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(五)つづき

【愛よ、愛!/〔パラミタスクール〕】


(五)つづき

 「六波羅蜜の中の布施には、基本的に三つの内容の布施があり、一つは、物品やお金を差し出すという布施、つまり、募金やカンパ、寄付などですね。
 二つ目が自分の持っている能力や技術を差し出すこと、ボランティアと言ってもいいでしょうか。
 そして三つ目が苦しんでいる人の怖れや不安な気持ちを和らげてあげるという行ないなんですね。
 その三つが基本なんですが、お金もないし能力も無いわたしはどうすればよいの? そんなわたしは布施という修行はできないの? という人、つまり、私たち誰にでも出来る布施、それが日霞さんの仰っていた〔笑顔〕なんですね。」
 「だったらわたし、大丈夫!」
と、阿椰が笑顔一杯に声を高めた。
 「仏教の言葉では〔無財の七施〕と言って、他にも出来ることはたくさんあるんですよね。」
 そう言って〔無財の七施〕とホワイトボードに記した私に、日霞が
「無財というのは財産や能力が無いという意味だと思いますが、七施というのはどんなことですか?」
と問うてきた。
 「そんなに難しいことではなく、易しい言葉遣いで接するとか、愛情を持って接するとか、易しい眼差しで見つめるとか、日霞さんは既になさっていることですよ。」
 「わたしもだよ!」
 そう言って、阿椰も手を挙げた。
 「でも、七つもあるんですよね。
 他はどんなことですか?」
と薬師野が訊ねた。
 「具体的なことを言えばキリがないんですが、お年寄りや体の不自由な人や妊婦さんや赤ちゃんを抱いた人など、そうそう、電車なんかにある優先席のマークにあるような人たちを街で見かけて、その人たちが困っている様子なら、『大丈夫ですか?』、『何かお手伝いしましょうか?』などと声を掛けて、希望があれば手伝うとか、友達やお客さんなどには一番いい場所に座ってもらうとか、とにかく、困っている人を見かけたら、具体的にお手伝いをし、友人など他の人を大切にするなどということでしょうか。」
 「なるほどねぇ。
 今は自分さえ善ければ…とか、自分ファーストの風潮ですからねぇ。」
と、薬師野は言った。
 「社会道徳じゃないけれど、自分より弱い立場の人が困っていたら、手を差し伸べるなんてことは、普通だったんだけど、いまは、何か、私もだけど、自分本位で生きているわね。」
 日霞がそう言って阿椰を見た。
 「だって、悪いことをする人のせいで、子どもにも声を掛けるのが憚れる時代ですからねぇ。」
 首を横に振りながら薬師野が言った。
 「無財の七施って、菩薩になるための取り組みというより、みんながそうして欲しい、そうしないといけないような、ホントに普通のことなんだね。」
と、阿椰が言うと、
「ホントよね。
 みんなが少しの思いやりの心があれば出来ることなのよね。」
と、日霞が続いた。
 「愛よ、愛!
 愛こそが布施なのよ!」
 阿椰が強調するように布施の本質を言いのけた。
 「そうですね。
 優しさ、思いやり、つまり、阿椰さんが言った〔愛〕があれば自然に行なえる取り組み、それが布施なんでしょうね。」
と言う私の言葉に三人は頷き、賛意を示した。
 此処に来ている三人は、既に菩薩への道を歩み出している人たちなんだと感じ、私は三人を尊敬の気持ちで見回したのであった。

(五)

【共感の心も/〔パラミタスクール〕】

(五)

