境界とは世界を形作る外枠である。
護法宗主である御神家は、代々この世界の境界を守ってきた。
ここに来てから延々と聞かされたのはそういった、御神家が如何に偉大であるか、そしてそれに遣えることがどれだけ尊いことか、のふたつが8割、残りの2割は守らねばならないしきたりや御三家のことであって、紫音にとってはそちらの方が重要な気がしないでも無かったが、置いてもらっている身分で口を挟むべきではないと思い、ただひたすらに首を縦に振り続けた。最終的に無表情が過ぎるとかちゃんと理解しているかといった心配を装った嫉妬混じりの話になってきたので、紫音は早々に切り上げて自室へと戻った。
そんなにすごいのか、あの人は。
紫音の親は禁を犯して疎遠になっていたようなので、正直この辺りは殆ど聞くことはなかったが、それでも御神家の名前だけは知っていた。
それが、何故、今になって。
現当主たる龍慶という男は、連れてきて早々に紫音に課された未確定の価値を述べた。原初の存在、その魂の断片。紫音の中に存在するか、というレベルではない。そもそもそんなものが存在するか、という代物のために、紫音は総本山であるこの場所に呼ばれたのだ。紫音はそれを聞くなり、頭が良すぎるというのは弊害もあるのだな、と無表情なりに憐れんだものだ。
当然、多くのものが疑惑の目を向けた。それでも紫音がまたあの日のような目に遭わなかったのは、ひとえに龍慶の膝元であることと、御三家の絶対的な守りゆえである。
紫音はよく人を観察する。それは趣味ではない。全てを奪ったものに対する自衛、幼いなりに学んだ守り攻める術。
一挙手一投足に気を張っていなくては成り立たない程に緊張した空間で、紫音は毎日を過ごしていた。
苦ではなかった。
それを崩そうとする人と一緒にいることの方が辛かった。
笑ってと安心させてくれる人が、ついてこいと導いてくれる人が、大丈夫だと寄り添ってくれる人がいることが、何より辛かった。
それを理解して待っていてくれる、その状況が酷く苦しかった。
全ての原因がその身にあると知っていながら生き長らえていることが、紫音は耐えられなかった。それが許されることが、何より。
「弱さは、上手く使えなければ弱者にしかなれない。お前の本当の弱さはどこにあるか、それはどういった性質を持つか。誤魔化す術以外を知らなくては、やがてお前は自分の弱さで死ぬだろうな」
紫音がぼんやりと雨のなかで空を見上げていた日、うっすらといつものように皮肉のような笑みを浮かべて、龍慶は言った。
紫音にはずっと分からなかった。だから分かるだけの弱さを潰すために学んだ。振るう腕が強くなる度に、足がより早く駆け抜けるようになる度に、知識が思考を追い抜く度に、紫音には更に焦燥だけが募った。
自分を壊したい衝動が、守られた命の鎖を引きちぎりそうな程に。
やがて、紫音はそうでないものを作り上げることにした。自分からかけ離れているほどに安心した。そしてそれが受け入れられることに、歪な安堵感を感じていた。
それを彼等はよしとしなかったことを、紫音はよく理解している。だからこそ、そうでないものを貫くために、紫音は笑った。それがやがて本当になるまで、それが誰を苦しめることになっても。
いつの日からか、紫音は変わった。
懐かしむように、皎夜は笑みを浮かべる。
「子どもらしい我が儘だ。それを君は許すんだね、龍慶」
「それを正すのは俺ではない、義兄であるお前でもないのだろう」
「家族なのに?」
「集団の名目になど価値はない。それが価値を得られるのだとしたら、それは内包するものの価値であって、それ自体にあると思い上がるものに食い潰されるだけだろうな」
「酷いなあ。結構僕は、頑張っているんだよ」
「知っている。だからこそ、お前は既にこの問題の選択肢から外れている」
「報われないなあ」
龍慶は嘲るように鼻で笑った。皎夜はそれに気分を害すわけでもなく、変わらない柔らかに細められた目元のままどこか遠くを見ている。
瞬きの間にふたりの姿はその場所から消えた。
人のいた痕跡すら残っていないその場合に、やって来たのは紫音だった。
何も言わずに空を見上げる。
その目は、いつかの日と同じように、何色も映してはいなかった。