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マルボロライト 

 

気が付けば
4月が終わる。




ずっと会ってなかった友だちと会えなくなった。

それは、距離的な問題でも、時間的な問題でもなく。もう2度と会って話せないし、くだらないことで笑いあえなくなってしまった。老いてからも、いっしょに話したいと思える、気軽に飲みに誘える、自分にとっては稀有な存在だった。

こころのそこから尊敬もしていたし、憧れの存在でもあった。自分には無い能力を持っていて、それをひけらかすわけでもなく、しずかに、波風立てずに生きている姿がかっこよかった。愛嬌のある見た目から発せられる鋭い毒針は面白くて、ずっと話を聞いていても飽きなかった。

思えば、煙草を吸い始めたのも、そう、。お酒の席で、いっしょに吸うようになって、仲がより深まったような気がした。ライブの開演前とか終演後とかの「一服。」が心地よかった。お酒も、いっしょによく飲んだ。特に理由も無く、駅前の居酒屋にふらりと入って、実の無い話をだらだらと話せる友だちだった。けれど、自分の意識を少し変えてくれるような言葉を、いつもくれたような気がする。ことばに説得力があって、かつ、いっさい説教臭くない人生論が好きだった。好きなように生きているように見えて、なんとなく生きているように見えて、足はしっかり地に着いているひとだった。


去年の晩夏に亡くなったそうだ。

あれほど親しい仲だったのに、亡くなったことを知らないまま8ヵ月も経っているというのが、心苦しさを増幅させているように感じる。もっとはやく思ったままに行動していれば、もっとはやくにこのことを知れたはずだ。悲しい。家族ぐるみで関わりを築いていないと、個人の生死って伝わってこないのか。仕方ないことだけど、悲しい。


最後に会ったのは、去年の4月の頭。思い返してみると、あのときも体調が悪そうに見えた。就活の愚痴を一方的にこぼしながら、ブタキムチを食べて、煙草を吸って、酒を飲んで、そんなに深酒をせず、健全な時間に解散した。それから、会わないままだった。

会おうとすれば、梅雨も、夏も、きっと会えたのに。誘えばよかった。2010年や2011年は、月1ペースで飲みに行っていたのに。何を遠慮していたのか。就活がうまくいかないことに関して恥ずかしさを感じる相手でも無かったし、居心地の悪くなる励ましや上からのアドバイスをしてくるひとでもなかったのに。なんでも、誘えばよかった。

8月の頭に「くるりとエレカシを1日で観ましたよ、」といった内容のメールをしたとき、返事が来なかったことにもっと疑問を抱くべきだった。いつもなら、すぐにウィットに富んだ返信をくれていたのに。暑中見舞いの1枚や2枚、出せばよかったのだ。冬にも、寒中見舞いを出していれば、もっとはやくこのことを知れたはずだ。共通の友だちと、「生きてんのかなー?」なんて笑って話している暇があれば、筆を執るべきだったのだ。そんな話をしているときには、もうこの世には居なかった。

あれこれ考えたり言ったり後悔したって、戻ってこないものは戻ってこないからどうしようもないけれども、数少ない、たいせつな友だちが居なくなってしまったという初めての出来事で、頭の中が支配されている。

フジファブリックを聴くと本当にいろいろな思い出が浮かんできて。悲しい。あの居酒屋行ったなあとか、ライブでいっしょにはしゃいだなあとか。おととし、お勧めの白黒映画のVHSといっしょに貸してもらった中村一義の『ERA』を聴きながら、この文章を書いている。どの曲も、悲しい曲に聴こえる。ボウディーズや、東京事変も、思い出が付随してきて、うかつに聴けない。




いますぐにでも会いに生きたいけれど、とりあえず、落ち着いてから。

今日会っている友だちも、明日には会えないのかもしれない、と思うと、誰のこともたいせつにしようと思える。って、こんなこと、あのひとに言ったら多分鼻で笑うだろうけど。そこが好きだった。サムいこと、クサいこと、ダサいことが嫌いで、自分の感覚を確信して生きているところが。それをしっかりことばに出来ているところが。ぜんぜん嫌味っぽくなくて、教養の高さも知っているから、いつもいろんな話を聞きたくて仕方なかった。好きなものを語るときに熱くなるところも、おちゃめで好きだった。もう、対面で笑い合えないって、悲しい。


