重たい瞼を開けると見覚えの無い天井が目の前に広がった。
まだぼんやりとしている意識を覚醒させようと、田沼は瞬きを繰り返した。
俺、どうしたんだ?夏目を探して噂の山に入って──ああ、そうだ。足を滑らせて崖から落ちたんだった。
意識が途切れる前までの記憶を辿り終えて、田沼の頭に新たな疑問が浮かぶ。
一体此処は何処なのだろうか。崖から落ちた自分を誰かが助けてくれたのだろうか。
取り敢えず周囲を見渡そうと顔を横に向けた田沼はピシリと固まった。
「……なっ……!?」
探し人である夏目が田沼の横で寄り添うように眠っていた。
驚いて勢い良く身体を起こしたものの、全身に激痛が走り、床に倒れて痛みに呻いた。
「漸く目を覚ましたか」
聞き覚えのある声。
この声は。
痛みに堪えようと強く瞑っていた目を薄っらと開けてみると其処には見覚えのある招き猫がちょこんと座っていた。
「ポン太……!?」
「ポン太ではない。ニャンコ先生と呼べ」
やはりこの招き猫は田沼が良く知るニャンコ先生だった。
先生が崖から落ちて倒れている田沼を助けてくれたのだろう。
「先生、ありがとう」
「礼など要らん。それよりもこれを飲め」
ニャンコ先生が徐に猪口を差し出してきた。
痛む身体を無理矢理起こしてニャンコ先生から猪口を受け取る。
中に入っていたのは透明な液体。匂いは無いのでただの水だろうか。
「治癒の泉から取ってきた水だ。それを飲めば身体の傷も多少は癒えるだろう」
田沼はニャンコ先生の言葉を信じて猪口に入ってる水を一気に飲んだ。
身体中に染み渡る水。心なしか身体中を苛んでいた痛みが和らいだ気がする。
「それで田沼、お前は何故あんなところに倒れていた?」
「そんなの決まってるだろ?夏目を探しに来たんだ」
「何故だ?」
「何故って……夏目は大切な友人で……友人が居なくなったら普通は探すだろ?」
「夏目を探して、見つけて、それからお前はどうする気なのだ?」
「どう……って、そりゃあ家に帰すに決まってるだろ?塔子さんも滋さんも夏目のことを心配してる」
「お前は噂を知らんのか?」
ニャンコ先生の言葉に田沼は目を瞬かせた。
噂とは最近聞いたあの噂のことだろうか。化け物を引き連れた少年を見掛けた。その少年が夏目ではないかと言う噂。
近所の人たちはその噂を信じ、恐れていたが、田沼を含めた夏目のことを良く知る友人たちはその噂を信じてはいなかった。
「知ってるけど……誰も信じてないぞ?」
「夏目を良く知るお前たちはな。……だが、夏目を良く知らない人間たちはどうだ?噂を信じていないのか?夏目を恐れてはいないのか?」
「そ……れは……」
ニャンコ先生の問い掛けに田沼は言葉を詰まらせた。その問い掛けに上手く答えられなかった。
田沼の反応を見て察したのだろう。ふう、と呆れたようにニャンコ先生が溜め息を吐く。
「やはりな……」
「だ、だけど!塔子さんも滋さんも夏目のことを信じてる!勿論俺たちだって……!」
「別にお前たちのことは疑っていない。……だが、人間共が夏目を恐れているのならば、このまま帰すには行かない」
「なんで!」
「わからないのか?」
「……え?」
ニャンコ先生の鋭い視線が突き刺さり、田沼は思わずたじろいだ。
夏目を人里に帰せば彼を恐れている人間共が直ぐにでも動き出すだろう。祓い屋である名取にも妖怪を従えている少年の捜索依頼が来ていたのだ。もし、夏目を恐れている人間共や祓い屋に夏目が捕まったらどうなる?夏目を匿っていた藤原夫妻はどうなる?夏目を信じているお前たちはどうなる?自分達は大丈夫?危害は加えられない?そんなわけないだろう。人間共は恐れている物を徹底的に排除しようとするだろう。お前たちも夏目の仲間だろう、そう言われて排除されるのがオチだろう。
「……無理に連れ帰って夏目だけではなく、お前たちにも何かあれば……傷付くのは夏目だ」
「……っ……」
もう、何も言えなかった。
ニャンコ先生の言う通りだ。今、夏目を連れて帰ったとしても彼の安全どころか自分達の、藤原夫妻の身も守れないのだ。
もし自分のせいで俺たちが傷付いたら、心優しい夏目は己を酷く責めるだろう。
悲しげに揺れる夏目の瞳を思い出す。
もうこれ以上彼に悲しい想いをさせるわけにはいかないのだ。
いつの間にか強く握っていた拳が膝の上で小刻みに震えている。
何も出来ない、無力な自分が悔しくて情けなかった。
そんな田沼を見てニャンコ先生がもう一度溜め息を吐く。
「それに、夏目を帰せない理由がもう一つあるのだ」
「……え?」
夏目を帰せない理由がもう一つ?それは一体──。
ニャンコ先生が言葉を続けるよりも先に眠っていた夏目が小さく身動いで目を覚ます。
虚ろな瞳がゆらゆらと動いて漸く田沼の姿を捉える。
夏目と目が合って、嬉しくて、田沼は彼の名前を呼んだ。夏目、と。
しかし
「……誰……夏目って……誰だ……お前は……誰……?」
「…………え?」
虚ろな瞳は田沼を一瞬だけ見て、直ぐに閉じられた。
重い沈黙のなか、夏目の寝息だけが聞こえる。
夏目を帰せないもう一つの理由とはまさか。
「夏目の心が、壊れてしまったのだ」
衝撃の余り田沼は言葉を失った。
夏目の心が壊れた?
信じられなかった。信じたくはなかった。
しかし、ニャンコ先生が嘘を吐いているようには見えない。目覚めた時の夏目の様子と言葉を思い出す。
信じられなかった。信じたくはなかった。
だが、それが真実であることを田沼は嫌でも確信してしまった。
─虚しい再会─