*2024年4月1日 10:17σ(・∀・)ノ


「お前いつ娶んの?」
 もうこれを聞くのも何度目だ。鯉登は眉間に皺を寄せて不快を顔に表現する。
 しかし、この言葉を発した当の本人はもう、鯉登の方を見ていない。涼しげな顔をして、窓から入る風に少しも臆すことなく、夏にほど近いぬるい春風を浴びている。
「またその話か」
「おう」
「もうそろそろ、お前も飽きたものだと思っていたのだが」
「俺だって飽き飽きしてんのよ。何度も言わせないでくれる」
「言わせないでってなあ……」
 東京。鯉登の私邸。二階の座敷。二階の座敷は客間だった。今は杉元を招いているので杉元の部屋である。しかし主人である鯉登は、客間であろうと堂々と居座る。居座って、戸を開き東京の喧噪を見下ろす。二人で見下ろしながら、人々の道が交差していくのを見る。それを続けて、冒頭の言葉だった。
「いつと言われても、その気になれないのだから仕方ないだろう」
「その気がなくても、結婚ってのはするモンだろ」
「私はそう思えんのだ。両親も見合いだったが、一目で燃え上がったと聞いた。そういうのがないと、どうも前のめりになれん」
「鯉登の血はどうすんの」
「養子をもらうしかないと考えている」
「それ守ってんの血じゃなくて名じゃん。回り道する方法考えんな。最短距離で考えろよ」
「私にとってはこれが最短距離なんだ」
 この話題になると鯉登は、もう杉元と話が通じる気がしなかった。杉元は鯉登に結婚させたがるし、鯉登はそもそも結婚しなくてもいい方法を探している。交わる訳がなかった。
 血、とか、そういうのは昔はよく考えていた。鯉登の血を後世に残す。名前を。自分の代で、云々。
 それは年を取るにつれ、身を圧迫する重大問題から些末な問題へと、自分の中で矮小化されていった。
 結局「生きちょりゃ良か」なのだ。父の言葉を拡大解釈しているかもしれないし、おそらくその通りだ。けれど自分の心を殺して生きていくよりかは何倍も良い。使命のための生だとは思わなくなる。自分は縦を守るために生まれてきたのではなく、横にとってもっと住みやすい国にするために生まれてきたのだ、と。
 だが、目の前の男はそうは思ってくれないらしい。
 杉元は腑に落ちない顔で窓から腕を出し、通りを見下ろしている。
 あ! と思い出して、鯉登は懐を探った。蝋引き紙の頑丈な包みを指先に感じ、それを取り出した。
「そいや、キャラメルをもらったんだった。要るか?」
「なにそれえ」
「最近出回り始めた。私はこれが好きでな」
「どんなやつ? ゲテモノじゃねえだろうな」
「貴様じゃあるまいし。私がゲテモノを薦めるわけないだろう」
 蝋引き紙に包まれた、褐色のキャラメルを渡してやる。これは近くの洋菓子店で時々買っている品だった。甘くて、柔らかくて、体温で溶けると舌にドロッとまとわりつく。その触感がおもしろくて好きだった。甘いのも良い。脳がシャキッとする。逆に眠くなる時もあるけれど。
 杉元はそんなに期待していないように、ゆっくり包みを開いた。そうして出てきた褐色を手に取り、手の上に乗せて日の光に透かせるように持ち上げた。
「すげえ。全然透けねえ」
 杉元はそう言って笑った。鯉登は何がおかしいのかわからなかった。
 そして口に放り込むと、特に感想を言うことなく、杉元は再び往来に視線を落とした。
 鯉登も感想を促したりはしなかった。
 少しして、
「旨いね」
 とだけ、ポツリと零すように言った。
 この言葉を抽出するのにえらい時間が必要だったのだな、と思ったら少しおかしかった。
 鯉登は「そうだろう」とだけ返した。
 次第に陽が落ちてくる。空に紺が多くなってくる。太陽は地平線に姿を消す前に、カッと濃く光った。爆発の手前のような橙色を放ち、沈んでいく。どっしりした夜が訪れる。
