「…本当にいいのね?」
「…うん」
「…後悔しない?」
「…しない。終わりにするって二人で決めたから」
「…そう。わかった。
どちらにしろ、答えは二つに一つ。選べるのは一つだけ」
そう静かに呟くと、彼女はすっ、と目の前のテーブルに視線を落とした。
待っているのだ。
私が、決断を下すその時を。
私は、同じようにテーブルの中心を見つめる。
静かな部屋。あまりに静かで、自分のこの鼓動が彼女に届いているのではないかと錯覚してしまいそうな程だ。
深く、息を吐いた。
目の前には、人生を分かつカードが二枚、無機質な顔を突き付けるように並べられている。
その内の一枚に、気を抜けば震え出してしまいそうな手をせめてもの意地で力強く伸ばした。
さあ、全てを、終わりにしよう。
「……」
私の手の中に納まるそのカードを、ゆっくりと表に返す。
そこに描かれていたのは。
醜悪な顔で引きつるような冷笑を浮かべる悪魔ではなく、気品に満ち溢れ、感動に打ち震える私に優しく微笑む気高き女王の尊顔だった。
「…いよっしゃあああああ!!!!」
「ぎゃあああああああああ!!!!」
「はいこれで上がり!私の勝ちね!はいこれで終わりー!」
「待って待って!!もう一回!!もう一回やろ!!」
「やんないよ!流石にもう飽きたよ!」
この期に及んでしつこく食い下がる彼女。
冗談ではない。どれだけこの悪魔のゲームに魅入られているのだ。恐ろしい。
「えええなんでー!?まだ27回しかやってないじゃん!?」
「27回もぶっ続けでババ抜きやりゃあ飽きるわ!!
ていうか二人でババ抜きって時点でなんかもう色々ダメでしょ!!」
「えーだって他の遊び知らないんだもんー!」
だからって幾らなんでも入れ込み過ぎだ。
しかし本人にはその自覚がまるで無いのか、これで何度目かも分からない精一杯のおねだりを飽きること無く私に浴びせかける。うざい。果てしなくうざい。
「いいじゃん楽しいじゃん!
それにほら、27回ってキリ悪いしさ、せめてあと一回やろうよ!ね!?」
「27回も28回もキリの良し悪しは変わらないでしょうが!
大体いつもいつも無理矢理二人ババ抜きさせやがって、それこそこの三日間で何回やったよ!?」
「87回」
「87回!?三日間ババ抜きだけを87回!?女二人でババ抜きを87回!?」
とんでもない数字をけろりと突きつけられて、一瞬ふっと気が遠くなりかけた。
「おお、大事なことだから三回言いましたー、ってやつ?」
「違うわ!!87回もババ抜きに付き合わせたあんたにも87回もそれに付き合った自分にもビックリしてんのよ!!
ていうか87回ちゃんと数えてたのかよ!?何よりそれにビックリだよ!!」
「そりゃあ数えてるよー!ほら、ちゃんと表に付けてるし」
表?とその言葉を頭が理解する前に、どこに仕舞っていたのか何やら紙の束を取り出した彼女は、それはそれは誇らしげにテーブルへと置いた。
A4サイズの更に半分くらいといったところか。その辺で売っているメモ帳程の大きさだ。
その束の一枚目を見やると、でかでかとタイトル・日時・場所・天気(ご丁寧に手描きで太陽やらカサのマークやらがカラーで描かれている。地味に上手くて腹立たしい)、そして戦績表が事細かにびっちりと書き込まれていた。
「キモ!!何枚あるのよこれ!?」
「えーっと、一枚につき5回分まで書けるから、今18枚目かな」
「キモ!!めっちゃキモ!!」
まるで「昨日の夕飯はカレーだったかな」とでも言うようなあっけらかんとした口調に眩暈がする。
「頭痛くなってきた…」
「大丈夫?頭の病院行く?」
「その言い方だと別の意味に聞こえてくるんだけど」
「具合が悪いときには気分転換にババ抜きが良いよ!」
「そのババ抜きが私の頭をガツンガツン殴りつけてるんじゃい!」
いっそこいつの頭をガツンガツン殴りつけたくなったが、その衝動をどうにか堪える。
「もー、さっきから怒ってばっかりー!
