いまはただ
 
左京大夫道雅の恋を詠った歌です。小倉百人一首にも入ってます。
管理人が学校の百人一首大会でくしゃみしてる最中に取られて中々悔しい思いをした歌でーす。あはは、こんにゃろう。
 
今はただ 想い絶えなむ とばかりを
人づてならで いふよしもがな

 
この歌って未だに上手く訳あてられないんだよねー、なんでか。親が持ってる百人一首の解説本に書いてあったけど、どこしまったか忘れちゃってるから見れないしなー。
うーん。
あ、因みにこれを宛てた相手って当子内親王だったりする。つまり、以前櫻月が可哀相だって表した式子内親王と同じで皇女様。
確か、三条天皇の娘さんだったかな?…今一自信ないけど。気になる人は自分で調べて下さい(殴)
 
さて。自信の無い訳(意訳)いってみよー。
 
今はもう、貴女の事を諦めようと思っています。でもできるなら、人伝ではなく私の口から伝えたいです。
 
いつもだけど、意訳と言うかもうなんとなくこんな感じって適当さ加減。
思いを絶えさせようとしていますけど人伝ではなくって、諦める気あるんでしょうかね?なんて思うんですけどね、この歌。
 
あぁ、そうそう。
諦めようとしてるってあるけど、この二人、周りにバレちゃってます。式子内親王と違って。
しかも三条院にも知られちゃったから会えなくなって、それでも御所の手摺に結び付けてきた歌。
………よくやるよねー。見付かったらどうする気だったんだろ。
 
因みにこの後、当子内親王は悲しみから尼になる(俗世捨てちゃう)し、道雅君はグレちゃったそうですよ(学生かっ)。
別に認めてあげても良いと思うんですけどねー。人間社会って難しい事。
…どうでも良いケド、平安時代の垣間見文化って、一歩間違えたらかなり怖ろしいような?