あの日から、半年経った。私はフレデリックの家を出て鬱蒼とした森奥に建つ家に一人で住んでいた。
流石に祓い手だらけの村で守り役ではない冥使がいると、長年の付き合いがあったとはいえど狩られてしまう危険性があった為だ。多少不便になった生活だが、不満は特に無かった。フレデリックが大量の本を持ってきてくれたし、任務から帰ったら会いにも来てくれた。私に血を与えてくれたし以前と何も変わらない、彼は本当に人間と冥使を分け隔てなく接してくれていた。時折空腹に襲われてフレデリック以外の血も吸ってみたが不味く感じるのは彼が央魔の血が混ざった特別な人間だからだろうか。そして誰の血でも食す以上は彼との約束を守っていた―――人間の体内に私の血を送り込まない、と。
「……フレッド、そろそろ帰らないと彼女も村の人間達も心配しますよ」
「…ったく、気遣いが出来るならちょっとは加減しろよ……頭ガンガンする」
「すみません、あなたの血が美味しくて…」
反省してないな、と額を突かれると軽く首を後ろに反らしてからクツリ、と笑う。久し振りの食事のせいか大量に血を吸ってしまい彼は具合悪そうにベッドに横たわっている。暫くは動けないだろうと判断し彼の目元に手をあてがうと視界を封じた、睡眠を促す為に。
やがて規則正しい寝息が聞こえ始めると目元から手を離して寝顔を見つめる。男にしては長い睫毛も童顔な顔立ちも、央魔の血のせいらしい。
そう思うと彼を助けてくれた名前も姿も知らぬ央魔に感謝すると同時に嫉妬した。首筋がチリチリと焦げ付くような感覚を覚える。彼の助けになれた存在が羨ましかった。出来るなら誰にも何の文句を言わせないで彼の隣に立てる存在になりたかった。もう、叶わない事だけれど。
「…お休みなさい、フレッド…良い夢を……」
眠る彼に布団を掛けて私はベッドに腰を下ろす。睡眠を必要としない身体の為、朝まで彼の寝顔を見つめて頭を撫でるのが習慣となっていた。静寂と闇はいつも私に安らぎを齎してくれたが、この日だけは何故か首の後ろがチリチリするような感覚に襲われる。
言い知れない不安が時間経過と共に強くなる――不安を、恐怖を拭う術を知らなくて彼の横に寝転がり子供のように強くしがみついた。朝が来て彼が起きて話を聞いてくれたらきっと、この嫌な気持ちが無くなると願いながら。
朝、彼が起きる姿を見てその嫌な予感の正体を知った。彼はいつものように眠たげに指で目を擦ってからおはよう、と笑う彼の後ろに黒い靄のようなものが見えた。
試しにそれを手で払ってみても一向に消えないソレ。彼は私の動作の意味が分からずに小首を傾いで問い掛ける姿に私にしか見えないモノだと知った。きっと良いモノではないソレ。冥使の特殊な能力である霧化とは少し違うソレ。
「……アーウィン?」
衝動的に彼を抱き締める腕は震えていた。きっと、この嫌な予感は当たってしまうと直感する。だから全力で抗おう。私の太陽を守る為に――
家の外に出ると森全体に白い霧が掛かっていた。濃霧とまではいかないものの少し気を抜けば道が分からず迷ってしまう程、視界に白が広がる。
彼の為に簡単な朝食を作り彼だけそれを食した後、彼を送る為に家を出た。とは言っても村まで送る事は出来ず森の入り口までだが―。
「アーウィン、どうしたんだ?今日はやけにピリピリしてるな…」
「……いえ、別に…」
辺りを警戒する為に神経を張らせていたのが彼に伝わってしまい、眉間に皺を寄せた。何が黒い靄の原因が分からず油断は許されない。きっとあれは――。そこまで考えて頭を左右に振って考えを散らした。後ろを振り向けば変わらず彼はついてきてくれている。その事に安堵しながら森の入口へと道なき道を進んだ。
