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ひと夏のプロポーズについて

舞台の俳優について云へば、「美声」は美貌と同様、最も貴重な「道具」であるが、それと同時に最も危険な武器である。なんとなれば、ブレモン教授の説を俟つまでもなく、彼等はその「美声」を恃んで、その声に総てを委ねる弊に陥るからである。つまり、「芸」に求むべきものを、「声」に求める過ちを犯すからである。
劇場に於いてもまた、「美声」は必ずしも「立派な声」ではない。
日本語の発音は、そんなにむづかしくない。非常に合理的なだけに単純を極めたもので、「文字」を離れた発音だけなら、外国人でも一日で練習ができるだらう。そこへ行くと、外国語の中には、なかなか、面倒な発音があり、十年かかつても容易に卒業のできない発音がある。仏蘭西語で云へば in, un, eu, r, の如きは、外国人で完全に発音し得るものは稀であらう。
ところが、その容易な日本語の発音さへ、完全にできぬ日本人が随分多く、その上、例の訛りがついて廻つて、往々「語られる言葉」の魅力を殺ぐのである。尤も、この訛りのために、却つて愛嬌を増す場合もないではないが、それは、決して知的な意味での言葉の魅力でなく、多少とも偶然であり、標準とするに足らぬ魅力である。
女の人の関西訛りは、なかなか言葉としての陰翳に富み、いはば洗練された訛りであるが、さういふ訛りは、ちよつと例外である。
誰でも自分の国の発音や訛りを気にするとは限るまいし、それからまた、同国の人にとつては、それが寧ろ、言葉としての大切な魅力になるのであらうが、さうなると話は別である。
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