いま居る友だちも、自分も、家族も、親戚も、知り合いも、誰もかれもいつか死ぬ。「死」を誰と共有できるか。リアルタイムで誰かの死を知ることと、時間が経ってからその死を知ることと、その死を知らないまま自分自身が死ぬこと。どれがいちばんいいかなんて、分からないけど、なんか、考えてたら誰も死んでほしくなくなった。生きっぱなしでいいのに。けっきょくそれはそれで悲しいんだろうけど。

生き死にの視点でものごとを捉えれば、誰それの鼻につく発言も、気持ち悪いいろいろも、腹立つ出来事も、不安なことも、なんの問題でも無いような。忘れていってしまうのがいやだ。日々に忙殺されて記憶が片隅に押しやられていくのが。そっちのほうがいいのか。そこで割り切れるひとが、大人なんだろうな。大人ってすごいわ。おばあちゃんのお墓参りもしばらく行ってない。悲しんでると思う。行こう。



行き場の無い悲しみ、後悔。これからこういうことが確実に増えていくことを思うと、人生って...。

いま会えるなら、「すいません」でも、「ありがとうございました」でもなく、「普通に飲みに誘えばよかったですねー」って言いたい。悲しい。


親しくないひとなら死んでもいいなんて決して思ってないけど、なんであんなに親しかった、慕ってたひとが死んでしまったのか。まだ信じられない。





- - - - -



ただ飛ぶ鳥に、涙がつたう、
素晴らしき世界だね。

昨日の夢にも、君が出てくる、
素晴らしき世界だね。

さようなら。ここで降ろしてくれ。
たださ、僕は この両足でね、これで…、
歩きたいんだ…、わかるかなぁ。

犯罪者であっても、スヤスヤ眠る、
素晴らしき世界だね。

クロだったものも、シロに化かす、ホント
素晴らしき世界だね。

忌わしき世界だね

さようなら。ここで降ろしてくれ。
たださ、僕は この両足でね、これで…、
歩きたいんだ…、わかるかなぁ。

コトの終わりに、何か始まる、
素晴らしき世界だね。

アホな僕等を、太陽がのぞく
素晴らしき世界だね。

素晴らしき世界だね。




- - - - -

へそ曲がり衝動 

 





ゴミクズのような春の新生活。

こんな生活も長くは続かない、CRAZY完全な大人になるべく強い意志を貫けるようにしないと。、といってもそうするための意思がまず必要なんだけど。1万円札を崩すために買った料理本で「しょうゆ+みりん+砂糖+酒」の配合を覚えたり、キャベツの使い勝手のよさとおいしさを知ったり。絵とか映像とかことばといっしょで、料理も誰かに食べてほしいと思うようになった。おもろいものと同じように、おいしいものは誰かと共有してこそ。



happiness only real
when shared




1.
昨日今日とシェンとおかだっちと立て続けに会った。あ〜ゴミディズニーいつになるかなあ。1カ年計画で。ほんとに行きたい!はしゃぎ散らしてキャラクターと写真たくさん撮りたい。想像するだけで楽しいっていいことやな〜。そんな友だちが居るって、いいことやな〜。なんでこんなに居心地がいいんだろうかって考えてみると、付き合いが長いのはもちろん大きな理由のひとつなんだろうけど、だれも少しも見栄を張ってないこととか、いい意味で互いに興味がうすいこととか、いろいろ思い浮かぶ。

逆に、属していた(る)ほかのコミュニティとか、仲良い友だちとの関係を考えてみると、やっぱゴミとはちょっと違う。どんだけ打ち解けててもいらいらするときあるし。ゴミっていらつかない笑。互いの性格とか考え方みたいなものを尊重?しあっているからか。そもそも友だちとしゃべってていらつくときってどんなときかを考えてみると、きもちわるい自慢が出たりわがままだったりしたとき。ゴミには自慢無いし、そもそもみんなわがままだから笑。ゴミではだめさをさらけ出せるってのがでかいな。貴重。

