"黒雷の城"と呼ばれる城の、広大な庭。
主の趣味により最低限の手入れだけで花なども申し訳程度にしか存在しないその庭を、見回りという名目で散歩していた"黒雷の城"の准将を勤める青年は、広い芝生の開けた一角に覚えのある顔を見出だした。
「あれ、お前あの葉っぱ野郎の……」
「あ?葉っぱ野郎って誰だよ。桐ノ葉様って呼べよ格下」
葉っぱ野郎、という言葉に紫の髪から覗く耳と視線だけを向け、あからさまに嫌な顔をした少年は、その名をバルカークという。
「嫌だね誰があんな野郎に様なんか付けるか、こちとらいっぺん殺されかけてんだよ。まったくお前もあの無愛想の何がいいんだか」
対して格下という言葉に眉をしかめた、額にバツ印の傷を持つ准将──鈎史は、上司である桐ノ葉と違ってそれなりの反応が返ってくるためバルカークはそこそこ気に入っていた。
「はーバカだねぇオニーサン、自分に興味持たない主人だからこそいいんじゃねーか。猫はそういうのが好きなんだよ。あと桐様にぶった切られたのはあんたの自業自得だろ喧嘩売った方がバカ」
「……お前ら口調とか顔は全っっ然似てねえけどそういう他人をコケにした態度だけはそっくりだなぶった切りてえあとバカって二回も言いやがったなコラ」
──ただし、それは第三者が見れば"話す"というより"喧嘩"に近いものではあったが。
努めて冷静を保とうとしながらも鉤史の額には徐々に青筋が浮かんできていた。
彼らの主であるストラウド直属の部下ではないため位階すら持たないバルカークだが、桐ノ葉は彼の思慮深さを高く買っているために、鉤史でさえその心一つでどうにかできる存在ではない。
それを理解する彼は、度々こうして鉤史の神経を逆撫でしてはそれを楽しんでいた。
猫と自称するが実際彼は猫ではない。
隙あらば獲物をいたぶる性の悪い豹であり、その研ぎ澄まされた爪と牙、彼の握る情報網、そしてその言葉一つ一つに至るまで、全てが彼の武器である。
「斬れるもんなら斬ってみろよ単細胞。ほんとあんた海戦じゃすこぶる強いくせに陸戦と口喧嘩はからっきしだもんなぁ」
「本当マジでぶった切って皮剥いで三味線にしてやろうかテメェ」
「うっわやだこのおにーさんマジ野蛮ー」
「……その辺にしておけ、バル」
「うっげ」
「桐様!!」
延々と続くかと思われた口喧嘩に終止符を打ったのは、バルカークの上司であり立場上は鉤史の上司でもある緑髪の青年、桐ノ葉であった。
苦虫を噛み潰した顔をする鉤史と、ぱっと顔を輝かせ片膝を付くバルカーク。
対照的な反応をするふたりに、桐ノ葉は温度の変わらぬ一瞥を寄越すのみ。
「何の用だよ、桐ノ葉」
「お前に用はない。バル、"氷"の動向は」
何にも関心の無いような声色で、桐ノ葉と呼ばれた青年はバルカークに命じた任務の内容を問う。
「は、"氷"の軍事訓練は例年通り取り行われたようです。ただ陸軍に二百ほどの増員が見られました」
「そうか。ブラフの可能性もある、引き続き警戒を怠るな」
「了解しております。"白"の君にも既にお知らせしてございます」
「御苦労」
淡々と交わされる受け答えに、鉤史は口を挟まない。
バルカークのもたらすイッシュ全土の情報は、それぞれの保有する軍事力とはまた別に"黒"と"白"の大きな武器となっている。
それを理解しているが故に、桐ノ葉と(一方的に)対立する鉤史も、その情報に注意深く耳を傾ける。
"黒""白"の二国の同盟関係は互いの利益と姻戚関係を基盤とした堅固なものだが、一方でこの二国とここ数十年関係悪化の一途を辿っている"氷"の国は、休戦協定を結んではいるものの相変わらず領土拡張に余念が無い。
いつまた些細なきっかけから戦乱に発展してもおかしくない状況には、三国の誰もが気を尖らせていた。
それは"黒雷の城"の最上階、会談室に集い、鉤史らのやり取りを見つめるふたりも、また。
「……お前のところの兵達は仲が良いな、まるで兄弟だ」
「そうか?乱闘騒ぎは日常茶飯事だぞ」
「こんだけ男臭かったらしょうがないだろうさ。うちの冷え込んだ言い争いよりかは頭も痛くならんぞ」
一度だけ見たことのある、傍らの銀髪の女性──カザリナの親衛隊の、背筋の凍るような慇懃無礼の限りを尽くした"言い争い"を思い出し、次にお互い半殺しにし合った後何事も無かったように笑顔で任務に戻る自分の兵の様子を思い浮かべ、"黒雷の城"の主はこめかみに指を当てた。
