石畳の通路をブーツの踵が叩き、カツカツと軽快な音を響かせる。暗く淀んだ空間には湿っぽさと黴臭さが入り混じり、人の侵入を拒んでいるようである。
細い通路を抜けた先に、下る階段があった。手摺りもない、足元には苔が所々生え、しかし部分的にそれは剥がれている。何者かが通った形跡が残っていた。
長く伸びる影を照らしているのは小さなランプ。蝋燭の炎は時折吹く風に負けぬよう燃え、先に続く道をランプを持つ主人に導いていた。
(また…れだ)
ランプの光りは希望の灯。
最後の最後まで、燃え付き、爛れた蝋となるまで、必死に燃え続ける。
これが、最後の蝋燭だ。
(これ…何度…なん…ろう)
蝋燭の力強い炎とは真逆に、弱々しい声が聞こえた。声量が無いため、所々の言葉は風に掻き消される。しかし喋っているのが男ということと、ランプを持つ人間の声ではないということだけは判断がついた。
声は階段の先から聞こえてきているようだ。
(も……んな…と、したく……)
泣いているのだろうか、男の声は微かに震える。
その声が止んだ瞬間、ランプの中の蝋燭が炎を燈さなくなった。足音も徐々にフェードアウトし、やがて消える。
静寂と闇が階段を埋め尽くす。
立ち止まったランプを持つ人間が、着込んでいたコートをまさぐる。
しかし、お目当ての物が見つからなかったようだった。人間は落胆はしなかったものの、息を吐くと、暗闇の中、再び歩き出した。
目的地は分からない。
目的地を定めたのかも、分からない。
ただ、どんなに先が未知数でも、先があるのであれば進まなければならない。
諦める事はいつでも出来る。まだ足掻けるのであれば足掻こう。走っても良い、歩いても良い、休んでも良い。
蝋燭の光りは希望だから。
この光りが再び燈されるまで、進もう。
「何故だ」
「ごめん」
リヴァイの問い掛けに、ハンジは素早く謝罪の言葉を述べた。頭は下げたままで、リヴァイを見ようとしない。しかし、今のハンジに頭を上げてリヴァイを見ることなど、到底不可能だった。
二人を囲むように立った兵士達も呼吸を忘れそうなくらい場は凍り付き、リヴァイの殺気じみた覇気が襲い掛かっている。
人類最強の怒りを誰が鎮められるというのか。
「お前、ごめんで済む話じゃねぇって、わかってるよな?」
「分かってる」
「じゃあ人間相手だってことを、根本的に忘れてたのか?」
ハンジは押し黙ってしまった。膝の上で握られた拳が震えている。リヴァイの怒りに対してではなかった、自身が取り返しのつかないことをした、それへ対しての悔しさと惨めさだった。
しかし、それが反省になるわけもないし、リヴァイが許すわけでもない。
「どうなんだよ、ハンジ」
「あの、兵士長…」
「外野は黙ってろ」
この場をどうにかしようと苦し紛れに声をかけた兵士を言葉と眼力で黙らせ、リヴァイは再びハンジに向き直る。
椅子に腰掛けたハンジの前で片膝を着きしゃがむと、おもむろにハンジの髪の毛を掴んだ。力の限り髪を引き上げ、ハンジの呻き声も、周りのざわめきも無視して、面を上げたハンジを見つめる。
ハンジの前に、怒りの表情はなかった。
代わりに、哀れむようで蔑む、瞳が並んでいた。
ハンジがひゅうっと息を呑んだ。
「お前にとっては良い玩具になったよな。中身は気の知れた人間で、仲間で、これまでにないくらい良い実験材料だ。データも取り放題、知りたい事も、研究成果も十二分に発揮出来る逸材だ。だが、ハンジよ、なあ?あいつは巨人じゃないよなあ?」
「分かって」
「言い訳するくらいなら、あいつを化け物扱いしてんじゃねぇよ」
乱暴にハンジの髪から手を離すと、リヴァイは兵士達を掻き分けて部屋を出ていった。
掴まれ乱れた髪もそのままで、ハンジもすぐさま椅子から立ち上がる。
「ハンジ分隊長」
その様子を見ていたペトラが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか…?」