とにかくディズニー行きたい!
USJで妥協はしないということを肝に銘じて!行きたいな〜。いつになるかな〜。



2.
自分のことを客観視し過ぎないひとのほうが、しあわせに生きられるように思う。「え?どう思われてるか気付いてないの?」って言ってやりたくなる。気付いてたとしたら気付かないふりをしているんだろうけど、なんも改善されないし気持ち悪いし。誰かの気を引こうとしているのが丸分かりのあほまるだしの言動とかほんともー、。

「元気付けてほしいんですけど」「どうせ俺なんて,,,」みたいなツイート、中学生かと思った。それに構う人の存在も疑問。なぞ。どういうことなん。こんなことに気分をどうにかされてる自分もいやだ。ブロックしたろか。どうせもう会わんし。ゼミの集まりとかこの先あったとしてぜんぜん行きたいと思わん。悲しいこと。先生とはお話させてもらいたいし、ききたい。メール返ってこないの何でやろ。




3.
はやくひとり暮らししたい。

落ち着いて、お金たまって、って考えると秋からになるかな。奨学金の返済も始まるのか。具体的なプランを立てておかんと不安だ。思い通りになる計画を立てていかないと、この先滅んでしまう。漠然としたアレしたいこれしたいああなりたいこうなりたいってだけの理想論だけ言ってるのやめよう。でも「大人になったって理想は無邪気の塊」らしいし、難しいね。けっきょく。

予定がガツガツ入っていく。会いたいひとには会っておく。おいしいものをいっしょに食べながら、人生の話を。なんや人生の話って。スケールでか。中高生のときとか、みんなと何しゃべっとったんやろ。些細なことでも笑えたり話が膨らんだりしたあのころなつかし。ぜんぜん覚えてない。22歳のいま、だれかと話してることも10年後20年後には忘れてしまってるのだろーか。

30歳になったら誰と何話しとんのやろ。はてな。子どもほしいな。というか子育てしたい。誰かの成長を支えて、見守って、応援したい。この感情、忘れずにいたい〜。いつかそんな仕事に就くような気もする。純粋で素直な少年少女が、自分の働きかけで行動や意識やなにかが変化をしていく姿が忘れられずにいる。その姿を見る喜びも。気持ちをことばにされなくたって、自分がその子の人生に関われたってこと、誇らしい。忘れてほしくない。



 
   。、☆




立ちはだかる困難に
光れヒューマンストーリー

時代とかじゃないだろう
変わらずつっこんでけー

かませ!
アイゴナゴーマイウェイ!





デザインノート 

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考え過ぎ、体に毒

うんこ製造機



「覚悟無き青春」はいつだって貴重だ。


って、

今日読んだキネマ旬報の、「横道世乃介」に対する読書投稿のなかにあったフレーズ。

しかも19歳のひとの投稿。フレーズセンス。とっても読みやすい文章だったし。読みやすくて、分かりやすい文章を書ける人は、近付きたくなる。知性と同時に、思いやりもある人なのだということが伝わってくるから。きっと優しい人なんだろうなーて。読み手のことを考えた文章を書ける人。相手の気持ちを考えて、場の空気を読んで、自分の言動に責任を持っていて、かつ、面白い人。

そんな人になりたい。そういう人はきっと、書きことばだけでなく、話しことばもわかりやすくまとまっていて、誰に対しても平熱で居られる。何でや〜。不思議。ハキハキしてるし。凄い。


環境に順応する力を持っている人も、凄いと思う。

自分もそれが全く無いというわけではないし、いざとなればピエロになれるけれども、馴染みきれない場所だったら早々に離脱するし。どんな場所においてもシュパッと自分のポジションを見つけて確立しちゃう人は凄い。ライオンタイプやハイエナタイプは反吐が出るほど嫌いだけど、その場に居る人だれにも害を与えず、場を和ませたり、あたためたりできる人。理想。

塾の生徒にも何人か居る。オースカとショーキは間違いなくそのタイプ。まず大前提として根本に澄んだこころがあって、他人のこと、大人のこと、自分のことをしっかり見てことばを選んでる、それもたぶん、無意識に。応答もおもろいし、子どもっぽいのに大人っぽい。ヒーローもそのタイプ。ショーイチローも、ヨシタカもそうかな、。ヒデくんもそう。「誰からも愛される」タイプ。で、人に合わせるときこそあれども、基本的には誰とでもフランクに話して笑顔を振りまけるタイプ。勉強できるできないとかじゃなくて、人間として、みんな好きだな。塾っていう場所に居たから、どうしても点数や成績の数字関連を通して見てしまうことが多くあったけど。



