どうしたものでしょうか。演劇制作に関してです。
友達を公演のお客様に
知らない人を公演のお客様に
どっちが難しいかなど火を見るより明らかです。そして我々はさらに、
公演のお客様を団体のお客様に
しなければならない。
しかし、これだけを見ていると限界が来る。だからこそ、団体のお客様というものに多面的要素を持たせなければなりません。
まずはお芝居のお客様。これは当然です。
次に所属、ないしレギュラー出演の俳優のお客様。これは難しいところですが、芝居の内容に伴うものであれば良し。つまり芝居に対して良い方向の感想を抱いて頂けるお客様であれば。
さて、演劇のお客様はここまでです。これ以外の要素による固定客の創作は、演劇においては厳しい。不可能ではないですが、それは我々が望むべき固定客ではない。あくまで私個人の解釈です
富士山を登りきるとそこには右も左もなく優しく美しい景色がただただどこまでも続きます。不安と疲労と麻痺、に上乗せされる達成感。
でもどれも消えるわけではないのです。登ってくるまでの不安があれば下りるまでの不安もあり、疲労は募り、感覚はどこかしら麻痺しています。山頂とはある種異常におかれた人間が集まる場所と捉えられないでしょうか。相当言い方悪いですが
さて、異常状態におかれた人間の行動心理ですが、これは当然と言うべきか、平常状態に自分を戻そうとします。疲れたら休むし、暑ければ涼むし、喉が渇けば水を飲むし。
が、これが内面的な問題だとそう簡単にもいきません。上記のように肉体に発生した明らかな欠損には、同じように明らかな対処法があります。しかし、漠然とした不安のような、内面的なものに対しては、人間は明瞭な対処法を持ちません。つまり自己の内面を脅かす外的要因に対する処置です。
ここで、不安な状態の人間が行動する際の心理状態を考えてみます。不安とはつまり、その状況下において自分に何らかの不足があるのではないか、と考えてしまうことです。明日のテストが不安、なんていうのがシンプルな例だと思います。
さて、その不安に対して人間は埋め合わせをしようと行動するわけですが、ここで問題となってくるのが、「正常ではない思考による行動」ということです。かなり大げさな言い方ですが、きっと皆さん一度は、焦って選択を間違えてしまったことがあるでしょう。つまり現代社会に生きる以上誰でも異常状態なんて日常茶飯事なわけです。
物の流れ。
川。
上流から下流へ、そして河口へ。支流があって本流がある。
上流から河口へ向かうのは必然。というより、決定された事象。
支流が本流となるのも、同じく。だけれど、これはあくまで相対的な捉え方であって、区分ける明確な線はない。
むしろ、支流とは供給口であって、本流とは供給の拡大であると考えるとしっくりくる。
供給口から攫うよりも、拡大された部分から攫う方が、量を主とした時は能率的である。そして、日本の国民性を考えた時に、マジョリティであるのがこの考え方である。
俗な言い方をすれば、ミーハーであるということだ。そして、ミーハーとは別段悪いものではないとも思える。協調性を主とした国民性であると考えればそれは決して否定ばかりされるべきことではないだろう。
さて、しかして主体性を重んじるのが表現の世界である。そしてそれは、供給に置き換えられる。客体が需要である。
が、あくまで重んじるに留まるのが、芸術における主体である。客体を目指すのが芸術ではない。芸術とはあくまで洗練された自己表現であって、表現に自己を付与するというよりも自己に表現を付与するものである、と現在の私は考えている。そしてその自己が研ぎ澄まされ隔離され決して他と交わらず、つまり個の全に因る徹底的な自己であることが芸術、であると私は思う。シュルレアリスムが芸術ではない、ということではなく。
3人で30ドルの部屋に泊まるため、1人10ドルずつ支払った。
しかしオーナーが後ほどその部屋が25ドルだったことに気付き、ボーイに5ドル返させにいった。
3人で5ドルは割り切れないためボーイは2ドルくすね、1人に1ドルずつ返した。
10ドル払ったのち1ドル返ってきたので、3人は結局9ドルずつ払ったことになる。合計27ドル。
ボーイがくすねたのは2ドル。
27+2=29。
さて、1ドルどこにいったのでしょう。
映画を借りた。お菓子でも食べながら見ようと思って、ポテチ買って帰った。DVDつけて、ポテチ食べ始める。予告編見てるうちにポテチなくなってた。
そんな正月だったなあ。今更。