(読み:ヒトノココロノコワシカタ)
※現実はそんなに簡単にはいかないので、話半分眉唾物語として、なんとなく眺めて下さい。
一般的に、人間には自我があります。アイデンティティ。
自分を自分として構成する要素としての自我。これを人間の精神、つまり、心ということにしておきましょう。
人の心を壊す。
つまり、その人間の、自分が自分だという認識を揺るがせる、ということ。
もしくは、その人間の精神を浸蝕し、自分を構成する要素の中に、異物を組み込むこと。
まあ、『壊す』という言葉の暴力的なイメージとは離れるけど、要するに『オカシくする』という考え方で。狂わせるのですよ。
人の心を壊す方法は大まかに、二つに別れる考えられる。
一つは、『否定する』こと。
もう一つは、『肯定する』こと。
どちらも自分というモノが弱い者程強烈な攻撃になるものだろう。何故なら、最初から心が安定を欠いているからである。
逆に、自分に自信がある人に対しては、ささやかな攻撃にしかならないだろう。
『否定』とは、相手のアイデンティティを否定すること。相手の構成要素を否定すること。
自分が自分だということを否定されることは、大抵の人には我慢できないことだろう。
すなわち、相手を否定し続けることによって、相手の自信を削ぐ。
最後に、存在理由・存在価値すらも否定されれば、そこに自分は無くなるだろう。
この場合、相手を否定することにムキになってはいけない。
事実を冷静に、簡潔に、的確に。
否定をすることは簡単だが、内容の無い否定など、ただの遠吠えである。
逆に、内容の存在する否定をしなければならないから、確固たる自分を持つ者に対しては弱い。
否定内容を自分の糧にし、成長できるからである。
『肯定』とは、相手を受け入れること。相手を認めること。
自分に自信が無い者は、自分を支えてくれる存在を求めたりする。
自分を支えてくれる存在とは、自分を否定しない存在でもあり、自分を肯定してくれる存在である。
これは、端的に言えば『弱みに付け入る』ことに類似する。
不安な精神状態の時には、精神に隙間ができる。その隙間を埋める存在が、自分にとっての支えとなってくれる存在となる。
しかしながら、この時に感じる安心感は、限りなく錯覚に近い感覚である。
普段と落ち込んでいる時とでは、同じ言葉をかけられたとしてもその感覚には差がある。
その隙間を利用し、相手に自分という存在を植え付ける。
植え付けて、相手に『依存』という感覚を覚えさせる。
あとはもう、思うがままである。
否定と違い、自信ではなく、『過信』する者にもこの手段は有効だと言えよう。
過信する者は賛同者を求め、優越感を求める。
自己を認めてくれる存在に依存をするからだ。
『否定』でも『肯定』でもないパターンもある。
一つは『疑問』である。
こちらは『否定』と似ているが、相手を疑い、相手が疑うことによって、自己を揺るがせる。
こちらはあくまでも下準備くらいにしかならないだろう。
もう一つ、『刺激』がある。
刺激とは様々な種類があるが、結局はそれに依存をさせることによって自滅を引き起こすことが目的だ。
『快楽』や『恐怖』、『薬物』など、刺激的な者に人間は惹かれるが、それを律する理性も持ち合わせている。
しかしそれは、耐性の弱い者に、強烈な『刺激』を与え続けることで瓦解する。
瓦解した理性は、禁忌を犯すことに依存して、自滅する。
これらのように、様々な人間に対して、様々に精神を壊す方法がある。
精神を壊されないようにするためには、確固たる自信を持つことが大事と言えよう。
だから、こんな文章で揺らがないように気をつけてね?
人の心に付け込む悪魔は、すぐ目の前にいるかもしれないんだからさ。
くけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