人と関わらずにお金を稼ぐこと、社会で生きていくこと、歳をとっていくことは無理に決まっているんだから、腹を決めればいい。

関わりを最小限に、っていう考えが浅はかだ。というかそもそも、誰とも関わりたくないわけではなくて、むしろいろんな立場の人と積極的に関わっていきたいっていう思いはある。が、リア充気質の人とか、恋愛至上主義の人とか、もっと大きく括ると体育会系の人たち、苦手だ。牛乳くらい無理。気持ち悪くなる。パキッとシャキッと割り切れる人間になるための土台を無視して通り過ぎたツケが。自分で選んだことも結局中途半端。アカン。




いま、何をすればいいのか、選択肢が諸々あって、だめ。同い年の人たちと違って、考え込む時間が膨大にあるから、余計に負の感情が生まれている。そんなこと考える余裕さえないほど忙しければいいのに、と、ぼんやり思うけど、。

電話、かかってこなかったらどうすっかな。このまま続けても変わらんと思う。ずーーーっと分かってたけど、気持ちが傾かない。自分のしたいことは分ってるのに、大してしたくないことのためにパッションを放出させることができない。たとえお金を稼ぐためだとしても。カス。


結果の見えない過程を誰かに話したり教えたりしたら後々面倒なことになるのは分かっているから、人に会っても何も言わないようにしているけど、本当に、どうしよかなー。

タイ行きタイ。



引き出しに入って、高校生のときの自分に一言だけ言えるなら、「迷わず、したいこと、しなさい」だな。お金とか、先のこととか、なにも知らない大人の助言とか、聞かず、強い意志を持て、自分の好きなことを、周りを気にせず、しなさい、って言いたい。友だちもたくさんつくりなさいって言いたい。戻りたいランキングで言ったら12歳、16歳、18歳。

人格形成の段階に。思えば、昔からなにかに対して文句ばかり言っていた。好きな人やものより、嫌いな人やもののほうが多かったんじゃないか。なにかを好きになると盲目になることもあったけど、嫌いになると、嫌いで嫌いで仕方なくなって、他のことに手がつかない、みたいな。あほ。

あほだーーー


死なないから、ま、いっか。

って、明るいクズなら言うだろうけど。

 

アタマカラダ

踊ってばかりの国
ライブ行きたい


いま朝。
録画しておいた世界ふれあい街歩き(ナポリ)を6時から観て、水飲んで、いま。

規則正しい生活も、意味があるのか無いのか。無いように思える。



何が正しくて何が悪いのかなど、昔からさっぱりわからずにいるけれども、わからないなりに、
ひとそれぞれに正しいことがあって、誰かにとって正しいことも他の誰かにとっては正しくないことである、とか、万人共通の善悪の判断基準があって、とかいうことは理解しておる。

そんな理解も意味の無いことのように思えてきて、自己否定につながり、周りを妬ましく恨めしく思ようになり、どうしようもない。周りの気遣いも、あきれた顔も、同情の表情も、ぜんぶ要らない。何でこんなこと気にしやないけんのやろ。あほくさくて仕方ない。

自分自身が根本的に真人間ではないことを認識していたのに、その輪に入り込み、ふつうに社会の中にも入り込める気でいた。愚の骨頂。半端に勉強できる脳みそすら嫌になる。こんなもの、つかいものにならないのに。つかい方をわかっていないだけか。

内定先に入社することにしていたら、いまごろどうだっただろう。
二月から研修が始まって、三月一日に入社、勤務開始。決まったのは秋。あほである。おなじ教育業界でも、四月一日入社のところなんてたくさんある。内定をいただいたところがたまたま三月入社という特殊なところで、つくづく人生の歯車は狂っとると思う。