森を抜けてもまだ白い霧が辺りを覆っていた。いつもは森の入り口までしか送れないが今日だけは彼を言いくるめた…もとい、私のおかしな様子に彼が譲歩したのかもしれない。
「…アーウィン、そろそろ村に近付く。もう戻った方がいい」
「もう少し、送らせて下さい。もう少しだけ…」
「…ダメだ、帰れ」
「……はい」
共にいる事を許されなかった私は渋々彼に背を向けて家路に戻った、表面上は。彼から私の姿が完全に見えなくなると気配を消し、白い霧へと姿を変えて再び彼の元へと戻った。
白い霧の中を進むうちに彼の姿を視認したと同時に、彼の向こうの黒い三つの人影がゆらり、と揺れた。この辺りには村以外に人里はない、本当に周りに何もない深い深い山奥の辺鄙な場所人間に会うとしたら遭難した人間か祓い手のどちらかしか有り得ない。
三人の影がハッキリ姿が見えるようになるとその正体が分かった。村の人間で私も随分昔に面識があった。三人とも祓い手で一人は彼の側近で私にも良くしてくれたが、残りの二人は…あまり良い思い出がない。部外者の私を村で育てる事に猛烈に反対し、私を受け入れた彼を陰で疎んでいた。だから私も嫌いで交流は避けていたのだが。
男達が迎えに来ても相変わらず彼に纏う黒い靄は消えなかった。
「どこをほっつき歩いてたんですか。村の皆も心配してるんですよ」
「ああ、すまない。少し散歩したくなってね」
「全く…あなたは本当に……」
側近と仲良く喋る姿に安堵し気を抜いた瞬間、黒い靄が一気に霧散した。
同時に銃声の音――
馨しい鮮血の臭いの元を視線で辿れば、彼は地面に倒れ側近の男が立っていた。
一気に殺意と憎悪が沸き上がり一気に彼の元へと近寄る。
倒れた彼を見れば傷口などなくて。
側近の男に視線を向けた瞬間、男は地面に崩れ落ちた。そしてその向こうに二人の村の男が手にした銃からは硝煙が上がっている。
側近の男はいち早く異変に察知し彼を突き飛ばし庇って、死んだのだ。
「おいっ、大丈夫か?なぁ!?何とか言えよ!!」
彼が崩れ落ちた男の肩を掴み揺さぶるが、ただぐったりしているだけで反応を示す事は無かった。
その様子を見ながら男達はクッと短く喉奥を震わせて再び銃を構える。照準を彼に定めて。
「何で殺したんだ…」
「別にそいつを殺すつもりは無かったぜ、俺らはお前を殺したかったんだ。フレデリック!!」
「なっ…」
「お前さ、忌々しい冥使を狩るのをたまに躊躇ってるよな?その上、央魔の血を利用するな、だと?」
「…そうだ。ヒトの私利私欲の為だけに搾取するなんて許されない、冥使も央魔も元々は女の腹より生まれし者だ」
銃口を向けられても気丈に男を見据えてゆっくり立ち上がるが、自分を守る為の銃も何も出さなかった。それが気に食わなかったのか引き金に指をかけた男のそれに力が入ったのが、見えた。
「お前が央魔の血を独り占めしたいだけだろ、この偽善者!!」
空に響き渡る銃声の音。
「アーウィン!?」
霧化を止めて私は彼の前に庇うように立った。
赤く舞う液体。肩が焼け付くように異常に熱く、身体から力が抜けそうになるのを足に力を入れ辛うじて踏みとどまっている。冥使が最も嫌うアルブム銀で出来たそれはたった一発でも食らえば身体から力が抜けてしまう事は書物を見て知っている。現に少しでも気を抜いたら崩れ落ちてしまいそうだった。
「…最初からヤケに気に食わないガキだと思ってたが、冥使だったんだなお前」
「あいつ始末するついでに祓ってやるよ、バケモノ!」
「アーウィン!逃げろっ!!」
何を言われても離れる訳には行かなかった。私が逃げれば彼が撃たれる。二人とも逃げ出すには時間が無さ過ぎた。