 「みなさんのそれぞれに何菩薩を目指すのかという目標が決まったところで、次の話に移りますね。
 次は〔六波羅蜜〕というテーマです。」
 私が言うと、
「ロクハラミツ?
 何ですか、それって。何かパラミタに似てるみたいですが…。」
と、阿椰が言った。
 「はい、六波羅蜜の波羅蜜は、パラミタのことで、パラミタを達成するためには、六つの実践すべき課題があるってことなんですよね。」
と、私は応え、言葉を続けた。
 「如何なる菩薩になるにしても、みんな六種類の実践に取り組まねばならないということなんですよね。」
 「六つの実践?
 それって、滝に打たれるとか、険しい山道を歩くとか、暗い洞窟で坐禅を組むとか?」
 阿椰の発想は面白い。
 実践というと、そういう山岳修行、修験道みたいな修行を想い浮かべるのが普通なのかも知れないなと私は思った。
 「確かにそういう修行もあるかも知れませんが、それは特殊な修行であって、誰もが追求できる菩薩への道である六波羅蜜にはそういうものは含まれてはいないんですよね。」
と、私は言った。
 「私の場合、書道を追究し、書道菩薩になることが目標だとして、そのためには必須の実践なんですね?」
 朝かが訊いた。
 私は頷きながら、話を進めた。
 「六つの実践を列挙しても意味がありませんので、その一つ一つについて考えていきましょうか。
 その第一は、〔布施〕という実践です。」
 「布施って、法事に来たお坊さんに渡すお金のことだよね。」
と、阿椰が言う。
 「それもお布施って言うけれど、布施の心って言葉があるくらいだから、そうじゃなく、ボランティア精神みたいなことしゃないのかなぁ。」
と、薬師野が呟くように言った。
 「私、聞いたことあるんですが、笑顔で対応するのも布施の一種みたいなんですが…。」
 そう言って日霞が私を見た。
 「此処では余り仏教的な教義などに囚われずに勉強したいと思っていますので、大まかにお話しますが、布施というのは、薬師野さんのが言ったようにボランティアに近い感じですね。
 困っている人たちのために寄付をする、募金をするといったことも布施になりますし、実際に現地に行って具体的に作業を手伝うのも布施になります。
 その場合、自分の持っている職人的な技術や能力を提供することも布施ですね。」
 「困っている人の役になるってことだね!」
 わかったとばかりに阿椰が言った。
 「その時にね、よく見かけるでしょう?
 何十万円、何百万円寄付しましたって渡しているところの写真が新聞に載っているの。
 あれはね、寄付が目的ではなく、寄付している私や私の会社や団体、組織を見て下さいと言っている訳で、いわゆる売名行為に思えるんですが、あれは布施には当たらないんだと思いますね。」
 「そうそう、何か汚い臭いがプンプンするのよね。」
と、日霞が同調した。
 「何か、昔、CMがありましたよね、男は黙って…ってヤツ。
 それですね。」
 そう薬師野が笑って言うと、
「それって、ビールか何かじゃなかったかしら?」
と、日霞が笑い返した。
 「CMの話はともかく、その行為の中に、打算とか損得とか、そういった思惑があっては布施にはならない、そういうことですね。」
と、私は言った。
 「さっき、日霞さんが言った笑顔も布施だというのはどうなんですか?」
 阿椰が訊いた。
 「笑顔にも通じるんですが、悩んでいる人、落ち込んでいる人の傍に居て、話を聞いたり、一緒に泣いたり、或いは病気で苦しんでいるひとの背中を撫でてあげたりなど、不安とか怖れとかを和らげてあげる行為も大事な布施になるんですね。
 「何だか観音様みたいだわ。」
と、阿椰が言った。
 「書道菩薩になるにも観音ざまのような心がいるってことですね。」
と、日霞が言うと、阿椰が
「家事をするにもね!」
と、笑って言った。
 「ご存知かも知れませんが、観音様が祀られているお寺の御朱印などに〔大悲殿〕などと記されているのがあるんですが、その〔悲〕というのは悲しいという意味ではなく、共に悲しむ、共感するという意味で、観音様のことを指しているんですが、そういった慈悲の心も布施に当たるでしょうね。」
 「そうかぁ、菩薩になるには、利己的ではダメで、常に困っている人の心に寄り添っていくってことかぁ。」
と、私の言葉に薬師野が天井をみながら、また自分に言い聞かせるように呟いた。


(つづく)

(四)

【あなたは何菩薩?/〔パラミタスクール〕】


(四)

