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ハローベイビー

2014.12.08

25年間。

確かにそこに漠然とした不良があって、いつの日も、いつかの日も、なす術もなく、見つめてた。

私は、近年稀に見る成長を遂げたのではないかと思います。
たくさんの寂しさに出会い、我を忘れて傷付きました。

そうして誰かを演じている間に、知り得る事ができました。
私に、お疲れ様、そしておめでとう。

ああ、私、いろんなものを失った。
それでも、生きてる。
それでもこの目は世界を映してる。
思う程心と体は影響を受け合ってないのかも知れない。

愛情ってなあに?
愛情の本質を、身も心も衰退してゆく中で、これも違う、あれも違う、また違う。
拾っては放り投げてを繰り返したのは、知りたくて知りたくて、必死だったから。
あっけなく見つけかった時には、後悔はしない事に決めていた。
傷付いた分、優しくなれたと思うようにしたから。

歪んだ愛情と呼ぶけど、そもそもの基準すら分からないのにね。
天秤にかけるとどうしても傾いてしまうのは、自分で故意的に重みをかけるから。
そうでもしないと、永遠に傾かない気がしたんだ。

学力はもう既に追いついていて、なす術もない問題には、向かう数年は行き止まらない。そんな気がしてる。

愛情に対する頑固な疑いがはれてからは、ほんとはもの凄く短縮して証拠をだせたのでは?と、思えたけど、後の祭り。
思い返す自分は、止まりそうな心臓わしづかみにして、粉々になるだろう衝撃に怯えてた。

そうだね、幸せを感じる事は、決して容易い事じゃない。

そしてそれはいくら自分が変わろうとも、舞い降りてくるものでもない。
自身の運命と宿命とが織り成したカリソメ染みた「奇跡的瞬間」ってものに遭遇する人は少ない。
もちろん良い出会いも悪い出会いも含めて。
「私が知りたかったことを知るには、その出会いがなければいけなかった」と言える。

私は運が良い、そして世の中には運の悪い人が多く居る。

自分がどうであろうと、この先に待ち構える人間は変わらないということ。
巡り合いとどう向き合うか。ということ。

私は私でよかったと、初めて自分を慈しむ事ができた。
おのずと自信がついて、予定調和の終演を無事に迎え、やっとの事で、わしづかみにしてた心臓を離した。

終わった訳じゃない。
変化は誰にも止められない、尊いこの瞬間に、いかに尊さを感じて、繊細さをもって、今を生きのびるか。

「尊いものは、夢と同じで、目を開けた瞬間には消えてしまうんじゃないかな?」

私が変わらない努力をひたすらしても「誰かの気持ちを変える努力」なんてもんは微塵も出来やしないのだから。絶対に。微塵も。

変化の後は儚さは消えて、ざっくりと分けられた種類別の思い出の置き場なんかに、あっさり放り投げられてしまうんだろう。

だからなんだろうけど「愛は絶望すること」それは、ほんとの事だと思えた。

本に書いてあるようなまるで夢のような愛情の理想像の実態を現実で体験すること。
形は様々な寂しさの判別が出来て、誰かを傷付ける事を絶対条件として、そうでならないと、愛情はみえない。25歳時の私の結論、これに至る。
しんどかった、しんどかった、しんどかったよ。





追記
さよならの言葉と、消せない寂しさとを
「当たり前になった日常」を共にした彼宛に。いつの日かの、今は存在なくした私も添えて。

おしまい。


癒えないこともあるのね、きっと。
気持ちは晴れど。
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