リンクがパチリと目蓋を上げると、不意に犬の声が聞こえた。朝日が窓から射し込んでいる。早朝の寒気は朝日では和らがなかったようで、清々しい空気に少しだけ身を震わせた。
朝だ。
顔を洗い今日の予定を確認する。
ここまでは終わっているし、これは明日までに済ませればいい、以前済ませたこれはもう一度やらなくてはならないが、今回でその繰り返しも終わりだ。
リンクは記憶を整理しながら、片手間に食事をする。何度食べても美味しい食事だが、変わらない内容にそろそろ不満が漏れそうだ。
他のヒトは自分と違って、繰り返す前の3日間など覚えていないのだから、こんな不満を持ったところで自分以外に解決する術を持つものがいない。
誰も覚えていないのだ。誰も。いや、或いはこの世界の全てが覚えていないのかもしれない。
リンクは下らないな、と思って考えることを止めた。そうするとほんの少しだけ、食事の味が鮮明になった。
☆
「はいはーい!どうぞご存知俺です!」
「ちょっと、知り合い?」
チャットが不信感を隠そうともせずにリンクに問いかける。リンクは片目だけ細めるようにして、いや、と答えた。
黒髪の少女。髪をひとつに結ったその人物の表情は満面の笑みだった。驚くほど親しげに声をかけてくるが、リンクは彼女に会った覚えがない。
「悪いけど、急いでいるんだ」
「知ってる知ってる!手伝おうと思ってさ」
「何をしに行くのか知っているのか」
「そこは詳しくないので!是非是非説明をしてくれ!」
リンクは大きな溜め息を吐いた。内心で無視を決め込む決断をする。幸いにも道は狭くも一方通行でもない。目の前の人物を避け、追ってくるようならまくこともできる。
リンクは人混みに向かって駆け出した。少女の脇をすり抜けると、入り乱れる人の並みをすいすいと切り抜け、目的の門まで駆け抜けた。
今日向かうのはイカーナ地方という場所で、しかしその半分の道程は既にリンクによってほぼ攻略されていた。ここまでが「前回」の成果であり、彼が気にしているのはまだ未踏のダンジョン構造、敵やギミックのことだった。
「よし」
彼は軽々と宙に浮くブロックを渡る。弓や爆弾、自身の脱け殻など、使い方は実に手際がよく、勝手知ったるといった風だった。
さあダンジョンに挑もうか、と入り口を潜り抜けたところで彼は驚きに足を止めた。
「よっ!早かったなー。さすが」
楽しげに手を振る少女は先ほどさっさとまいてきた相手と同一人物だった。リンクは明らかに警戒してその少女を睨み付けた。
「待った!全然悪い奴じゃないから安心してほしい。善の化身だから!善オーラすごい!安心感がすごい!」
「どうやってここに」
「それはもう、俺くらいになるとギミックを超えるからな!ギミック泣かせにして想定しない使い方をする旅の匠」
「お前は何を言っているんだ」
「大丈夫だ、俺も何を言っているのか分からない」
リンクはこれ以上の会話は無駄だと思い、本格的に相手の存在を無視することにした。時間を取られるわけにはいかない。今度こそ、最後まで。リンクはさっさと歩き出すと、適当な部屋の扉を開けた。
少女はひたすらついてきた。邪魔にはならなかったし、一応助けにもなっていた。リンクは警戒だけは解かないようにしながらも、少女をいかに有効に使うかを考えた。
そこで、彼はふと、何故一緒にいるのだろう、と思った。
少女がついてくるからに他ならないのだが、本来、リンクは見知らぬ相手と行動することはない。まして、こんなに怪しい相手と一緒など考えられない。信用しているわけではない。それは確実だ。だが、何処かで警戒する相手ではないと感じている自分がいた。底抜けの明るさにほだされたのかと思ったが、その考えに違和感があった。
「おい」
「なんだい!何かいたか?」
「……別に」
リンクは独特な太陽のマークを見ながら、身の丈より大きなブロックに手をかけた。
☆
「ああ、駄目だったか」
少女は次々とギミックを解き明かしていく少年を見ながら、困ったように眉尻を下げた。
少女は少しだけ寂しさを露にして、けれどそれを少年に見せることはなく、ただ少年の後を追う。
実のところ、少女は少年に会うのは初めてではない。いやこの3日間の中で言えば初めてになってしまうが。もう何度目か分からない挨拶を思い出しながら、少女ーー紫音は軽く溜め息をついた。
リンクのことをこの世界の人々は忘れていく。時が巻き戻されるとあらゆる記録が消えてしまう。あるのはリンクの記憶と、どこか最後の結果に繋がる解決され固定化された事象のみだ。
しかしながら、紫音だけが分かっていることがある。それは、リンクは「紫音と過ごした時間だけあらゆる記憶が欠落する」という事象だった。
つまり、何度か共に過ごしたことも、時に助け合い解決したことも、その全ては紫音しか覚えていない。
前回も、彼女はリンクと同行していた。意気投合とはいかないが、リンクの呼吸に合わせるのは上手かった。そしてここまで切り開いて、紫音は途中で彼と分かれた。
3日間の中で出会い、仲良くなって、その全てが失われる。リンクがオカリナを吹くたびに、時と共に彼から記憶が奪われる。何度か繰り返しているうちに、紫音も確認する事がなくなった。
ただ、何度でも出会い、何度でも助けに向かい、何度でも仲良くなろうと思った。
「リンク」
不意に名前を呼ばれて、少年が振り向く。少女は笑いながら冗談混じりに言った。
「さて、正念場だ。また頑張ろうな?」
「……お前に言われるまでもない」
リンクはすぐに前を向く。その背中に、紫音は小さく笑みを溢した。
何度でも立ち上がる少年を見つめながら、置いていかれないように、少女は少しだけ歩調を早めた。
(忘れてもいいよ。だって、また会える)