「ああ、うん…それなりに加減されてたから」
「あの…すみません」
「もしかしてリヴァイの代わりに謝ってる?良いよーそんなことしなくて。リヴァイの言ったことも、行動も間違ってない…殴られなかっただけマシだからさ」
でも、と言葉を続けるペトラの肩に手を乗せて、ハンジは笑ってみせた。
「とりあえず…エレンを起こして、謝らなきゃ」
「エレン、すまないな…ハンジのクソメガネは絞めといたから、起きたら許してやれよ」
調査兵団本部の地下の一室、そこでエレンは眠っていた。
ベッドの横に置いた椅子にリヴァイは腰掛け、横たわったエレンに声を掛ける。
「…お前は悪くないのに、酷いよな」
リヴァイが手を伸ばし、エレンにかけられた毛布をめくると、手首が見えた。
手首には鉄枷が嵌められていた。伸びた鎖はベッドの支柱に結ばれている。これは手首だけでなく、脚にも同じように施されていた。
エレンに対してのこう言った処置は当初はあったものの、リヴァイの監視が付いてからはなくなっていた。だが、今回は特例という形でエレンの意志にもちろん関係なく、下されていた。
手首の鉄枷のは拘束が強すぎるのだろうか、内出血が見える。血の気のなくなったエレンの肌に、その赤は痛々しい。
エレンは、ハンジの監視の下で行われた実験の最中、暴走した。
それも、エレンが疲れ切った状態であるのに、ハンジがどうしてもと頼み込み、上官に逆らえないが為にエレンが渋々了承して、という前フリがあっての暴走だ。
エレンの巨人化には、体力と意志、それを繋ぐ精神力が必要となる。どれか一つでも欠ければ、エレンの揺るがない意志があったとしても、作り出された巨人の身体は意志を持たない巨人と同じ存在となる。
それを分かっていながら、ハンジは実験を止めなかった。しかも監視役のリヴァイが一瞬席を外した瞬間を見計らって。
もちろん場の異変に気づいたリヴァイが駆け付け、エレンの暴走を止めた。
止めた、というよりエレンを削ぎ落とした、というのが正しい。そこはリヴァイの技術力を持ってして、エレンの肉体に損傷を与えず救い出せたが、疲労が蓄積していたのだろう、エレンはなかなか目を覚まさなかった。
しかし、暴走したエレンの責任はエレンに課せられていた。無情とは正にこのことで、無慈悲な人間の恐怖により、エレンは地下室に投獄、手足は拘束され、自由を奪われた。
結局、上官の命令とは言え自身の自己管理能力を無視した行動を行ったエレンに責務があると、結論が出されたのだ。負傷者が出ていないのに、だ。
ハンジも自分の責任だと訴えたが、通らなかった。
暴走した巨人の恐怖が、人々を支配していた。
「…」
エレンのはめられた鉄枷を指先でなぞる。ザリザリとした錆の感触が伝わってきた。重々しく食い込むこの鉄色、白い手首、浮き出た血の赤、活発な年頃の少年に全て似つかわしくないものだった。
このまま、エレンが目を覚まさないなんてことは、ない…とリヴァイは断言出来なかった。分からなかった。このままエレンは目覚めない、そうなるかもしれない、とも思えた。
エレンは生きてる。
でも、目を開けない。
こんな人の欲望に塗れた世界に、この少年はまだあの燃え上がる炎を瞳に宿せるのだろうか。
同じ人類に、怒りを覚えず憎しみを抱かず、また力を貸せるのだろうか?
「ここで死んだ方がお前の…」
リヴァイは首を横に振る。
「エレン…」
鉄枷の向こう、伸ばされた指を握る。暖かい。色あせた皮膚の下で、少年は生きようとしていた。脈は皮膚を必死に押し返していた。
どうしたら良いのか分からなかった。ただ、目覚めて欲しいと思った。輝くあの瞳を見せてほしい、無邪気な笑顔を向けて欲しい。
この数週間で芽生えた感情は、なんなのだろうか?
「エレン…エレン」
リヴァイは呼び続ける。
お前の帰る場所はここだ。
俺の所へ帰ってこい。
「もう…誰も……」
エレン、教えてくれ。
この感情を、俺はどうしたら良いんだ?