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Japanese-art

駄弁る。不快な方は読まない。


先日街中で友人と会い、買い物に付き合うというよくありがちな行為をしたんだが、どうにもこうにも私にはあの商業施設という…まぁ平たく言えばパ●コなんだけど、あの建物の中はいつ行っても苦手を通り越して不快で、その正体は何なんだとつらつら考えてみたりしてるんですが。

まぁ全く趣味じゃないと言えばそれまでなんだけど、もっと何か…どうにかならんのかと思う。いわばああいう場所って、限られた若者達が自分の表面を飾り立てる為の場所じゃないっすか。馬鹿みたいな金額を落とす割には他にもっと安いのあるんじゃね?みたいなモンが大半に見えてしまうんだよね。私なんかが見ると。

そもそも私は人間の表面、つまり服飾はその人の思想を端的に表すものだと思う。今めーっちゃ欲しいブランドがあるんだけど(金額的に手を出すか悩んでんだけど)それはブランドのコンセプトにとっても共感する所があるからなんだよね。そしてそれが体現されていて、これなら着たいと思う。

街中にはそういう着たいと思わせる服飾が全然無いんだ。だから私なんか安いもので適当に済ませるしか無くなるんだけど(ま、元々金無いし)、服飾のブランドとは言え人間が作るものだから、それは一つの芸術、アートと言うとデザインと反するから違うんだけど、でも作り手の思想が大元にあり、買い手の求める物といかに一致するかで成り立つ一つの芸術だと思う。
街中に溢れる商品には思想が擦り減っているか、元々無いのか…今一つ魅力が無い。
大量生産と一点物というだけの違いでは無いとは思うけど、それが今の消費社会の構図になってるから仕方ないんだろうな。

なお悪い事にその前に私は美術館に入ってたからますます『形』の『消費』が嫌になったんだとは思うよ。魂の入った作品はどんどん衰退して、形ばかりの消耗品が跋扈す社会。なんだかなぁ、と思うけどもうどうしようもないよね。だってもう日本人は普通に着物を着れないんだもの。私もだけど。『着物』という文化は一枚の布から作られ、それが何世代にも受け継がれ、着れなくなれば他の形で生まれ変わる。作り手の魂、買った者、着た者の魂が蓄積される立派な日本人の文化だという事は今更私が言う事でも無いけれど。しかし日本人は着物を忘れた時点で日本人じゃなくなったんだろうよ。

ここんとこずっと『用の美』という事を考えている。日本画の有り様とは則ち『用の美』だと思うから。つまり描く為に描かれる絵ではない。使う為に必要とされる存在なんだ。西洋画と何よりも違う点はそこだと思う。そもそも『日本画』という呼称も西洋画という呼称があるから付けられたものであって、日本画は『画』であるだけの存在では無いと思うんだ。使う物に日本の心を込める為のデザイン、だから生活の中にあってなんぼの存在だと思う。

それが現代の消費社会と全くそぐわないから『画』だけが一人歩きしてる訳で、そこには伝統もへったくれも無い訳で。…いや伝統が全く無いと言ったら怒られるかも知れないけど、でも現代ある日本画なんて、画材だけやん!!画材だけが日本画である規定…自由っちゃ自由だけど、『日本』画ってなんやねんとも思うんです。

伝統って、やっぱり残るべくして残ってるんですよね。私なんかが言うのも僭越なんですが。ちゃんとそれぞれに理由がある。今の若い子達なんか、その片鱗も知る事の無い世界になっちゃってるけど、それは非常にマズイんじゃないかと密かに思ってます。伝統って、日本という国と言うと大袈裟だが、国を細分化して見た『地域』を支える物でもあるんですよ。伝統を何故守らないといけないかと言うと、今住む『地域』を壊さない為の、もっと解りやすく言えば、そこに住む人間をまっとうに育て、人間関係を支える為の手段なんですよね。それが消えたら、日本の治安はガタガタになる事はもう証明されつつある事だと思います。

大事なのは、個人個人の『良い物』を見る目ではないかと。投資されるべき所に投資されれば、消えずに済む物もある。そうやって物を買う事は使って棄てる消費ではなく、もっと健全な社会の形になると思うんですが。
…待って話が大きくなり過ぎ。


とりあえず、私は『使って貰える』日本『画』をずっと考えています。お付き合いで買わせる物ではなく、誰かの心に本当に『これ良いな』と手に取って貰える一陣の風を起こせるようなもの。平面の絵も描いていきますが、そういう在り方も有って良いんじゃないかと。とにかくアート、とは自分勝手なものだ、という事は自戒しておきます。押し付けちゃ駄目。全て台なし。