「……いや、今でも充分痛いんだが。そもそもお前のところの兵は何故全員女性なんだ」
「そりゃ私が男嫌いだからさ」
「じゃあ何故私と婚約なんてした」
「そりゃお前は好きだからさ」
あっけらかんと言い放つカザリナに、"黒"の主──ストラウドは僅かに目を見開いて言葉を失う。
「まさしく鳩が豆鉄砲を喰らった顔だな。珍しいものを見た」
「……からかうのも大概にしろ」
「からかってなどいないさ、嫌いだったら政略婚の相手とはいえこんなにべらべら喋りはしない」
そう、ふたりの婚約は政の一貫に過ぎなかったが、古くからの幼馴染みである彼らがお互いを満更でもなく思っているのは傍目にも一目瞭然であり、両国の友好を内外に知らしめ"氷"への牽制とするという大義名分がなくともそう遠くない未来には結ばれただろうと思われていた。
ただひとつの問題は、帝王学しか知らないふたりはお互いに全く自覚がないということだった。
カザリナの言う"好き"はあくまで幼馴染みとしての"好き"であることは、ストラウドも、そして彼女自身さえも微塵の疑いなく確信していた。
「案ずるな、お前とは長い付き合いだからな、何があっても見捨てはしないさ」
「……それは本来俺が言うべき台詞ではないのか?」
「かもしれないがお前じゃ口が裂けても言いそうにないじゃあないか」
「……」
一瞬自分がそんな台詞を口にする様子を想像してしまい、ますますストラウドは眉間の皺を深くした。
「無いな」
「だろう?」
傾きかける夕日の色を銀髪に映す幼馴染みの女性は、なぜかひどく嬉しそうに笑っていた。
一方その頃。
「ラス兄様、今度の"行き先"はずいぶんと寒いところでございますのね」
「仕方ないよマイヤ、"氷"の領域は標高の高い山脈地帯だからね。だからこそ、短い春の美しさは格別だそうだよ」
寒いと言いつつ、雪の降りしきる中には相応しいとは言い難い服装で、彼らの仕事場となる"城"へ続く道を歩く妹マイヤと、そんな妹の愚痴に理知的な答えを返す、同じくずいぶんな軽装で歩幅を合わせながら歩む兄ラスフールの向かう先。
ただでさえ寒い氷雪に覆われた山の中腹には、ひときわ冷たさを感じさせる青を貴重とした細密なタイルで覆われた美しい城があった。
"氷壁の宮"と呼ばれるそれは、"黒"の情報網の一端を担う彼らの、二重の意味での仕事先。
大きな責任と危険を背負うはずの彼らの顔に、しかし不安の色は無い。
「あら、私寒いのはそれほど嫌いではありませんわ。だって火もよく燃えますもの」
「……あまり急いては駄目だよ、マイヤ?」
「無論、承知しております」
優雅に笑う彼女に合わせるように、頭のクラウンから立ち上る紫の炎がゆらりと揺れる。
いまは熱さを感じさせず、消えることもないその炎は、しかしラスフールが危機に陥ったり、侮辱された時には全てを焼き尽くす業火に変わることをラスフール自身が誰より知っている。
揶揄されても気にする性ではないのだがマイヤが本人以上にそれを許さないために、彼女を怒らせる者がいないことをラスフールは祈るばかりだった。
仕事に支障が出てしまうのは、ふたりの本意ではないのだから。
(いざとなったら消さなきゃならないからなぁ。それはちょっと、面倒だな)
そんなことを、彼は罪悪感の欠片もないまま心中で呟いた。
そしてまた、同じ頃。
リバティーガーデン島と呼ばれる小さな島の、その中心の塔の中で。
大きな長いオレンジの耳をひくりと揺らし、生気の無い目をどこへともない空間へ向ける少女は、窓すらない部屋の中心に座って、誰にともなく呟いた。
「だれか……」
「だれか、わたしを、ここからだして……」
「スー兄、リーナ姉……あいたいよ」
もう何回呟いたかもわからない。何年ここにいるのかも、いくつ季節が過ぎたのかも、少女は知らなかった。どうでもよかった。
それだけの長い時を、彼女はこの塔の中で生きてきた。
彼女を匿いながら幽閉する、内装ばかりがファンシーな牢獄から彼女が自由になるまではまだあと少しの時間を要する。
イッシュ地方の"裏側"の一部でしかない小さな世界の中で。
いくつもの勢力が立てるさざ波を受けて、動乱は静かに、しかし確実に蠢き始めていた。
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最後だけちょっとシリアスになったよ長いよ不淵さん。
書いたときに設定まだできてなかったから華孫だけ出番ありません、つかまだできてないよごめんよ華孫。