*2024年4月3日 09:58σ(・∀・)ノ


 たしか9杯目。まったく氷の解けていないグラスは、机に当たるとガンッと鈍い音を響かせた。注文したものが届いてすぐに飲み干すから、氷が少しも解けないのだ。
 こうやって杉元が呼び出されるのは、何も初めてのことではない。むしろこういう時があるたびに呼び出されるのは杉元の役目だった。それは恋についての話の時。恋が始まりそうな時、恋が終わりそうな時、諸々。杉元は恋の話について、なぜか鯉登の信用を得てしまっていたので、聞きたい聞きたくないに関わらず呼び出される。そして飲む。
 今日は恋について悩んでいる時の話だ。荒れている。鯉登の表情にはまったく高揚感がない。
 鯉登の恋が長続きしないのは、彼の容姿性格うんぬんではなく、その性質が原因である。鯉登は同性しか愛せず、同性と恋愛をする。相手の男はゲイであったりバイであったり、どこで拾ってきたか知らないが様々だったが、皆一様にクセがあり、長続きしない。そればかりか「それ付き合ってるって思ってるのお前だけじゃねえの」と、杉元が何度言ったかわからない。
 今回の相手は、鯉登に言葉での暴力を振るう男だった。聞いてて気持ちがいいものではない。鯉登も辟易している。鯉登が例として挙げた様々な言葉の暴力は、自分が言われてなくても腹が立つものばかりだった。
 それでも鯉登の自尊心がひとつも損なわれていないように見えるのだけは、ただ一つの救いだった。
 杉元も鯉登の勢いにつられるように酒を飲む。それでも5杯。鯉登に追い付くにはまだ遠い。
「……どうしよう」
 鯉登が零す。杉元は残ったハイボールをグッと飲む。
「やめにしたら?」
 鯉登はグッとジョッキを握った。目が合っているのに、視線は絡まなかった。
「……やめろと言われてやめられるものであれば苦労しない」
「まぁそうだろうけどさあ。でもよくないとは思ってんだろ?」
「ああ。よくない、と言うか。……こうやってお前と話しているだけでは解決せんということはわかっている」
「じゃあ……」
 そこで杉元は大きな石が喉に詰まったように感じた。流暢に脳に流れていた言葉が口から出て来ない。しっかり思い描いた言葉を、どうしても口にすることはできなかった。
 不自然に途切れた言葉に、鯉登は少し下げていた視線を上げる。ク、と眉が動く。
「どうした」
「……あ。いや……解決しなくても、俺と話してストレス発散になんならいいんじゃない。たまにはね」
「そのつもりだ」
「俺は聞いててイライラしますけどね」
「? どうして」
「殴り返せって思うよ普通に」
「でも殴られてはないからな」
「でも顔の傷はそいつのせいじゃん」
「これはあれに押されて、棚にぶつかったのが悪かっただけだ。直接あれが悪いわけではない」
「間接的には悪いじゃん。しかもそいつ謝らなかったんだろ」
「喧嘩の最中だったからな。喧嘩の最中なんて、自分が悪いと思ってもなかなか謝れないだろう。喧嘩の流れってものがある」
 鯉登の頬には切り傷があった。喧嘩の最中彼氏に身体を押され、棚にぶつかり、棚から落ちた分厚い本に当たったせいだった。幸い深くはないが、まだかさぶたで、完全に治るまでは時間を要しそうだった。
 杉元がどう指摘しても、鯉登は前向きに反論してくる。その返答を聞き続けていると、怒りよりも悲しみの方が強くなってくる。どうしてあいつをかばってしまうんだ。一番傷付けられているくせに。傷付けてもいいと思われているくせに。「あいつはやめておけ」という杉元が、まるで鯉登の身を案じているのではなく、ただ横恋慕しながらクレームを言っているみたいに思えてくる。
 結局、口では「別れたい」と言いつつ、鯉登は「あいつには私しかいない」と思っているのだ。それがどれだけ、一般的にひどい付き合い方であろうと、出るところに出れば検挙されるような男であろうと、関係ないのだ。思い込みとは他にも無数ある思考の道をぶちんと断ち切ってしまうことだからだ。
「……そういうもんかね」
 杉元はあきらめた。きっと何を言っても上手い具合に言い換えられて、まるで杉元が間違っている気にさせられる。わかっている。
「でも、別れたいと思うのも事実なんだ」
 そう鯉登は言う。堂々巡りである。鯉登は二律背反した感情を持て余している。別れたい、別れた方が良いと思っていても、相手が悪く言われるとかばいたくなってしまうのは、好いた相手だとなおさらなのだろう。自分で悪く言うのは許せても、他人に言われると許せないのだ。「お前があいつの何を知っている」と、彼のことを知っているのは自分だけしかいないと、より頑固なシェルターを築いてしまう。愛情深いせいで加害者をかばうそれに、ひどく良く似ていた。