 辺りがいっぺんに暗くなると、往来にはガス灯が点る。蛍の尻みたいにポツポツと光っている。部屋の電気を点けていないので外の方が明るいくらいだった。鯉登は窓を閉めた。
「夕飯にでも行くか」
 そう言うと杉元は伸びをした。伸びをしたついでに気道から出した息で「は〜い」と気の抜けた返事をする。グ〜っと伸びて、畳の上にゴロンと寝転がった。たった今「外に出よう」と言ったのに相反する行動をとられた。鯉登はムッとする。でも杉元はこういう男だった。鯉登の前で、鯉登にだけはこういう気の引き方をする。こういう甘え方をする。聞かん坊になって親に気を引きたい子どものように。
 けれど鯉登だって親ではない。鯉登も、いくつになっても杉元の前では子どものようになる。
「ぶはッ」
 鯉登は杉元の上にゴロンと寝転がった。ちょうど【人】の字になるような形で、杉元の腹に頭を落とした。柔い腹の上に衝撃が走り、杉元は空気が押し出されるような声を出した。その声があまりにも間抜けで、鯉登は笑えてきた。杉元の腹を枕にして笑っていたら、「お前ねえ」と声がした。腹が振動している。響いて、まるで腹から声が聞こえてきているように感じた。
「こういうのする人選べよ。俺だったから良かったものをさあ」
「うん。でも、少し筋肉が落ちたんじゃないか。軍神も斯く衰えたりか。年には勝てんな」
「お前それ土方のジイさんの前で同じこと言えんの? ひよっこちゃんの癖に」
「少佐になんてことを」
「俺にはいつまでもひよっこに見えんの」
 鯉登はゴロンと身体を転がした。腹を枕にしていたのを、杉元の胸に顎を置く形に変える。杉元の呼吸に合わせて胸が上下する。
 杉元の顔を見ると、杉元もこちらを見ていた。
 目が合う。
 二人とも、何も言わないまま時が過ぎる。
 往来の喧噪が、閉じた窓を越して耳に入る。
 月とガス灯の明かりぼんやりと部屋の中を照らす。
 杉元の呼吸はゆっくりだった。変わらず、ゆっくり吸って吐いてを繰り返す。ちゃんと生きているものの呼吸だった。むやみに酸素を取り入れようとしているのではない。酸素が豊満にあるとわかって、それをゆっくり取り込むのだ。
 死ぬ前の呼吸ではない。ぜいぜいと、肺に空いた穴から空気が出るのをどうにか取り繕おうと、何度も何度も吸うような、そんな呼吸ではない。
 ただ見つめ合ったまま静かに時が流れる。
 その静けさを破ったのは杉元の腹の音だった。ぐるるる、と捻り上げるような音がした。
「飯にするか」
 そうしてどちらともなく立ち上がった。



 東京の往来はがやがやと人が多い。どこをどう通っても人にぶつかる。
 鯉登は馴染みのてんぷらの店に連れて行った。「急ですまないが入れるか」と暖簾を押し上げて仲居に尋ねると、少ししてから店主とみられる男が出てきた。そして二人を座敷の部屋に通した。杉元はなんやらわからなかったが、鯉登は「上」の「御膳」を頼んだらしい。
 いぐさの青いにおいがする。
 開け放された戸。縁側の外でししおどしがカタンと音を立てていた。
「そういえば、アシリパには何て言ってきたんだ」
「へぇ? 別に……ちょっと知人に会ってくるって言った」
「素直に私に会いに行くと言ってもいいんじゃないのか」
「いや〜どうかね……アシリパさんが中央をどう思ってるかわかんねえし、これが安牌だよ」
 鯉登が東京に越してから、杉元はたまにやって来た。ふらりと現れることもあれば、ちゃんと日時を手紙に書いて寄越すこともあった。逆に、鯉登の方は東京に越してから北海道には行けていない。東京に来てからと言うものの予定がカツカツで、たとえ行ったとしても小樽で杉元と握手して、それだけで同じ電車に乗って帰ってくるしかないくらいの余裕しかなかったのだ。だから鯉登は杉元の訪問をありがたく受け入れていた。たとえ、これがこの男の気まぐれだとしても。
