私はつくづく、他人の期待を裏切る人間だ。
人を信じられない生き物だ。
どんなに親しい友人でも、どんなに親しみを込めて接せられても、その中の細かい幾つかの納得いかない部分で、自分の中にある「受け入れる基準」というようなものを越えることが出来ない。
故に、疑いを持たないで接することはない。

薄情者だ、「人はそんなに悪意を持って、企てを抱いて私に接することはない」という家族の言葉でさえも、受け入れることが出来ない。

私に近づく人間はみんなそうだった。
自分を保つための材料として、都合の良い手駒として、すべて己自身のために私と友達であることを望んでいただけに過ぎなかった。
他に、私と友達でいる価値はないと、必要性はないという人しかいない。
友達や親友というのは、そんな綺麗な絆なんかで出来ている訳ではないのだと、よく知っている。
否定なんか思い付きもしないくらいには。

絆とはなんのことなのだろう。
友情はとても軽い。都合が悪ければ簡単に捨てられてしまうもの。
私の気持ちは、姿勢は、声は、心は、何のために存在して、どんなことに使えば良いのだろう?
どんな使い方が、人と違っていて悪い方にいってしまうのだろうか。

不完全なものを認めるには、自分の不完全さも認めなければならない。
なあなあな気持ちも、面倒くさがりな性格も、逃げられるなら逃げてしまいたいと本当は思っていることを、人間としての価値を上げなければ人と対等でいられないと思っているこんなダメな自分も、それでいいんだと、認めてあげなくてはならない。

そんなの、無理だ。
私は絶対に、今の存在している価値のない自分自身なんか、認めない。
認められない。認めてあげない。認めてなんかやらない。