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ひと夏のプロポーズについて

舞台の俳優について云へば、「美声」は美貌と同様、最も貴重な「道具」であるが、それと同時に最も危険な武器である。なんとなれば、ブレモン教授の説を俟つまでもなく、彼等はその「美声」を恃んで、その声に総てを委ねる弊に陥るからである。つまり、「芸」に求むべきものを、「声」に求める過ちを犯すからである。
劇場に於いてもまた、「美声」は必ずしも「立派な声」ではない。
日本語の発音は、そんなにむづかしくない。非常に合理的なだけに単純を極めたもので、「文字」を離れた発音だけなら、外国人でも一日で練習ができるだらう。そこへ行くと、外国語の中には、なかなか、面倒な発音があり、十年かかつても容易に卒業のできない発音がある。仏蘭西語で云へば in, un, eu, r, の如きは、外国人で完全に発音し得るものは稀であらう。
ところが、その容易な日本語の発音さへ、完全にできぬ日本人が随分多く、その上、例の訛りがついて廻つて、往々「語られる言葉」の魅力を殺ぐのである。尤も、この訛りのために、却つて愛嬌を増す場合もないではないが、それは、決して知的な意味での言葉の魅力でなく、多少とも偶然であり、標準とするに足らぬ魅力である。
女の人の関西訛りは、なかなか言葉としての陰翳に富み、いはば洗練された訛りであるが、さういふ訛りは、ちよつと例外である。
誰でも自分の国の発音や訛りを気にするとは限るまいし、それからまた、同国の人にとつては、それが寧ろ、言葉としての大切な魅力になるのであらうが、さうなると話は別である。

銭ゲバについて

ここに言及した資源の著しい増加から生ずる結果は都市や工業のある国では生じ得ず、また本書の前の方で述べた、人口に対する窮極的妨げ(食物の不足)は現実の飢饉の場合を除いては決して直接的妨げとはならないということと、矛盾する、と考えられるかもしれない。
もし云い方が余りに強硬に過ぎるならば、議論の実際的力と適用とをほとんど減じないで、遥かに温和な云い方にすることも出来よう。しかし私は、それは疑いもなく強硬であるけれども、決して真理を距る極めて遠いものではない、と考えるのである。都市や工場を充たす大きな原因は、仕事が、従ってまた生活資料が、国内に不足なことである。そしてもし各労働者が、自分の生れた教区で、十人の子供に対する衣食住を手に入れ得るならば、都市の人口はまもなく国内人口に対し小さな比率でしかないことになるであろう。そしてかかる考察に加うるに、仮定した場合において、都市における出生と結婚の比率が大いに増大しまた貧困から生ずる一切の死亡がほとんど全くなくなるという事実をもってするならば、私は、(習慣の変更に要する短期間の後には)支那においてすら、本文で述べたような増加に等しい人口増加が生じたとしても、決して驚くには当らないのである。
我国について云えば、増加率は、都市と工業との著しい増大により、人口を一二〇年またはそれ以上にして倍加せしむべき率から五五年にして倍加せしむべき率へと変化したことが確知されているのであるから、各人が最多数の家族をも養い得る確信をもって一八歳または二〇歳にして結婚し得るというように国の資源が増加され分配されるならば、英国諸島の人口は、二五年にして人口を倍加せしめる如き率をもって増加し続けるであろうということを、私はほとんど疑わない。我国の記録簿から見ると、英蘭はアメリカよりも健康な国であるらしい。アメリカが異常な速度をもって増加しつつあった時にも、ある都市では死亡は出生を超過した。

ドライクリーニング用機械器具卸について思う

例えば吾々は之をスヴェーデンボリの天国に於て表象するのではない**。ケンタウロイは実在しないが、もし実在するとすれば[#「もし実在するとすれば」に傍点]、このような形をとって存在するであろう。ということがとりも直さずケンタウロイの表象でなければならない。それは事実としては非実在的である、併し存在としては実在的である。かくて空間表象の空間は実在的である。空間が表象されるということ――表象に還元(吾々の意味に於て)されるということ――は空間の実在性(存在)としての性格を覆うものではない。況して空間が表象である――空間の性格は表象という意識である――などと云うことにはならないことを注意して置こう。さてこのようにして空間は存在の性格にぞくす。処が現象学的還元はこの存在の性格を否定した。故に又空間の性格も之によって否定されないわけには行かない。即ち茲に於ては空間の性格は意識の性格によって優越される。かくして空間の性格は存在[#「存在」に傍点]であって従って意識[#「意識」に傍点]ではあり得ないことが結果した***。空間を表象として、知覚として又直観として理解することは少しも不都合ではない。ただ併しそれは決して空間の正当[#「正当」に傍点]なる概念ではない。何となればそれ等のものは空間の性格・優越を理解せしめる代りに空間の任意の一つの特徴に於ける還元性――吾々の意味に於ける――を云い表わすに過ぎないから。

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