『深く抉られた傷跡』の続き





「この隠れ家はもう駄目だ」


先日、結界を施しているにも関わらず妖がこの隠れ家に侵入してきた。しかも、その妖は夏目を殺そうとしたのだ。
斑が駆け付け、夏目の命は間一髪の所で助けられた。しかし、妖に殺され掛けたショックで壊れ掛けていた心が完全に崩壊してしまった。
再び記憶を失ってしまった夏目。
もうこれ以上、彼の心に傷をつけさせてはならない。三度目があった場合にはきっと取り返しのつかないことになるだろう。
そうなる前に、誰にも見つからないような場所へ夏目を移動させなくてはならない。


「……夏目…体調が万全ではないことは知っている…だが、これはお前を護るためなのだ」

「……ん…分かった…」


コクリと頷く夏目の顔色は真っ青で斑を見上げる瞳は虚ろだ。
明らかに体調が悪そうな夏目に無理はさせたくないが、そうも言ってられない。彼の為に一刻も早く此処から離れなくてはならない。
妖たちにこの場所を知られた以上、もう時間の猶予はないのだ。


「夏目、具合が悪かったらちゃんと言うんだよ?」

「…うん……えっと…」

「ヒノエだよ」

「ヒノエ……心配してくれてありがとう…」


ヒノエの手を借りて斑の背中に乗った夏目が彼女に向かって柔らかな微笑みを浮かべる。
しかし、ヒノエの心は彼の笑顔とは裏腹にズキリと痛んだ。
どうして笑っていられるのだろう。
深く傷ついて、心が壊れて、記憶を失って、それでもなぜ彼はまだ笑っていられるのだろうか。
わからない。人の子とは、人の心とは、わからない。理解が出来ない。


「…一つ…聞いていいかい…?」

「…うん?何だ?」

「その…これの名前を思い出せるかい?」


これ、と言って斑を指差したヒノエに夏目が瞬いて首を傾げる。


「…えっと…何だっけ…」


知っているような、知っていないような。
曖昧な答えを返してきた夏目にヒノエは溜息を吐いて今度は自分自身を差した。


「じゃあ、私の名前は?」

「……えっと…」

「じゃあ、アンタの名前は?」

「…………………」


答えはない。
先程、ヒノエは自分の名前を教えた。
更にヒノエは質問をする前に斑の名前、夏目自身の名前も一度言った。
それなのに彼は覚えていない。わからない。
一度目は記憶を失い、二度目は記憶を失っただけではなく、記憶することも出来なくなってしまったのだ。
それ程までに夏目の心は酷く傷つき、深く抉られて、遂に壊れてしまった。


「…アンタの名前は…夏目だよ…夏目貴志」

「……夏目…貴志…」


まるで他人を呼ぶみたいに何の感情も無く、自身の名を呟く。
繰返し繰返し自身の名を口にしていた夏目だが、不意に口を閉ざしてヒノエを見る。


そして


「―――夏目…って、誰?」


先程、教えたばかりなのにもう彼は自身の名前を忘れてしまった。
まるで流れる水のように彼の中から記憶が消えていく。
このまま彼が“全て”を忘れてしまったらどうなるのだろうか。
考えるだけでゾッとする。


「ヒノエ、余計な混乱を招くな。…そろそろ行くぞ」

「……ああ…そうだね…妖たちに見つかる前にさっさと此処から出ようか」


体調が芳しくない夏目を労りつつ、斑とヒノエは隠れ家を包む結界の中から飛び出した。


「ここから先、森の奥にある山の方に新しい隠れ家を用意したよ」


三篠や中級達が待っているはずだよ、とヒノエが煙管を吸いながら言う。
斑は無言でヒノエが指し示す森の奥にある山へと向かった。






*   *   *






ああ、もう
折角見つけだしたのに、もう逃げ出してる。

妖たちの手によって破壊された小屋の中は既に裳抜けの空だ。
苛立ちを隠しもせず、黒い影は隠れ家の周囲に咲く花弁たちを踏み潰した。


『…絶対に見つけだしてやる』


見つけて、殺してやる。
人間風情が斑様のそばに居ることなど許されるはずがない。
傍に居ていいのはあんな人間じゃない。

この


『白夜だけだ――!!』


影の瞳に殺意の光が宿る。
風が勢い良く吹いて、足元の花弁が宙に舞った。






―流れる記憶―