部活を終え、コートを着込み寒い中帰路に着く可愛い部員達を見送り。
部長だけが残る女子テニス部の部室内へと踏み入れる。
シャワー後のシャンプーかボディソープか、制汗剤か香水か…何やらわからない甘い匂いが混じる室内で、部誌を纏める彼女と向かい合うよう椅子を引き、腰を下ろす。

「白石も、はよ帰らなあかんで」
「……んー…わかってる」
「あとどれくらいや」
「あと少し…今日試しに組ませたダブルスの事、纏めておきたいんや」
「そうか」

先程までラケットを振り部活を熟した、その手で握るピンク色のボールペンを走らせ綺麗に整った文字を綴っていく。
彼女の字は本当に綺麗で、書いている文章も小説を読んでいるかのよう、その時の情景や部長としての彼女の心情がわかりやすく表現されていた。
そのおかげか顧問の『仕事』を忘れ、部誌を一つの作品のように毎日楽しんで読んでいる。

「……なぁ、せんせ…」
「ん?」
「昼間…ごめんな…?」
「昼間…?」

ペンを止め、俯く彼女がぽつりぽつりと紡ぐ言葉に耳を傾ける。
聞けば、昼間に俺に呼び出され、結局何も出来なかった事を悔やんで謝りたかったらしい。
俺も俺で『癒して欲しい』だなんて求めた事自体が今では何だか恥ずかしく、情けなくも思うのだが。

「あれは……俺が悪かったわ。すまん」
「…ええよ。嫌やと思ったらすぐ出てったし、役に立ちたかった、のに、」
「傍に居てくれただけで十分、嬉しかったで」
「嬉しいやなくて、癒してやらんと意味ない」

ペンの先を弄りながら溜息混じりに呟く。

「……それに」
「それに?」
「あんなメール、ずるい。体育出られへんかった」
「…狡い事したつもりないんやけどな…やっぱり、泣いたか」
「な、いて、へん…泣いてへん、けど、……その…昼飯食う時間なくて、おなか空いて…」

昼間。教室を出た彼女に礼と愛と、慰めを込めてメールした。
慰め。無力を感じた彼女が自分を責めないようにと、『愛してる』のその言葉で包んでやれたらいいと思った。
彼女の事はお見通しだ。
俺が求めた倍以上をしなければ満足しない、俺の役に立たなければ意味がない…いつの間にか何か変なプレッシャーを与えてしまっているのかも知れなかった。
俺はそこまで求めてはいないのに。
ただ本当に、彼女が、恋人が傍に居てくれるだけでそれでいいのに。

「ご飯一緒に食おー…とか、そう送ったら良かったな?」
「……せやな。ご飯食べて、時間なったら、すぐ体育行けたのに…」
「すまんかったなぁ」
「許さない。サボったから先生と、何でか謙也にも怒られた」
「あぁ……。よしよし、イイコイイコしたろ」

挟んだテーブルを乗り越え伸ばした手でぽんぽんと頭を撫でる。
普段は子供扱いするなだとか、すぐにむくれる彼女も珍しくおとなしく、俯いたままながら何処か照れ臭そうな様子がわかった。

「可愛ぇなぁ、くらちゃんは」
「……バカにしてるん?」
「何でや」
「…ええけど。バカやから」

そう拗ねたように告げ、俺の手を取る彼女。
徐ろに口元へとやれば、甲へと唇を押し当てる。
柔らかく形の良い、ふっくらとしたピンク色の唇が当たり、その感触にどきりとした。
不覚にも。

「先生の手、おっきくて優しくて好き。そんで、この手で撫でられんのとかも好きやけど…今日は俺がなでなでしてあげられたら良かったなぁ…」

白く細い指先で、俺の太く不格好な指を撫でながら溜息混じりに言う表情は何処か恍惚としているように見え。
疲れたおっさんの手を、愛しそうに撫でてくれる姿に少しだけ浮かぶとある気持ちを抑えていた刹那。

「あっ!ちゅうか先生、めっちゃがさがさ!あかんやん、冬場は特に気ぃ付けんと。前にあげたやんか、ちゃんと塗ってる?ほら、しっかり厚めに塗っといたるわ!!」

途端に表情を変え鞄から取り出したのはハンドクリーム。
つい最近も荒れてガサガサのこの手をちゃんとケアしろと叱られたばかりだった。

「うわ、またお前…それ…」
「ん?チョコレートの香り、ええやろ?高かったし、成分も良さそうなモンやし、しっかり保湿出来ると思うで」
「………」

前に貰ったものはバニラアイスの香り、だったはずだ。
成分やら保湿力やらそれより何より27の男がこんな甘いお菓子の匂いをさせていたら気持ち悪いんじゃないかと…。
彼女の言った通り、ぬるぬるするくらいに厚く塗られたそれは甘ったるい匂いで胸焼けしそうだ。大袈裟ではない。

「はい!よし!」
「…ありがとうございます…」
「ほんま、ちゃんとケアしといてな?…その手で触られると、カサっとしてて痛い時あるから」
「…ん?」

視線を外し、呟かれる言葉に首を傾げる。
しかし続く答えはなく。数秒後に理解した。
繊細な綺麗な彼女に触れる為、綺麗な手でいよう。

「今めっちゃ潤ってるから、ええか」
「あかん。ここ部室。俺まだ仕事中」
「ほな、後で」
「……後でな」

恥ずかしいのを隠す為かむすっと無愛想に答える彼女だが、きっと後で『癒してあげる』なんて健気に頑張ってくれるんだろう。
期待ににやけてしまう顔をおさえられないまま、テーブルに頬杖をつき残りの仕事を待つ。
その間も互いから香るチョコレートの匂い。
俺には似合わないだろうが、彼女の匂いなのだと感じ少し好きになった。