 ――おそらく、20杯目まではいっていなかったと思う。杉元は途中から数えていない。
 20杯も近くなって、鯉登はついにダウンした。杉元がトイレに行っている間に、テーブルの上で腕を枕にして寝ていたのだ。起きるかどうか少し待ってみたが、より眠りを深くさせる効果しかなかった。あきらめて、会計を済ませて杉元は鯉登を引きずって外に出た。
 店の外に休憩用のベンチがあったので、そこに座らせる。鯉登はずっと目を閉じている。
「鯉登ォ〜。起きてる?」
「……寝てる……」
「帰れんのお前。彼氏呼んだら」
「……こういう時に呼ぶなと言われている」
「はぁ? そうですか」
「あと、杉元なら……いいと言われてる。何も起きないと知ってるから」
「は?」
「今の彼氏はバイなんだ。……ノンケの男より女の方を怖がってる。だから女のいる飲み会より杉元と二人きりで飲んでいる方が、安心するらしい……」
 そう言った鯉登の身体から力が抜けた。
 鯉登の頭が杉元の肩に当たる。次第に、杉元にかかる体重が重くなる。
 ……嫌なことを聞いた。
 杉元は重い息を吐いた。
 信頼されてるなら、もう、こっちのものだ。この店は、杉元の住んでいるアパートに近かった。


 アパートについてすぐ、鯉登をベッドに転がした。重くて死ぬかと思った。途中で子泣き爺になったのかと思ったくらい重かった。それは鯉登が全体重を杉元に預けたせいだった。
 鯉登は目を覚ます気配はない。
 ベッドの横に杉元はしゃがみこんだ。しゃがんで、眠っている鯉登の顔を見る。
 綺麗な顔をしている。鼻筋は少しぼこっとおうとつがあるがそれでも鼻筋が通っているし、鼻先がツンと尖っている。輪郭も綺麗だ。彼氏とやらのせいで頬についてしまった傷はもったいないが、皮膚が薄く切れただけなので傷跡は残らないだろう。よくも、こんな綺麗な男のことを無下に扱える男もいるものだ。綺麗じゃなければ何をしていいと考えるではないが、綺麗なものは他のものより手を出しにくいのは人間の心理だと思う。綺麗に塗装された壁よりも、廃墟に落書きする方が随分気持ちが楽なのと同じように。
 鯉登の恋の話を聞くための飲み会が始まって最初の頃、いくら飲んでも酒は旨かった。けれど、最近はどうも不味い。どれだけ飲んで酔っても脳の一番大事な部分はしっかりと醒めている。酩酊して前後も上下もわからなくなってしまいたいのに、理性を超えた本能がそれを邪魔する。
 ――いつかの会話を思い出す。
『お前は彼女を作らないのか』と鯉登が尋ねた。
 杉元はいくらか悩んだ。別に今は欲しいと思わなかった。だから『今誰と付き合っても幸せにできる気がしないから』と答えた。嘘じゃなかった。杉元は今ちゅうぶらりんで、定職に就かずぷらぷらと自由を謳歌している。人と付き合うと、自然と責任が生まれてくる。その責任は、相手の仕事や住処、交友関係にまで口を出す権利までついてくる。それが鬱陶しかった。まだ杉元は責任を負いたくなかったのだ。
 ……最近、鯉登に対してただの友人≠ノ向けるにしては大それた感情を向けていると自覚していた。
 杉元は元々ノンケである。性的対象は異性で、同性に何の食指も動いたことはない。だから鯉登だけなのだ。鯉登に対してだけ脳の何かがバグを起こす。致命的な欠陥だった。これからも関係を続けていくなかで、これが破綻の原因になってしまいそうなほどのもの。
 ……それでも、自分が鯉登を幸せにできるとは思えない。
 杉元は、鯉登が傷付くことよりも――鯉登を傷付けても良い、と思っている人間がいることに耐えられなかった。自分は鯉登のことを傷付けたくないと思っている。傷付け合うなら良い。けれど、一方的に傷付けて、それで良しとする人間が鯉登の恋人であることは嫌だ。
「……はあぁ〜……」
 かたや、当事者は杉元のベッドですやすやと眠っている。こんな風に想われていることも知らずに。
 しかし杉元は手を出さない。杉元は自分のあずかり知らぬところで、二人から謎の信頼を得てしまっているからだ。ここで手を出したら杉元は完全な悪役として、二人の絆を強固にする役目を担ってしまう。それだけは絶対にしてやらない。
「もう俺にしとけばいいじゃん、鯉登さぁ」
 少なくとも、杉元は一方的に傷付けたりしない。鯉登が傷付くための言葉を用意したりしない。けどおそらく殴り合いくらいならする。傷付け合うための暴力と暴言ではなくて、意思表現のためのもの。その手段が良い悪いかはひとまず保留にしておくとして。
 鯉登の頬に触れてみる。ぴたっと指の皮膚が頬に吸い付いた。この男も皮脂が出るのだ。ちゃんと人間らしい部分がある。そんな当たり前のことだって、触れるまで杉元は知らなかった。
 またため息が出る。
 どれだけ好きでも、杉元は鯉登を幸せにする自信がこれっぽっちもなかった。




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