おーすかとか、しょーきとか、たくやとか、こーたとか、まみちゃんとか、とかとかとか、たくさんの中三生を最後まで見てあげることが出来なくなる、というのが最大の理由で、辞退した。そんなこと、考えられなかった。この子たちを手放したら、一生後悔することになると確信して、決意した。この選択は最善だった。時間が経って、悔やむときが来るかもしれないけど、でも、自分にとっていちばん大切で近くに居たい人たちと居られたことは忘れられない記憶になっておる。

というか
四月一日入社だったとしても、その他諸々の理由できっと辞退してた。これに関しては自分で納得してることだから何も言われたくない。のに、言われる、ストレス。

ひとと環境のせいにはしたくないけど、クソクソクソって思ってしまう、クソさ!生き死にのレベルで考えごとをするあほくささ。生きるしかないのに。死んでどうするって話。悲しんでくれるひとは誰かなあとか、考えるのは楽しいが。



あほくさ。

嫌いなやつみんな消えてほしいわ
そしたら平和な気持ちになるわ
なんて自分勝手な発言や!


いいかんじに生きてるかーい
いいかんじに生きてるかーい
いいかんじに生きてるかーい


生きてほしいひとだけ生きてほしい
しあわせに、ながく。そんで、たまにかまってほしいなー。何も出来んけど。塾の生徒たち、すぐに大人になるんやろうな。

一年生のとき教えてた中三生の子らがもう18で、大学生なんやで意味不明。理解したくない。ときの流れ。塾をやめたあとも、それぞれと駅や図書館で会ったりしてきたけど、なーんかなー。じゅんきと最後に会ったのは去年の秋かな?メールはしてたけど。会って少しでいいからしゃべりたいなあ。


これから先もそういうことが繰り返されてくなんて、。


寝なくていいカラダになりた


not now but then

 



「い ろはにほへと/孤独のあかつき」


楽しみだ。

アルバムは秋か冬かな。




大学を卒業して10日が経ち
バイトを辞めて7日が経ち
時間だけが過ぎてゆくばかり
 

何を考えても
何をしていても
気分がよろしくない


ツイッターもフェイスブックも精神衛生上良くないとわかっているのに、暇なときに開く習慣が定着してしまっているからなかなか離れられない。ずっと続けてきたことはそんな簡単にやめられない。もともと好きなものや人は捨てられないし忘れられないたちだったから、。変われねー。だんだんと変えていく。ツイッターは別垢つくったし、ミュートもあるし。まあ。



古い記事を読んでいると、楽しかったこととかうれしかったことがよみがえってきて、でもやっぱ根底には悲しさとか辛さがあるように思えて、どうしようもなくなってくるからきっと読まないほうがいい。



CRAZY完全な大人。

ほんと、関わりたいひととだけ関わっていたい。

関わりたいひとというと、限られてくるけれども、気取ってなくて、裏表があんまり無くて、思いやりがあって、おもろくて、なにかに熱中してて、自分の世界がしっかりあるひと。ぜんぶそろってるひとなんて少ないけどさ。あと絶妙な距離感のひと。2週間に1回でいいから会って話したいひと。尊敬できるひと。近くに居たくなるひと。

むかし、好きな人とだけ関わって生きるなんてそんなの社会では通用しないんだから、とか言い聞かせてきたオッサンとかオバサンをガン無視して、生きたいようにすればいいんんだ世の中ばら色ハッピー嫌いな奴みんな不幸になれって、思えればよかったのか?


しょうもなー。

いつまでこんな考えごとしとんねんってかんじやけど。きもちわる。

鈍感な人間が上手に生きていくようにできている。些細な変化に気付かない、気付けない人間のほうが、上手に泳いでいける。そりゃそーだって中学のときからわかってたけど、そんなんでええんかい!クソくらえ!って思ってた。

でも、クソくらったのは自分のほうだ。



あー 500万ほしい。

あー あほ。きもちわる。

可能性を殺して生きるプロ。


何でこんな暗いのか、自分でもよくわからない。でもそれ以上に、底抜けに明るいバカの育ち方はもっとわからない。近くに居たいひとは、みんなどこか悲しげな雰囲気を持っている?かも?といま思った。生徒も。やさしさが垣間見えたとき、うれしくなるし、抱きしめてあげたくなる。人間。


センス無いのに何かつくるやつきもい。
 
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