あるところに、一人の少女が居た。
その少女は、ある屋敷のお嬢様で、名は『真央』と言った。
――スッ…
ある日の夜、五歳の真央が、体の弱い母親の部屋の襖を、ソッと開ける。
「!真央…!?」
寝たきりで、うっすらと蒼白い肌をした母親の隣には、真央の兄と、兄の幼なじみであり、巫女である『朋子』が看病していた。
「ここに来ては駄目だと言っておいただろ…?」
真央の兄…『菊丸』は立ち上がり、真央の方へと近付いてゆく。
年の離れた兄に注意され、真央は申し訳なさそうに謝った。
「ご、ごめんなさい……あの、母様は…?」
「……今は大丈夫だ。だから、早くお前は部屋に……」
「真央……?」
不意に、真央の母親の声が響く。
「母様…」
真央の視線が、母親の方へと向いた。
母親…『千歳』は、娘である真央を視界に移し、弱々しくも、優しい笑みを浮かべる。
「母様…!?起きていたらお身体に障ります…っ」
慌てて、菊丸は千歳を寝かせようとするが、千歳は『大丈夫』とだけ言って、菊丸を静かにさせた。
千歳は、朋子に体を起こしてもらい、真央に向かって手招きをする。
「いらっしゃい…真央」
「!…うん!」
真央は嬉しそうに、千歳に近付いていった。
そんな千歳を見て、菊丸は小さな溜め息をつく。
「(本当に…あの人は、どうしてこう、真央には甘いんだか……;)」
そんな菊丸の様子に、朋子は、思わず苦笑いをした。
菊丸の心配する気持ちも知らず、真央は、千歳の手を握って、幸せそうにしている。
「母様とお話ししたの、久しぶりだね」
「えぇ、そうね。…ごめんなさいね、真央。貴女にまで、寂しい想いをさせてしまって」
「……お腹、大丈夫?」
真央は、千歳の膨らんだお腹を、布団越しに触れた。
千歳は、身体が弱いにも関わらず、子供を身籠っているのだ。
その所為か、身体はどんどん弱っていくばかり。しかし、医学も発達していないこの村では、いくら金はあろうとも、子供を産ませないよう手術することはできない。
しかも、身籠っている子供は、ただの子供ではないのだ。
それは、とても神々しくも、恐ろしい鬼との子供だった。
「大丈夫よ…今日は、体調が良いの」
そう言って微笑む千歳の表情は、とても良いものとは思えない。
恐ろしい鬼との間に出来てしまった、子供。
母体に何が起こるのか、それは誰にもわからない。そのため、屋敷の者達も、医者も、巫女も、手の施しようがなかった。
「……ねぇ、母様」
「なあに?」
しかし、その事実を知らない真央は、何の陰りもなく、とんでもないことを言う。
「母様から産まれてきたら、わたし…精一杯お世話する!」
「え…?」
「母様も頑張ってるけど、この子だって、母様のお腹の中で頑張ってるんだもん。わたしも兄様みたいに、立派な姉様になって、この子を愛してあげるわ」
無知とは、とても恐ろしいもの。
千歳は、顔を青くさせながらも、真央に向かって哀しそうに笑い、頭を撫でた。
「そうね…真央に愛されたこの子は、きっと…正しい子に育ってくれるでしょうね……」
その言葉を聞いた菊丸は、長い前髪で表情を隠し、真央を抱き抱える。
「……真央、もう部屋に戻れ。母様の具合が悪くなる前に」
「え…?…でも……」
名残惜しそうに、真央は、千歳を見る。
「母様を困らせるな。御当主や父様のお叱りを食らいたいのか?」
二人の怖さと、説教の長さを知ってる真央は、身体をビクつかせ、渋々頷いた。
「……分かった。でも…また、母様のところに来てもいい?」
「駄目だ。今度は母様が許しても、中には入れないから」
「……」
「菊丸、そんなに厳しくしなくても…」
少し厳しすぎると思った朋子が、控えめに菊丸に言ったが、菊丸は、黙っていろと囁く。
「あ、あの…母様…お休みなさい!」
「……お休みなさい、真央」
菊丸に抱き抱えられたまま、部屋を出る前に、真央は慌てて千歳に夜の挨拶をした。
――パタンッ
……真央が、菊丸に連れられて部屋に戻ると、早々に着替えさせられ、布団の中へと入れた。
「……兄様、母様のところに戻らないの?」
「今日は見張っておく。また、お前が母様の元へ行かないようにな」
「…ねぇ、兄様?」
真央は、優しく頭を撫でてくれる菊丸を呼ぶ。
「何だ…?」
「わたし、何か母様を悲しませるようなこと…言っちゃったのかな……?」
「……」
「母様…スゴく、悲しい顔してた……の…」
次第に眠たくなってきたのか、真央はウトウトと、目を瞑りそうになっていた。
そんな真央の言葉を聞いて、菊丸は、真央の目にソッと手を乗せ、視界を遮る。
「…それは、お前が気にしなくて良いことだ……」
なるべく静かで、安定した声で言ってやれば、真央は直ぐに、眠りについた。
菊丸は、真央が寝静まったことを確認すると、ふぅ…と、溜め息をつく。
「(……"愛してあげる"、か)」
鬼との間に出来てしまった子供に、知らないとは言え、何てことを言う子だろうか。
「(嗚呼、神様…どうかこの子には、残酷な真実を聴かせないで)」
ギュッと、菊丸は真央を抱きしめる。
「(この子は、まだ、憎悪なんて感情を持つには早すぎるんだ)」
だから、ねぇ、お願い
この子から、母様を奪ってやらないで
せめて
この子が、もっと世の中の事を知ってしまうまで
続く