だから、うーん、世間の流行やこうあるべきという『形』に押し流されないで、自分の目で物と対峙していきたいんですよ。ガチャガチャ煩い消費社会からは耳を塞いで、朝露や星空、日々の山の色に心を揺れ動かせる日本人でありたいと、正直思います。そこから生まれてきた作品を、一年後の展示で出していけたら……………いやだから自分制作しろよって話ね。


満月は欠けていくもの。

絵の具が乾くの待ってます。


最近絵らしい絵を描いてないなぁ

絵らしい絵って描いてて楽しいもんだと思う。
いかに理想に近付けるか、筆なり鉛筆なり動かす度に何か向こうから応えが返ってくる。
そうやって動かされながら仕上げていく、
何も応えが無くなったら終わる。

そういう絵を最近描いてないなぁ。描きたいないなぁ。




美術史の話。

原初は自然、地球に応じるように描いてた
次第にそれが信仰の為になって
西洋ならキリスト教、日本なら仏教などなど宗教になった。
それで絵を描く、木を彫る、それで食っていく人が現れて
金の為、生活の為の美術が現れた。
権力者に寄り添いながら美術は発展し、西洋はルネサンス、日本は江戸元禄文化で庶民に広がり、大衆受けするものが持て囃された。
大衆文化としての美術は消費される存在となり、時代の空気と流行に左右されながら、未だ消費されていない形を求めて流れていく。
大衆の為の解りやすい形から、新たな形へ。
印象派が日本で持て囃さるのは、浮世絵と同じ解りやすさがあるからだと思う。ただ見てて綺麗じゃん。まぁ当時は実験的で革新だったとは言え。
何か、を描く事からは抜け出していない訳だし。
印象後期、ゴッホがモノ以上に精神、内面を描き出した事こそ革新だと私は思う。
以降の美術は言葉を必要とするようになった。抽象芸術の発展と共に。
大衆の識字率が広まった事もあるし、ただモノを描くだけの美術が行き詰まったせいもある。皆が何かを声高に訴える、20世紀(戦争)の風潮もあったと思う。
クレーは戦争によって言えなくなった言葉を色と形で描いた。
ピカソは戦争とは何かを筆で訴えた。
でも絵を描く人がいる場所が平和になるにつけ、言葉を秘めながら絵で訴えるべき事は少なくなった。
見る、為の抽象絵画や人々の意表を衝くアート、みたいな単純なのが主流になり、
今、芸術はもっと個人的なものになっている。
現代の作家は自分の事を喋りたくてしょうがないんだ。そうにしか見えない。
それが日本だけなのかそうでもないのか、それが知りたいから、
明日と明後日は現代アート三昧します(笑)

なにこの壮大な前フリ…(自分で書いてア然)


いや最近こんな事をつらつら考えてたりするんです。平和だなオイ。

日本人の感覚の幼稚化が思いっきし美術史に影響を与えてるじゃないですか。私は今のこの風潮が嫌で嫌でしょうがないんだけど。
そこに震災があり、国境問題があり、ある種過激なナショナリズムみたいなものが現れたりして、美術だけに限った話じゃないけど、これからどうなるんだろう、っていう
必ず今から何か変化があると思うんですよね。
その流れの行く先が何なのか考えたくて、
と言うか私自身はどこに流れたいのか、何を描くべきか知りたくて、無駄と知りつついろいろ考えたりしてます。
何が出来る訳でもないけど。
直接的な言葉が溢れる時代に、芸術という存在が一体何を人に伝えられるのか、なんだか重要な事だと思うんですよ。
言葉はすぐ喧嘩になるし。
そう言うこれも言葉なんだけど。


うー、まぁ
いろいろ見てきます。(行き詰まった)

spirit


いやもう久しぶりに痺れるもの見ました。

今日のアートビート。帯。

かっこいい。とにかくかっこいい。
本気で着付け勉強したくなったよ、ちょっとマジに。
やっぱ着物くらい着れないとアカンわ。でも男物がいい!(笑…でも本気)

それより何より芸術だったね、今日の帯は。
ごめんなさい本当に私は精神性の意味を勘違いしていた。ナメてたわ。
生き様だよね。
自分の生き方示す事だよね。
『虚しい生を生き抜く覚悟を決めろ』って凄い良い言葉。
それを10歳そこらの子供に言う母親が世の中に居るとは。いやー、京都すごい(そこ?)

