株だけになった白萩
大悲願寺
東京都あきる野市横沢134
1191年京都醍醐寺末寺として創建。
鎌倉時代末期一時衰退したものの、関東管領足利氏の庇護を受け、江戸時代には徳川家康から20石の朱印状を与えられ、当時は32ヶ寺の末寺を擁したそうです。
1896年真言宗豊山派長谷寺の直末寺となったそうです。
臥龍梅
説明によると、昭和47年に大悲願寺の地元で全国健康都市会議が行なわれた際に、政宗公に縁ある白萩を当時の仙台市長に贈呈したところ、そのお返しとして臥龍梅を戴いたそうです。
臥龍梅はまだ咲いてませんでしたが、こちらも前回伺った際は白萩で埋もれていたので、今回は枝振りが良く見えました。
ちなみに白萩は現在仙台博物館の入口前花壇にもあります。
白萩文書
政宗公が大悲願寺に宛てて送られたもので、1623年と推定されるそうです。
経緯は、13世住職海誉上人の時代に政宗公末弟「秀雄(しゅうゆう)」氏が上人の弟子として大悲願寺で過ごされており、政宗公は川釣りの際に当寺を訪れたそうです。
その後、庭に咲いていた白萩を所望する為に、手紙を送ったそうです。
(計算すると政宗公56才の手紙)
ちなみにこの文書は東京都有形文化財の一つだそうです。
まさか東京の西に政宗公に縁の場所があると思っていなかったので、知った時はとても驚きました。
本堂
説明によると、1685年に建築された、書院造り風の方丈系講堂様式本堂で屋根は入母屋造りの茅葺型銅板葺との事。
2年前の夏に伺った時は、白萩が鬱蒼としてましたが、伐採されていて株が残っているだけでした。
本堂の正面には中門「朱雀門」もあります。
観音堂の彫刻
外周りには彫刻が施されており、正面左右には「極楽」と「地獄」の彫刻、その他の面にも草花や鳥、中国の挿話と思われる彫刻もあります。
(写真は正面上部の箇所です)
説明によると、平成16年からの修復当時の色々修復。
堂内にも彫刻があり、そちらは当時の色彩のままだそうです。
こういう彫刻は皆似ているものかも知れませんが、こちらを拝見すると仙台の大崎八幡宮や瑞鳳殿を思い出します。