いいじゃん!あと一回で本当の本当に終わりにするからさー!」
そんな人の気も知らずに、やろうよーやろうよー、と私の腕に縋り付き、上目使いでたいへん可愛らしくおねだりするこのアマ、いや彼女。
非常に腹立たしいことに変わりはないが、なんだかもう、ここまでやったならあと一回や二回付き合っても大して変わらないかという思いに支配されてもいた。
どうやら87回ぶっ続けでババ抜きをすると、人間の感覚というものはじりじりと麻痺してくるらしい。身を以て知った。
「あーもう、わかった、わかりましたよやりますよ」
「キャアアアありがとう!!大好き愛してる心中しよ!!」
「そこは普通『結婚しよ!』じゃない!?」
「えっ、結婚してくれるの!?」
「しないわよ!!都合の良い方向に持ってくなよ!!」
突然の告白過ぎるし内容が物騒過ぎるし、ああもうとにかく突っ込みが追い付かない。
逆に何でこいつはこんなに元気なんだ。その瞳の輝きは何処からやって来るのだ。吸い取っているのか。私から何か吸い取っているのだろうか。
ちぇーツレないねー、と口を尖らせていた彼女はそれでも、「まあいいや」と、気を取り直したらしい。
「それでは、栄えある88回目の勝負を執り行いましょうか!」
「もうおうち帰りたいよう…」
「ちゃんとこれで最後にするってばー!!」
今更信じられるかそんなもん。
溜め息もそこそこに、すっかり手に馴染んでしまったカードを寄せ集め、適当に切る。
その間に、彼女がテーブルの上に置いてあったカップを台所へと持っていく。
まだ珈琲がカップには残っていたが、もう完全に温くなってしまっているので、新しい珈琲を注ぎに向かったのであろう彼女を特に止めはしなかった。
「勿体ない」と叱られるかもしれないが、それ以上にこの眠気と疲れを熱い珈琲で少しでも醒ましたかった。
文句言うやつは三日間ぶっ続けで二人ババ抜きやってから言いやがれ。
程なく、緩やかに立ち昇る湯気と芳ばしい薫りを連れて戻ってきたので、キリの良い頃かとカードを互いの目の前に配る。
眼の醒めるような熱い珈琲を、覚悟と共にぐいっと飲み干す。あっつ。
目の前に配ったカードの束を手に取ると、どっさり、という擬音が聞こえてきそうな程に愉快な量になっている。
扇状に広げようとするが、カードが多すぎて上手くいかない。
「あー…手札多いなぁ…88回目の重みかなぁこれ…縁起いいなぁあはは…」
「ほらほら、先攻後攻決めるよー」
「……」
じゃーんけーん!と、言葉も振り出す手も勇ましい彼女とは対照的に、きっと今の私は死んだ魚のような眼でもしているのだろう。
なんだか差し出す腕が心なしかほっそりしている気がする。ババ抜きダイエット、特許でも取ろうかな。
そして流れるように88回目の勝負は進んでいく。あ、やばいマジでねむい。
「いよっし!またワンペア揃ったー!」
「ひと勝負の進行具合は早いのよねー異常に」
「まあ二人だしねー。はい、どうぞ」
「んー…どれにしようかな…」
手に汗握るような局面も無く、ふわあ、とつい大きなあくびが零れ落ちた。
「ちょっとちょっと、終わるまではまだ寝ないでよー?」
「この三日間私の睡眠時間奪ってんのはどこのどいつよ?」
「さあ眠気はそこの珈琲で吹き飛ばして!」
「あんたにぶっ掛けて頭醒ましてあげましょうか?」
件の珈琲は(色々な意味で)残念ながら先程飲み干してしまったので、頼れるものは己の精神力のみである。
そのまま、主に9割方彼女が一方的にはしゃぎながら勝負は進んでいった。
流石に、ここまで来たならば、そろそろ頃合いだろう。
何気ない風を装い、口を開く。
「あのさー」
「んー?」
「なんでこんなことしたの?」
「えー?」
真剣な顔で私の手札を凝視している彼女に、これまでに何度か浴びせてきた疑問を再度投げてみる。
「流石にそろそろ教えてくれてもいいんじゃない?