人生は元より空っぽなんだよ。
そこをどう生きていくかは自分次第なんだよな。
どうせ生きるなら腹据えて全うしたいよな。
死ぬ覚悟っていうのはそれだけ濃ゆく生きる覚悟なんだ。生き抜く事なんだ。

日本にはその精神があったんだよね。
死ぬ気で己の生業を全うする覚悟だろう。それは武士には勿論だが、職人や農民にも息づいていたと思う。
そういう本質かな。必要なのは。

勉強する事たくさんあるぞ。
この向こう、何か出来そうな気がする。


professional


やれやれ。
暇人続行中しかしもうすぐ職場の慰労会そんな蜩ですよこんばんば

厳密に言えば暇ではないのです

巷説ブームがやって来たのでここぞとばかりに読み返してます。夏だ。妖怪だ。又さんだ。

暇人でないと読み返せないってアレー(笑)


あとめちゃめちゃ寝てます。
いやあの本持ってたら疲れるじゃない。
まあどんな薄い本でも寝オチするがな俺は



あ、一応は絵もね、進める気もある様な。

アクリルの落とし所がどうも見当たらなくて厭にはなってますがね
こんな漢字使う所が如何にも巷説漬け(笑)


なんか締切が思ってたより実は後だった、てェ落ちで。(←わざとやってますよ)



あ、あとテレビも見てます。
番組選べば面白いのよテレビも。
普段はいい子だからさっさ寝るけど←
人並みに悪い子なので休み中はテレビで夜更かし(笑)

まぁ公共放送の率が高いがな。どんな悪い子や。




ま、テレビが発端の話ですが
プロとアマとはなんだろうね、と。

どの番組が発端かは察する人は察して下さい。


ネットが普及して動画が普及して昨今は
下手すりゃプロより全然上手いなんてぇのはよく聞く話で
機械までも芸術染みた事やりだしちゃって

なんかもうこれからの時代は人間の、
それもプロフェッショナルと呼ばれる人達は必要あるのか、という感じですが。

必要、と言うか需要だぁな

プロってのはその道でメシ食ってる人の事だ
つまり需要が無けりゃ立ち行かない。
プロになるにゃリスクが大きい。
ただでさえ狭い門をネットという超自由主義が更に狭くしてる様な気がするね。

そりゃネットからデビューとか聞くけどさ。
デビューした所で上手く行くとは思えんね。

だって今は人間食うだけの社会じゃない。
廃れりゃ人間ごと棄てるだけだよ。


棄てられた人間はどうなるのかね?


消費する側は金出さなくても良質な音楽なり何なり簡単に手に入る。

まあこの際本当に良質かどうかは置いておく。とかく気に入りゃ聴くだろ。

そうやって巷にゃ何処の誰か分からんモンの作った『芸術みたいなモン』がありふれている。


それでプロって要る?この先。


今プロになりたい奴ってのは
働くのが厭だからその道でおまんま食わせて貰ったら良いなぁ
みたいなノリじゃないか?皆が皆とは言わんが。

少なくともプロ目指して、と口先では言ってどっか行った友人はそんな風にしか見えんかったな
舐めんなって話よ。


そりゃあ俺も夢は見るけど
同時に職業画家はつまらんと心底思うね。

性じゃねぇや。七面倒くさいのは。

まあ好きにフラフラ生きてるだけだよ
これまでも、多分これからもそうなんだよ
それでも信念は貫きたいと思うけどね、その好きに生きて好きなモン描いて、好きな時に辞めるってだけの信念。


プロってのはそうはいかない
プロフェッショナルってのはアマチュアのこっち側には想像も付かない様な覚悟が有る筈なのよ
でなきゃ困るんだけど(笑)

受け売りで申し訳ないが、なんかで読んだ、どっかの画家さんが言ってたね
プロとしてやっていくには技術は足りなくても、覚悟さえあれば出来る

その覚悟をアマチュアと比較して簡単に嘲笑い、切り棄てる風潮が俺はどうしても良く思えない。


プロってのは覚悟決めて、その一生に筋通して生きる人じゃねぇかなと思うんですわ。

芸術に限らずモノ作りは人間が出る。
そういう人間が滲み出たモノが本当に質の良いモノだと思う


まあこんな所で虫が一匹ぴゃあぴゃあ鳴いても如何にもならんけどな。


飲み行ってきます

LAST LETTER


 我々人間は人間獣であるために動物的に死を怖れている。いわゆる生活力というものは実は動物力の異名に過ぎない。僕もまた人間獣の一人である。しかし食色にも倦いたところを見ると、しだいに動物力を失っているであろう。僕の今住んでいるのは氷のように透み渡った、病的な神経の世界である。僕はゆうべある売笑婦といっしょに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きるために生きている」我々人間の哀れさを感じた。もしみずから甘んじて永久の眠りにはいることができれば、我々自身のために幸福ではないまでも平和であるには違いない。しかし僕のいつ敢然と自殺できるかは疑問である。ただ自然はこういう僕にはいつもよりいっそう美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであろう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、かつまた理解した、それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずにおいてくれたまえ。僕はあるいは病死のように自殺しないとも限らないのである。


(芥川龍之介/或旧友へ送る手記)





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