 「菩薩というのは…、」
 私は話を本来の課題に戻すべく口を開いた。
 「サンスクリットのボゥディヒ・サットヴァという音を漢字にした菩提薩?という言葉を略しているんですね。」
 そう言って、私はホワイトボードに〔菩提薩?〕と記した。
 「その意味は、覚りを求めて修行している人ということで、その修行の内容が〔観音〕とか〔地蔵〕とか〔文殊〕、〔普賢〕、〔虚空蔵〕などということになるんですね。」
 「先生!」
 阿椰が手を挙げた。
 「そうすると、覚りというのが何かはわたしには解りませんが、最初に勉強した〔パーラミター〕、つまり、究極最高の状態にするために、自分の課題に取り組んでいる人は、みんな菩薩ということになるんじゃないですか?」
 阿椰の指摘は鋭かった。
 そうなのだ。
 自分の取り組んでいる課題に対して〔パーラミター〕を追究している人は、誰でも菩薩なのだ。
 「すると…、」
と、薬師野が口を開いた。
 「イチローはバッティング菩薩、羽生結弦はフィギュアースケート菩薩、藤井聡太は将棋菩薩ということになるのかぁ。」
 「そこナンですよね、私がみなさんと追究したいのは。」
 私が言うと、日霞が言った。
 「それって、どういうことですか?」
 「わたしたちに菩薩になれと…?」
と、阿椰が続いた。
 「実はそうなんです。
 あなた方一人一人が主体的に、自分を主人公として、何を追究していくのか、どういう菩薩になるのかを自分の課題として見つけ、追究して頂きたいんですよ。」
 私の言葉に緊張の顔を浮かべた三人は、お互いに顔を見合わせた。
 「どうですか、薬師野さん。」
 私は薬師野に眼をやった。
 「私ですかー。」
 薬師野は、少し頭を掻いてから話し始めた。
 実は、私、これまで、空手とか合気道など武術的なことに興味を持ってしてきたんですが、最近、相手がどうだとかというよりも、そうじゃなく、自分が無になること、無になって我というものを無くしていくことが大事ではないかと思うようになり、坐禅なんかに興味を持ってきているんです。
 ですから、菩薩とかパーラミターとかとまではいきませんが、般若心経にあるような「五蘊皆空」というか、自分自身が空である、空として生きていく、そんなことを考えているんです。」
 「へぇー、凄いなぁ。
 もう修行僧みたい。」
と、阿椰が言った。
 私は薬師野が考えていることがよく解った。
 「じゃぁ、一緒に空の体験を深めていきましょう。」
と、薬師野に言った。
 「勉強させて下さい。」
と、薬師野が応えた。
 「日霞さんはどうですか?」
 私は日霞を見た。
 「私は薬師野さんのような崇高な課題ではないんですが、子どもの頃から書道とか茶道とかに親しんでいるものですから、やはり無の境地とまではいかなくても、雑念がなく取り組めるようになりたいと願っています。
 どちらかと言えば書の方ですが…。」
 「すると、薬師野さんは〔空菩薩〕で、日霞さんは〔書道菩薩〕だね。」
と、阿椰が言った。
 「じゃー、阿椰さんは?」
と、日霞が訊いた。
 「わたしかー、わたし、何にもないなぁ。
 家に居て、お掃除したり料理作ったりするのが好きだから…。」
 「だったら、お掃除菩薩かお料理菩薩、家事菩薩かな?」
 薬師野が笑いながら言った。
 「そうかぁ、そのことになり切る、そのことに没頭して、無になって、自分を最高の状態にしていくことを目指している人が菩薩なんだからわたしは家事おばさんじゃなくて、家事菩薩になっていくってことなんだね!」
 そう言って、、阿椰が嬉しそうにみんなを見回した。
 「阿椰さんは、おばさんじゃなく、おねえさんでしょ!」
と、日霞が言ったが、薬師野はそれをも諌めるように、
「だめだめ、そんなこと気にしていちゃー。
 この〔パラミタスクール〕では、歳も男女も仕事もみんな外に置いてきているんだから…。」
と言った。
 私は話をまとめることにした。
 
 「仏像の何々菩薩というのは、釈尊の修行の内容を示しているんですが、その菩薩とは修行をしている人のことを言い、それは何かを目標にパーラミター、即ち、究極最高の状態を目指している人のことで、誰もが菩薩になれる訳で、というか、ならなければならない訳で、この」〔パラミタスクール〕では、薬師野さんは〔空菩薩〕、日霞さんは〔書道菩薩〕、阿椰さんは〔家事菩薩〕を目指していくんだということでいいですよね。」
 「先生は?」
 阿椰だ。
 「そうそう、先生のをお聴きしなくては。」
と、日霞が続く。
 薬師野は黙って私に顔を向けた。
 私は重々しい口調で言った。
 「私は〔気功菩薩〕以外には有り得ないでしょうね。」
 すると、薬師野が私に言ったのだ。
 「先生は、気功を深めるだけではなく、みんなを導いていくことが使命なんですから、指導菩薩じゃないですか?」
 日霞と阿椰が手を叩いてそれに応えた。
 私は1本取られたのだった。

(三)

【仏像はブッダの覚りの内容と修行の内容を伝えている〔パラミタスクール〕】

(三)