こうやって三日間も顔突き合わせて、88回もババ抜きに付き合ってるんだしさ」
「そうだねー、やっぱり知りたいよね」
「おお…やっとか」
というか当たり前だ。
「ババ抜きってね、実は別のゲームが名前の由来なんだよ」
おい。
「おいこら」
「『オールドメイド』ってカードゲーム知ってる?」
「え、知らないけど…ていうか続けるのその話」
聞きなれない単語も含め展開そのものに付いていけない私をよそに、何を考えているのか分からない表情のまま淀みなく彼女は続ける。
「イギリスで生まれたゲームなんだけど。
同じ絵柄のカードを揃えて、最後に『年をとったメイド』の絵柄を持ってた人が負けなんだって」
はぁ、まあ、なるほど。
あ…それで。
「それで、ゲームの名前が」
「そう、『オールドメイド』だね。
それが段々トランプでも遊ばれるようになったんだけど、その当時はまだ『ジョーカー』ってカードが無かったんだよ」
「え、そうなの?」
ババ抜きといえば、『ジョーカー』はそのゲームにおいての代名詞とも言えるだけに、少し驚きだ。
「その時は『ジョーカー』の代わりに、『クイーン』のカードで『年をとったメイド』を代用していたのですよ」
「んー、それじゃあ『ジョーカー』が出来たのっていつからな訳?」
「それは明治時代らしいよー」
「明治?」
最近と言っていいのか、随分昔なのだなと考えていいのか。いや、かなり昔か。
「うん、明治。日本にトランプが入ってきたのが明治時代なんだけど、その後に誕生したんだって」
「はー…豆知識」
「『ジョーカー』が生まれてからは、『クイーン』の代わりに“ジョーカーを残したら負け”って風にルールが変わったんだけど。
その時に『オールドメイド』を日本語に訳したら『おばあさん抜き』になって」
「…それが『ババ抜き』と言われるようになったと…」
「そういうこと」
「知らなかった」
「ふふふ、褒めてくれてもいいのよ?」
褒めんわ。
「ババ抜きの由来は分かったけど、あんた肝心の問いに何一つ答えてないからね…?」
「ちぇー、やっぱりツレないね…」
「当たり前でしょうが。
で?その話が私の誘拐・監禁とどう繋がってくるのよ?」
「ええー改めて言うとなると恥ずかしいなー」
「いいからはよ言わんかい。こちとら気ぃ抜くと今すぐ夢の世界に旅立ちそうなくらいクソ眠いのよ」
誰がどう見ても、誘拐犯とその被害者とのリアルタイムな会話ではなく、仲の良い女の子同士のそれとしか思えないだろう。
何故お前は誘拐されたのに悠長に誘拐犯とババ抜きしてるんだと言われても、こればかりは言い訳も立たない。
勿論、最初はひどく混乱した。
いくら理由を訊いても彼女は微笑むだけで何も答えてくれなかったし、気が付いた時には片足を鎖で繋がれていたので逃げることも出来なかった。
他人から恨みを買うような真似をした覚えもなく、見ず知らずの恐らく同年代の女に一体何をされるのかと、恐ろしさに身をちぢこませていたが。
何も答えず、何もしてこない彼女が私に求めてきたたった一つのことが、『二人でババ抜きをすること』だった。
初めにそう言われた時、暫く理解が出来なかった。
理解が追い付いたら、一気に怒りが押し寄せてきた。
馬鹿にされているのか、恐怖に陥っている私を精神的にじわじわ追い詰めようとしているのかと思った。
その怒りに任せ、彼女を殴り飛ばして大声で助けを求めていれば、この馬鹿げたゲームは呆気なく幕を引いていたのかもしれない。
でも、どうしてだか気が進まなかった。
何が切っ掛けで、一見無邪気に見える彼女が豹変するかも分からず、勇気が出なかったこともあるのだが。