 開け放された襖、縁側に続く庭をゆったり見ていたら、食事が運ばれてきた。女中が去ってから手をつける。ここの天ぷらは衣がさくさくで、鮮度を見て食材を選ぶのでいつも少しずつ具材が違って、それでもって絶妙な塩梅で塩がかかっていて、鯉登は、大切な人はいつもここに連れてくる。自分の好きなものを、相手も好きと言ってもらいたいからだ。旨いと言ってもらいたい。もし好みでなくとも、同じものを食べたい。
「なあ鯉登」
「うん」
「キャラメルってまだあったりする?」
「ああ、ある。なんだ、欲しくなったのか?」
「うん。気に入った」
 鯉登は懐を探る。ひとつ見つけたので、投げて渡した。危なげながら杉元はキャッチした。
「ッぶね〜……近いんだから投げて渡すなよバカ」
「ふふん。私は投げるのが上手いんだ」
「そんなんだからひよっこに見えんだよ」
 杉元は受け取ったキャラメルを手のひらで何度か握って、懐の中にしまった。
「なんだ。今食べるんじゃないのか」
「うん。持って帰る」
「なら買ってやる。帰りしな、店に寄ろう」
「ううん、いいよ。これだけで」
「アシリパにもやりたいんだろう。土産として贈ってやるから遠慮するな」
 そう言うと、杉元は首を傾げた。
「いや〜……アシリパさん甘いの好きじゃないし。俺にこの一個だけでいいよ」
 鯉登はそれ以上追及しなかった。杉元がそれでいいと言うのなら、良い。ただ夜店を回る口実を作れなかったのは、少し寂しかった。
 そうは思っても鯉登は絶対、杉元にそんなことは言わない。馬鹿にされるか嫌な顔をされるかわからないし、もしそう言ってしまったことがきっかけで、杉元が自分の元に訪れなくなるのは嫌だった。
 つまり、鯉登はしっかり、杉元のことをそう′ゥていた。だから縁談に前向きになれないし、できることなら引き延ばしたい。杉元がふらっと自分の元に訪れるのは、自分が身を固めていないからだと思っている。そうでなければこの男はやって来ない。酔った勢いで杉元が一度だけ自分に話して聞かせた、あの幼なじみの時のように。
「なあ鯉登。さっきの話だけど」
「貴様は同じ話をするのが好きだな」
 鯉登は杉元が何の話をするのか察しがついていた。杉元が何度も繰り返すのは、本当に同じ話題だった。鯉登の今後について。鯉登がいつ娶るかについて。
 ……なんだか背中の方の皮膚がざわざわする。
 杉元の目が鯉登を射抜いている。
 頭の後ろを透かして見られているような気分になる。
 ……嫌な予感がする。
「俺も向こうに良い相手がいるからさ。お前もそろそろ身を固めろよ」
 眼球がじわっと滲むのがわかった。ぼおんと、まるで鐘のように頭蓋骨を叩かれたような気がした。後頭部の奥が弛緩する。ごりごりと擦りおろされているように心臓が痛い。
 泣くかもしれない、と鯉登は思った。
 それでも我慢して、目を逸らしたら負けだと思って、なんとか杉元を見た。
 彼の表情の、些細な変化からその本心を読み取ろうと思ったのだ。その言葉の綻びを、矛盾を、どうにかして汲み取ろうと。
 ――そして、それは徒労だった。
 杉元は、嘘のとびきり上手い男だった。
 嘘を吐いても、表情がぶれたりしない。心拍にも影響しない。呼吸が早くなったり、目線がさまよったりしない。目の色も揺れない。普段と何一つ変わらないまま、平然と、まるで真実のような嘘を口にすることができる。
 そしてその事実を、鯉登は知らなかった。
 カコン。
 ししおどしが落ちる。
「わかった」
 と、絞り出すような声で鯉登は言った。
 杉元と鯉登はそれきりだった。




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