普段見ている表情と違った。その目はギラギラと何かを狙っているようだった。襲いかかりそうな獣の表情をしていた。あの笑顔はどこに行ったんだろう。俺にはできない満面の笑みが、今日はいつもと違う。それはきっと、この大荒れの海のせいだ。
任はどう考えても危険でしかないその海に消えていった。 獣みたいな表情のまま。轟々と音を立てて暴れる海に呼ばれたかのようだった。もしくは、この荒れ狂う海に操られたのかもしれない。そうとしか思えなかった。
俺は、海に消える前の任の表情について考えながら、ただ呆然と立っていた。 大雨が降っていた。風も強かった。それが尚のこと海を荒らす。そして、任の心も荒らす。更には、そんな任を見た俺の心さえも荒らすんだ。俺の胸は、周りと同じように暗くて、強い雨が降っていて、風も音を鳴らして吹いている。自分でも耐えられないほどだった。
何時間俺は立っていたんだろう。雨は止み、風も弱まってきていた。まだ海は穏やかとは言えなかった。それでも、雨と風が収まったから、景色は変わったように見えた。そんな景色をぼうっと眺めていると、海から任が這い上がって来た。
「あれ、綾妃。ずっとここにいたの?びしょ濡れじゃん」
その表情は普段と変わらない。どこか楽しそうで、明るくて、幸せそうな、俺にはできない表情。任がいつも俺に向けてくれる笑顔。それを見た時、俺の胸の中の大荒れが吹き飛んで行く。
「綾妃?どうしたの?大丈夫?」
体が勝手に動いていた。俺の胸に降り続いてた雨が、最後に涙になって溢れ出してくる。俺は任の胸の中ににいた。任はそんな俺を包み込むように抱きしめる。
「綾妃の身体、冷たいね。大丈夫?本当にどうしたの?まさか、俺が海にいるの分かってて待ってたの?」
任は覚えてないんだ。お前が海に消えて行くのを俺は目の前で見ていたのに。俺がお前の名前を呼んだのも聞こえてなかったんだ。やっぱり、あの時の任は海に奪われていた。俺は涙を流し続けた。
「そっかあ…ごめんね、綾妃。寒かったね。もう大丈夫だからね」
任に触れている部分だけが暖かかった。心臓がバクバク鳴っている。強く激しく鼓動している。
「任…」
名前を呼んで見上げると、視界に入るいつもの表情。やっぱり任には、いつもこの表情をしていてほしい。 他の何にも捕られたくなかった。
「台風なんて、嫌いだ……」
お前を海に呼ぶから。荒れた海は任を獣に変えて、そして引きずり込んでしまう。台風が来たら、とてつもないほど海が荒れる。海が荒れたら荒れるだけ、任が荒れる。そしたら、任のこの表情も、心も、海へと消えてしまうから。
「へえ、そうなの?俺は結構楽しいから好きだけどなあ」
俺は任の鎖骨近くに頭を押し付けた。また涙を流した。枯れるまで流れ続けたらいいと思った。そんな俺を強く抱きしめて、任は声に出して笑う。
「んー、ごめんね、綾妃。あれだよ、俺のレヴィアタンとしての本能じゃないかな。だから、うん。そんなに泣かないで?俺なら大丈夫だからさ」
神の使い、レヴィアタン。任がそういう存在であることは認識はしていたけど、それが大きな違いになるとは思ってなかった。それを考えたら、俺はちっぽけな存在なのに。任とは比べようもないくらい小さな存在なのに。…それでも、任は、俺と、”運命”だって言ってくれる。
「うん…、ん…。…分かった。お前が大丈夫なら、別にいいんだ……」
お前がたとえ、海に呼ばれる存在だとしても。お前がたとえ、凶暴な獣だったとしても。お前がたとえ、神の使いだとしても。お前が、お前の心が、俺に向いてくれるなら。
泣くのは止めた。 しっかり密着して、その思いを心の底から伝えた。俺には任みたいな表情は出来ないけれども、お前が”運命”だと思っているのは変わらないのだから。
「ふふっ、綾妃のその顔可愛い」
任はそう笑うと、俺の唇を塞いだ。冷たかったはずの体も、もうそれを感じなくなっていた。
台風は過ぎ去っていた。空も海も俺達の邪魔はもう出来なかった。
おわり