いい天気。
マスクつけてる私に笑いかける子ども。
バイトを始めたばかりで、慣れていない男の子。レジ打ちを間違えてしまい、ハニカム顔。
桜が咲いていた。
いつも浮かない顔のセンパイが、ご結婚されたこと。
なんとなく気軽に話せるようになった同期が、飛んで会いに行きたいと言っていたこと。
溜まっていた洗濯物を風に靡かせてあげられた。
母の息抜きの道が見つかったこと。
ちゃんと目を開けて、心を込めて見渡せば、いろんなところに転がっている温かい出来ごと。
定期的に手放したくなる、イマ。
そんな時に出会う言葉たちは、わたしの世界に足りない物と、欲しかった物を補充してくれる。
人と比べられたくないと思いながら、必死に人と違うところを探し、人に合わせて生きている自分。
息をするように嘘を吐き、自分を守る。
笑顔と嘘は最大の私の防護服だ。
防護服が色んなペイントをされて、色んな鎖をつけて、必死に生きている。
私はこの防護服が無ければ、生きていくことは出来ない。
「生きるのが上手そう」
「いつも優雅だね」
「すごく充実そうな人生だよね」
「友達がいっぱいいていいね」
違う。
全然違う。
瘡蓋にお洒落な絆創膏を貼って、「これ流行っているから可愛いでしょう?」と。
そんなおかしな会話をしてしまうのが私だ。
大した事ない傷を隠し、あたかも大怪我をしているような。
周りがその傷の大きさを知ったら「なんでそんな傷なのに絆創膏を貼っているの?」と言われないように。
みんなが可愛いと言う絆創膏を貼って、笑って絆創膏の話をする。
私はこの絆創膏を何枚、何十枚も貼っては剥がし、捨てては惨めになる。
私は私だ。と言っていた10代。
「変わってる」
「冷酷だ」
「1人が好きなんだね」
「かわいそう」
と、言われていた。
まだ絆創膏は貼らずに、手で傷を隠すくらいの仕草でやり過ごしていた。
自分の傷をだれかの価値観で見られたくないのは変わらない。
私にとってはそれは傷なんだから。
今の私は、人間味があると言えばとても聞こえがいい。
人間味がある、それは渦を巻くように消し殺された醜い言葉たちで出来た風鈴で奏でる音がそう感じさせているのであろう。
風鈴の音が鳴ることで自らも、前よりは良いのかな、と思える。
ガラスの風鈴は、熱を帯びたら液体のように溶け出し、吊り下げた紐が切れたら音を立てて割れていく。
私の世界の音が鳴り続ける限り、
私は呪縛から解放されない。