話題:創作小説
鍾乳洞的カレー世界は、いざ暮らしてみると思っていたよりもずっと快適で、風呂やトイレなど生活に欠かす事の出来ない設備等も一通り揃っていた。そればかりか、娯楽施設の充実度もかなりのもので、ミニシアターでは日がな一日、インド映画やインド映画やインド映画などが上映されていた。
そして、この世界には、飲み込まれて早々に出会ったジャガイモやニンジンの他にも、タマネギやマッシュルームと云った野菜系住人や、カルダモン、クミンを始めとした二十九種類のスパイス系住人など、非常に多くの者たちが暮らしている事も判った。
それらの住人たちは、いずれも飾り気のない、気さくな者ばかりで、共にカレーに溶け込んでいると云うシンパシィも手伝ってか、僕らが打ち解けるのにさほど時間は掛からなかった。
さて、肝心の脱出方法であるが…
閣下『実は、この世界には“非常口”とも云うべき扉があって、その扉をくぐれば己の望む世界へ行く事が出来るのじゃよ』
ニンジン『えっ、そんな扉があるなんて全然知らなかったわ…ジャガちゃんは?』
ジャガ『俺も初耳だ』
閣下『うむ。この事は、わしやブーケガルニ伯爵など限られた者しか知らんのじゃよ』
どうやら、カレーの世界と云うのは謎と神秘に満ちた奥の深い世界であるらしい。
ニンジン『そしたら、坊やもすぐに帰れるわね』
ジャガ『そうと決まれば、善は急げだ、早速向かいましょうや、その神秘の扉とやらに』
閣下『待て待て。事はそう簡単ではないのだ』
ニンジン『と云うと?』
閣下『その扉を開くには、“二兆八千億分の一”と云う確率を引き当てねばならんのじゃ』
それは小学六年生の僕にとっては想像のつかない数字だった。
ニンジン『閣下、是非とも詳しい説明を』
閣下『うむ。判った…』
そして僕らは、閣下の口から“カレーの中の非常口”の話を聞いたのだが、それは全くもって意外なものであった。
ニンジン『…意表をつかれたわ』
ジャガ『全くだ』
フォンドボー閣下の語るところに拠れば…カレー世界の最奥部に存在する外部世界へと通じる神秘の非常口、通称【ヨガの扉】と呼ばれるドアを開け僕を開けるには、扉に設置されている電子パネルに八桁の数字とアルファベットを入力しなければならない、と云う事であった。その組み合わせ数は【約二兆八千億通り】、相当に根気のいる作業である。
更に、フォンドボー閣下の長年に渡るカレーの研究に拠ると、そもそもカレーとはヨガの具現化した姿の一つであるらしい。
カレーと電子パネルと云と髄分とミスマッチな印象を受けるが、【0の概念】が生まれたのがインドである事を考えると、案外そうではないのかも知れない。現に数学やIT分野でのインド人の優れた業績は世界的にもよく知られている。
閣下『つまり…カレーの中に電子パネル暗証の扉があるのは、むしろ当然なのじゃよ』
フォンドボー閣下は思慮深い笑みを浮かべて、そう語った。
僕はもう、ただひたすら感心するばかりだった。この思慮深さがコク深さとなってカレーやシチューに深い味わいをもたらすのだろう。
学校では決して学べない事を、その夏、僕は学んだのだった。
それにしても、二兆八千億通りとは尋常な数ではない。
ただ、アルファベットが小文字限定であるのは救いだった。これが大文字まで有ると、その組み合わせ数は【64の8乗】となり、もはや天文学的数字となってしまう。
とは云え【二兆八千億通り】でも、気の遠くなるような数字である事に変わりはない。
だが、
閣下『皆の衆、“成せばなる成さねば成らぬ茄子カレー”の精神で当たるのじゃ!!』
そんな閣下の一声で皆は団結し、二十四時間ローテで代わる代わる扉の電子パネルに数字を打ち込む事になったのである。
その決定に対し、誰ひとりとして文句を云う者はなかった。皆が皆、手に手を取り合い支えあっての作業。なんと素晴らしく調和の取れた世界だろう。僕は、そこにインド料理の奥深さをついぞ見たような気がしていた…。
後編part1 終了〜後編part2へ続く。