 「ところで、此処に安置されている仏さまは阿弥陀如来と観音菩薩、勢至菩薩の三体で、合わせて阿弥陀三尊と呼ばれています。」
 私は話を〔パーラミター〕から次の話に移した。
 続けて言った。
 「このように仏さまには如来と菩薩の二種類の仏さまがおられる訳ですが、仏さまというのは仏(ぶつ)即ちブッダのことで、実際に存在された方はお釈迦様しかおられないんですね。
 因みに、通称、お釈迦様と呼んでいますが、これは正確ではないんです。」
 「正確でないと仰いますと?」
 珍しく日霞が声を上げた。
 「釈迦というのは、当時インドにあったシャーキー族、或いはシャーキー国という部族や小国の名前で、そこ出身の尊者という意味のムーニーという言葉を会わせたシャーキームーニーを漢字にした〔釈迦牟尼(しゃかむに)〕或いは、釈迦尊者、略して釈尊というのが正確な呼び方なんですね。」
 「仏像の中に、釈迦如来とか釈迦牟尼仏というのがあるのは知っていましたが、それが釈尊を表していて、ほかの如来や菩薩は架空の仏様なんですねぇ。」
 薬師野は、常に自分に言い聞かせるように喋る癖があるようだ。
 「架空の仏さまって、お釈迦様、あっシャカムニだっけ、が創られたんですか?」
と、阿椰が訊いた。
 「お釈迦様のことは、この〔パラミタスクール〕では釈尊と呼ぶことにしましょうか。
 で、阿椰さんの質問ですが、沢山の如来や菩薩という仏さまは、釈尊が覚りの中で得た訳でも、説法していた訳でもなく、後世になってからブッダ、漢字では仏に阿弥陀様の陀と書くんですが、ブッダとなられた釈尊の教え、それが仏教なんですが、その仏教を広めるために創られたんですよね。」
 「ブッダの教えを広めるために創られたということは、釈迦如来以外の仏さまにはそれぞれに意味があるってことですよね。」
と、日霞が言った。
 「そこなんですよ大事なところは。」
 私はそう言ってから、お茶を一口飲んだ。
 そして、続けた。
 「今の日本では、阿弥陀さんだろうがお薬師さんだろうが、観音さんやお地蔵さんだろうが、お賽銭をあげて手を合わせて何かをお願いする対象のように思われていますが、実はそうじゃない。
 如来というのは釈尊が何を覚ったのかという覚りの内容を伝えていて、菩薩というのは釈尊がどんな修行をしていたのかという修行の内容を伝えているんですよ。」
 「覚りの内容と修行の内容ですかぁ。」
 また薬師野だ。
 そして、私は本来の課題に話を移したのである。

(つづく)

(二)

【パラミタの意味/〔パラミタスクール〕】


(二)

 「まず最初に、この〔パラミタスクール〕」という名前にある〔パラミタ〕という言葉の意味についてお話しておきましょう。
 最初にも言いましたが、いつでも何処でも口を挟んで善いですからね。」
と言って、私は講習に入った。
 「パラミタとなっていますが、実はパーラミターと言うのが本当のようでね、サンスクリットなんですよ。」
 「サンスクリットって?」
 早速、阿椰が声を出した。
 「サンスクリットというのは、古代インドで用いられていた文章語だそうで、ご存知かも知れませんが、般若心経では〔はらみた〕として表されている言葉です。」
 私はそう言って、手元にある小さなホワイトボードに《波羅蜜多》と記した。
 阿椰が続けた。
 「般若心経、知ってる!
 おばあちゃんが毎朝仏壇の前で唱えてるヤツだ。
 ナンマイダ、ナンマイダって!」
 「般若心経はナンマイダとは言いませんが、多分、そうでしょう。
 一般的に一番唱えられているお経ですからね。」
と、少し笑いながら私は言った。
 「すると、般若波羅蜜多心経(はんにゃーはらみたしんぎょー)って唱えてますが、その〔波羅蜜多〕の漢字に意味は無いんですか?」
 薬師野が口を開いた。
 「中国って、日本のように平仮名も片仮名も無い国だから、サンスクリットの言葉の音も漢字で書くより仕方なかったんじゃないでしょうか。」
と、日霞が言った。
 「そうかぁ、カタカナがないからパラミタを波羅蜜多って書いたんだね。」
 阿椰が言った。
 「そうなんです。
 波羅蜜多の漢字には意味がなく、それはパーラミターというサンスクリットの意味を知っておかねばならないんですよ。
 で、パーラミターですが、これはパーラミとターの合成語で、パーラミというのが究極最高のという意味で、ターというのが状態という意味なんですね。」
 「究極最高の状態、ですかぁ。」
 薬師野が噛み締めるように言った。
 「一番いい状態ってことね。」
と、阿椰が言う。
 「スポーツでも芸術でも、心技体が揃った一番いい状態の時に、最高のパフォーマンスが発揮される訳で、それはスポーツや芸術に限らず、仕事も勉強も、料理なんかでも同じですよね。」
と、私が言うと、
「何をする場合でも、パーラミターでなければならないってことか。」
と、またまた噛み締めるように薬師野が言った。
 「この〔パラミタスクール〕は、人生や日々の暮らしの中で、パーラミター、つまり究極最高の状態にして行くためにはどうすればいいかってことを勉強するスクールだってことなんですね。」
と、日霞がまとめ、三人のパラミタに対する理解が出来たかな?と私は感じ、次の話に移ることにしたのである。
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