今日は子ども連れでお寺に行く機会がありました。昨日ほどの雪解けもなく、子どもの足でも難なく移動出来たのでとても助かりました。

お寺に行ったのは散歩の一環だったのですが、お賽銭箱の前で鐘を鳴らして遊んでいる子どもをたしなめる際、お寺や参拝の意味を理解することは少しだけ難しいけれど、子どもにも分かって貰えたら嬉しいと深く感じました。
私も小さい頃に祖父母と一緒にお墓参りをするたび、墓前で手を合わせた時になにを考えるべきかを悩んだ記憶があります。

神社仏閣の、とりわけ有名な観光地のお坊さんはとてもお話が上手いと毎度思いますが、特に忘れられないのが修学旅行先で聞いた手をあわせる意味の話です。

手をあわせる時になにを考えるべきか迷う人はたくさん居ます。そんな時はそっと、そのお寺を創った人のことを考えなさい。どうして創ったのかを考えてもいい、どうやって建設したのかを考えてもいい。ただ、お寺というのは誰かの幸せのために、誰かがお金をつかって建てたからこそあるんですよ。

そんな話でした。私も信心深いほうでは無いので手をあわせることにあまり意味を見出せていなかったのですが、成る程これは上手いなと思いました。
信仰に関心のない人がお寺というものを理解するきっかけになりますし、なによりもお寺の創造主に考えを向けるということはその人の生前、つまり昔のことに考えを巡らせることが簡単になるからです。死者に目を向けることで自然と日本の死生観を感じることになり、こうして文化は残されていくんだな、と感動したのを覚えています。

今日私が一緒に出かけた子ども達はまだ言葉もあまり伝わらないのですが、いつか日本の文化に身体だけでなく考えで触れてくれる機会があることを祈る気持ちです。