必死に懇願してくる彼女の顔を見たら、どうしてだか、彼女を押しのけることを躊躇ってしまった。
それで三日間も誘拐犯のお遊びに付き合っていれば世話無いが。
お蔭で恐怖心だの緊張感だのもすっかり吹き飛んでしまった。甘いなあ、私。
けれど、これは立派な犯罪なのだ。
三日間共に過ごして、私には、どうしても彼女が私へ悪意を持っているようには思えなかった。
ババ抜きへの異常な執着や、調子の過ぎることなんかを除けば、至って普通の少女にしか見えなかったのだ。
何かのっぴきならない理由でも無い限りは、こんな馬鹿げた真似をしでかす人間には、どうしても思えなかった。
もし、もし何か彼女が苦しんでいるのなら。
私に、助けを求めているのなら。
「…一目ぼれだったんだ」
と、ぽつりと彼女が声をもらした。
「…は?」
「私ね、ずっとずっと一人ぼっちだったの。
お父さんもお母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも友達も、みんなみんな、それぞれペアがいて。
でも私はいつまで経っても一人のまんまだったの」
一体、なんのはなしだろう。
さっきから、妙に睡魔が煩わしい。
「寂しかったなー。みんなはどんどんペアを見つけて抜けていっちゃうのに、私だけ抜けられないんだもん。
みんなはペア同士でまた一緒に笑ってるのに、私だけずーっと取り残される。
私だけ、死ぬまで上がれない」
「…あ、んた」
頭も口もどんどん重たくなり、言葉の意味を必死で考えようとするが上手く動いてくれない。
そんな私を嘲笑うかのように、腕にも力が入らなくなり、ぱさりと、手に持っていた二枚のカードがテーブルに落ちる。
「でもね!ついに私も見つけたんだー!
好きなんだ。私とペアになってくれる人は、貴女だって思ったの」
その二枚の内から一枚を拾い上げ、絵柄を確認した彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その一枚と、彼女が持っていた最後の一枚を、テーブルに投げ捨てる。
「この時をずーっと待ってたよ。
ただ告白するんじゃロマンがないからね。願掛け、ってやつかな」
「が、がんかけ…?」
彼女は何を言っている?
がんかけとはなんだ?どういう意味だ?
意識が急速に遠のいていく。彼女の言葉も、一切の音も、拾えない。
駄目だ。今、ここで眠ってしまう訳には。
「88回、一緒にババ抜きしてくれてありがとう。
語呂がいいでしょ?でももうババ抜きはおしまい」
彼女が椅子から立ち、ゆっくり近づいてくる。手には珈琲が入ったカップを持っている。
本能的に逃げようとするが身体が上手く動かず、椅子から転がり落ちる。
もう痛みすら感じない。動けない。
床に転がり、抵抗も出来ない私の上半身をそっと抱え上げ、膝枕でもするように私の腰に下半身を滑り込ませてくる。
そのまま、殆ど意識を手放しかけている私の頬を何度もいとおしそうに撫でる。
せめてもと必死で口を動かそうとするが、声を出すことさえままならず、陸に打ち上げられた魚がただパクパクと声にならない声を上げている姿が脳裏に浮かぶ。
と、そんな私を撫でていた手を離し、脇に置いていたカップを持ち上げる。
その真っ黒な液体を口に含むと、私と視線を交わしてにっこりと微笑み、そのまま口移した。
口の中が、微かな苦味と、甘く痺れるような彼女の唾液で犯される。
ああ、だから彼女は飲まなかったのか。
「これで一緒に上がれるね」
目蓋の裏に、無邪気に微笑む少女がくっきりと映り、やがて私の意識と共に闇に溶けていった。