すぐに放たれた弾丸は私の心臓を目掛けて――
「……ぐッ!」
辺りを漂う濃い血の臭い。私は草の上に俯せに倒れた。草や土が赤く赤く染まっていく。不思議と痛くはなかった、最も苦手な金属で出来た銃弾で心臓を貫かれれば冥使とて死に至る筈。急所から外れたとしても強い痛みと身体が弛緩する筈だった。
不自然さに顔を上げて後ろを向くと彼が立っていて。声を掛けようと口を開いた瞬間―
――崩れ落ちた。
地面に広がる夥しい程の赤。その瞬間何があったのかを理解する。彼は私を弾道から反らそうと横に突き飛ばし、代わりに彼が撃たれたのだ、と。
「化け物を庇うなんて、やっぱり頭イカレてやがる…」
その呟きにブツン、と何かが切れた音が。した。
赤く染まる視界も一瞬で白に霧散する。後ろで息も絶え絶えな言葉で止めろ、と聞こえた気がしたが聞き入れる余裕は無かった。
「どこだ!?どこにいるっ!?」
私は彼の前からも男達の前からも一瞬で姿を消した。辺りは白い霧に覆われていて、私が霧化すればどれが冥使の特殊能力か、どこまでが自然現象の霧か人間には見分けがつかないだろう。
現に男達は目の前に私がいても全く気付かない。クッと喉奥を震わせて目の前の男と視線を数秒合わせてから離れた。相変わらず男達はパニックに陥ったように視線を揺らし、その場でくるりくるりと回っている。私からの攻撃を警戒する為に。
「どこを見ているんですか?ここですよ」
「なッ!?」
「う、うわあぁぁッ!!」
先程目を合わせていない方の男の後ろにゆっくりと姿を現す。何もせず、立っていただけだが正面にいる男は悲鳴を上げながら銃を撃つ。何発も何発も。化け物が動かなくなるまで。
「ギャアアアァッ!!…ア、ァ、………」
「ッ、ハハハ!ざまぁみろ!!化け物め!!」
身体が地面に崩れ落ち断末魔の声が途絶え、地面を赤い血や肉や臓器の一部で溢れ返っている。誰がどう見ても一目で死んだと分かる殺し方に満足し、銃を構えながら肩で荒い息をした男の高笑いが聞こえた頃、パチンと指を鳴らした。
「ハハハハ、ハハ、ハ……ッ!?」
みるみる代わる化け物の死体は村の男の一人に変容した。そして男の顔もみるみるうちに血の気が失せ青冷めていく。
何の事はない、男に私の顔を見たら容赦なくその身体に弾丸を浴びせるように催眠を掛けたのだ。もう一人の男を私だと錯覚させる為に。そして催眠が発動した瞬間私は男の後ろから離れれば…後は予定通りの顛末だった。
仲間を殺したショックに放心状態の男が赤くしなるモノを見て我に返っても遅く。
冥使特有の赤く長い舌を鞭のようにしならせて。
刎ねた。
男から血柱が勢いよく吹き上がり、地面に丸いそれが私の足元まで転がる。服が汚れないように靴裏でそれを止めじっと見下ろす。赤く染まった首や頬、口から血の泡を吹く断末の恐怖に満ちた表情に汚らしさを感じ顔を歪めた。視界の端にはまだ血飛沫を上げながら、切り離された身体が、崩れ落ちた。
辺りには濃い血の臭い。唯一の食事である筈のそれすら不快感を覚え、食事す気分にすらなれなかった。
殺した事で次第に激昂も収まると徐に肩の傷口に指を突き立てて、掻き回す嫌な水音を立てながら埋め込まれた弾を抜き取り捨てる。銀色だったそれは冥使の血を受けて黒く酸化していた。
肩を上下しながら息をする最中、不意に小さな殺意が私に向けられている事に気付く。ここにいる人間は殆ど死んだ。
ある一人を除いて―
ゆっくり振り返ると、胸から血を流した彼が仲間の銃を拾い、その銃口を私に向けていた――
「…フレッド……」
To be continued...