…」

「あんたは何でここに来た?何でその『酷い目』にあってる奴らのとこに行ってやらないんだ。とりあえず一人二人は助けてやれんじゃないの?…その場しのぎでもさ」

「…どういう意味だ」

「そうやって助けた奴ら、どうなると思う?厄介事を嫌った店から放っぽり出されるか、ますますこき使われるだけだ。あんた、そいつらの面倒見てやれるのか?」

「他の仕事を紹介するぐらい出来る!!」

「他の仕事?それが出来りゃ、とっくに逃げ出してるさ。…いいか、ここは公許だ。国が認めてんだよ、この街でやってる事を!!」

それが何を意味するのか、フレンに分からない筈がない。フレンはその許可を与える国側の人間だ。


「もう一度聞く、あんたは何で、ここに来た?一番デカいところ潰して、上の奴らビビらせようとでも思ったか?叩けば何か出ると思ってんだろ。司法の最高責任者が自ら証拠集めなんて、聞いた事ないな」

「…………」


正直、ここまで見透かされるとは思わなかった。
末端をいくら浄化したところで、キリがない。
この花街が公許である限り、そして街一番のこの遊郭がある限り、全てはなかった事にされて来た。
国のお偉方は、大層この場所を好いているのだ。
仕組みを変えるには、劇薬を使うしかない。

劇薬は、自分だ。

「…そうしなければ、いつまでも人身売買はなくならない。不当な扱いを受けて虐げられる人も減りはしない。例えここが君の家と言える場所だとしても…」

フレンは、見上げるユーリの視線を真っ直ぐに見返した。綺麗な瞳だと、改めて思う。
自分のやろうとしている事でこの瞳を曇らせたくない、と思う心が偽善なのだろうかと、ふと考えれば果てしなく気持ちが落ちていくのを止められなかった。

「それでも…僕は必ず、この街を変えてみせる。…必ず」

小さく、自分自身に言い聞かせるように呟くと、漸くフレンはユーリの手首を解放した。
ずっと握り締めていた細く白い手首には、指の跡がはっきりと残っている。それはまるで朱い縄で縛り上げているかのように見え、まともに見る事が出来ずフレンは顔を背けた。

ユーリは俯き、黙って手首を摩っていたが、やがて小さく息を吐いて顔を上げた。
気配に顔を向けたフレンは、鼻先が触れ合うほどの近さにあるその顔に驚き戸惑い、視線を彷徨わせる事しか出来なかった。

自分は正しい事を言った筈なのに、この後ろめたさは一体何なのか。


「…あんた、本気?一人でどうにか出来る事じゃ…ないだろ」

ユーリの声音は、どこか憐れみを含んでいるような気がした。だがそれは決して不快ではなく、むしろその表情が哀しげな事が不思議だった。

殆ど無意識にフレンはユーリの左頬を掌で包み、そっと親指を滑らせる。
まるで涙を拭うような動きに、薄紫の瞳が小さく見開かれ、すぐに臥せられた。

「何、してんの」

「…君が、泣きそうに見えた」

「ふん…。だったらそれは、あんたのせいだろ。…あんたはいつか、オレから全て奪うんだから」

「そうだな…」


後ろめたいのは、彼女を悲しませたくないと思うからなのか。

結局、魅了されていたのだ、最初から。意味もなく苛立ったのはそのせいだ。
篭絡されてやるつもりはない。だが、彼女が欲しい。
信念を曲げるつもりはない。だが、彼女の居場所は守りたい。

相反する思考の中で、独善的な自分自身を嘲笑った。


「…もういいや」

ぽつりと呟いて、ユーリが臥せていた瞳を上げた。泣いてはいない。だが、心なしか潤んでいるように見えた。


「あんた、ほんとに頭が固いな」

「性分だからね」

「仕方ないな……」

ふ、とユーリが微笑い、僅かに顔を上げた。もともと近かったそれはすぐに触れ合い、柔らかな感触がお互いを包み込む。
中途半端な刺激がもどかしく、フレンは頬を撫でていた掌をユーリの後髪に絡めて思い切り自分のほうへと引き寄せた。

深く合わせた唇は、離れるときに一筋の名残を落としていった。


「…抱く気になった?」

「君がそうして欲しいなら」

「何言ってんだ…。あんたは『客』だ。抱きたいと思ってるのはあんただろ」

「君を袖にする男はいない、か」

「そう。それがオレの矜持」

「…君を抱いても、僕は何も変わらない」

「別にいいさ、どうせおっさん達が何言ったって聞きゃしないんだろ。…オレはこの仕事に誇りを持ってる、って言ったよな。金だけもらって、何もしないわけにはいかないんだよ。あんたは『客』だ。客を喜ばせるのがオレの仕事なんだから」

殊更に『客』と『仕事』を強調され、フレンはこの場所への嫌悪を深くした。

細い身体を乱暴に手繰り寄せ、再び唇を重ねて着物を暴く。
僅かに強張る肢体に腕を回して床に組み敷くと、塞がれた唇の端からくぐもった呻きが漏れた。

潤む瞳が、物言いたげに見上げる。

「ん……っむ、んん―ッ!!」

「……なに?嫌になったのか?」

「違っ…布団!このままじゃ痛いから……」

「必要ない」

「は…?」

「夜を明かすつもりはないんだ」

「………そうかい」


最低な客だな、と零した口を三たび塞いで、滑らかな肌に手を這わせた。

重ねた肌は熱くて堪らないのに、心は痛いほどに冷たい。
名前を呼んでしまいそうになる度に口づけていたせいで、すっかり取れてしまった紅の下から現れた桜色が余程美しいと思った。









頬を撫でる、冷えた夜風が心地好い。


濡れたように光る黒絹の髪も、唇と同じ色に染まってゆく膨らみも、張り詰めた爪先も、記憶に残しては駄目だ、と思う。
灯りを消さなかった事を後悔しても遅く、閉じた瞼の裏にはユーリの姿しか浮かばない。

たった一度、確認の為に呼ばれた以外は互いの名を口にする事もなかった。呼べば揺らいでしまいそうで、何度も唇を塞ぎながら、それでも心の中ではずっとその名を呼び続ける自分が滑稽だと思った。





振り返った先にあるのは、澱んだ堀と高い塀とに囲われた牢獄だ。

いつか必ず解放すると誓った心を囚われた気がして、それを振り払うかのように叫び声を上げた。




ーーーーー
終わり
▼追記