*2024年3月12日 17:31σ(・∀・)ノ


 尾形はポツリと呟いた。それはしっかりと意思の持った嫌味だった。ちゃんと竹浦の耳に入る。言葉は言葉通りの意味を伴って伝達された。そうして竹浦は憤る。眉が寄る。まぶたがキュッとたわむ。それでもその美しさだけは損なわれない。
「お前ね。嫌味言うんなら堂々と言えよ」
「別に」
「別にじゃないだろう。正面きって俺と喧嘩する度胸くらい養え」
「俺にその綺麗な顔に傷をつけさせろと?」
「俺はお前のそういう態度が気に食わない。思ってもいないくせに、唇は嘘ばかり吐く」
 尾形は笑った。本当は笑うつもりがなかった。思わず吹き出してしまったのだ。
 少しゆるんだはずの竹浦の表情が、また厳しく締まる。睨むようにつり上がる。
「何で笑う」
「竹浦は、俺の中に正直な部分を見てるのかと思ってな」
 竹浦は返事をしなかった。
 尾形は神でもなければ人の心を読めるわけではないので、どうして竹浦が返事をしなかったかわからない。「はい」でも「いいえ」でも、言えばいいのに。急に会話が億劫になったのか。嫌になったのか。飽きたのか。……いいや、竹浦はそんな男ではない。竹浦は白黒はっきりさせたがる性格だ。曖昧な表現を嫌う。もし「好きじゃない」といえば「嫌いと言え!」と怒鳴るし、「嫌いじゃない」と言えば「好きと言え!」と怒鳴る。うるさくてかなわない。尾形は竹浦のそういう部分が本当に嫌いだった。曖昧に濁した方がいいことだってたくさんある。ハッキリさせない言葉の、その言葉からにじみ出る含み≠ネんていうのを、人間は大事にしているんじゃないのか。だから言語が発達したんじゃないのか。竹浦のように「はい」か「いいえ」で完結できるのなら、何も言葉などいらない。お手とおかわりだけしていればいい。
 ……とすれば、今のこれも人間らしい曖昧さの一種か。
 でも、あの時の尾形の言葉に嘘はなかった。尾形は竹浦の顔を、美しいと思っている。綺麗だと思っている。まるで西洋的な絵画を思わせる。なんだか特徴的で、綺麗だ。自分のせいで少しでも歪んで欲しくない。
 だからまあ、尾形が竹浦を殴る度胸がつかないのは、そのせいである。


 とにかくムシャクシャして仕方がなかった。
 雨上がりの道、気にせずばしゃばしゃと往来を歩く。舗装の直されていない道路、へこんだ部分に雨水がたまっている。踏み抜く。ばしゃりと脛まで水がかかる。サンダルの中まで濡れる。粗い石まで入り込んできた。けれど杉元は歩くのをやめない。ムシャクシャしているからだ。「ムシャクシャしている」という体(てい)でいたかった、というのもある。とにかく彼はムシャクシャしていた。ムシャクシャしている振りをしたくなるほどに。
 家に着く。鍵穴に鍵を差し込む……が、ムシャクシャしているせいかなかなか穴に入ってくれなかった。他の鍵も試してみたが違った。これには普通にイライラした。思い通りにならない。すべてに怒りをぶつけたくなる。すべての事象を自分のせいにしたくない。別のもののせいにしたい。自分がラインの一歩上に立っていたい。そうやって腕を組んで含み笑いでもしていないと、この世界、どうにもやっていけそうにない。
 鍵を開けて、中に入る。玄関先、大きな姿見が目に入る。全身を映された男は、今にも殴りかかってきそうな、泣き出しそうな、そんな顔をしていた。決して幸せだったり楽しそうな顔ではなかった。
 ムシャクシャした。とにかくムシャクシャしているのだ。着ているシャツのボタンを引きちぎろうとして――やめた。引きちぎり散らばったボタンの行く末を一瞬で考えて、ひどく悲しくなったのだ。
「俺は情けねえ……」
 そう独り言ちて、ボタンは丁寧に一つずつはずした。
 きっと引きちぎったとして、時間をおいて冷静になった杉元は、散らばったボタンを集めてひとつひとつ縫い戻したことだろう。今引きちぎらなかったことと、後で縫い直すことの、どちらが情けないことか。


もっといっぱいしたい≠ニ言われると、引くほど興奮する。脳の回路がバチバチ切られる音がする。なんなら脳味噌の皺をアイロンがけされているような気分になる。要するにIQが低下する。
 竹浦、と呼ぼうと思ったのに言葉にならなかった。発語を忘れたようだった。言葉にならない声が出る。代わりに、竹浦の陰茎につけていたコンドームを外した。男同士のセックス、どうしても精液が出る。布団を汚したくないから、竹浦はコンドームをつけて防止する。どこにも挿入しないのに、性病予防のコンドームをつける。月島は竹浦のこの行動に、どうしてもいやらしさを感じて仕方がなかった。しかもピンクに色付けされたコンドームをつけるものだからなおさらだ。ピンクのそれに包まれた性器は、どうしてもそういう玩具に見える。
「下着を履いて、竹浦」
「ム……」
「お前に興奮しない訳じゃない。正直発情してる。今すぐに抱きたい。けど、俺ももう年なんだ。一日一回で、勃たなくなる」
 月島はそう言った。竹浦は黙った。少ししてからポトン、と布団に横になった。
「……そんな一気に言わなくても」
「ん?」
「言い訳って言うか、弁明してるみたいでウケた」
 横になりながら、竹浦はわははと笑った。


 コーヒーを一番に選ぶようになったのはいつからだったか。
 コーヒーなんて、進んで飲み始めるものではないと思う。大人になる通過儀礼みたいなもので、まず飲み会の一杯目はビールを飲めるようになりましょうとか、そういった類のものと同じように思う。本当は苦いと思っているのを隠しながら飲んでるんだろう。そうに決まってる。そうじゃなければ苦すぎる。さすがに。ちょっと、正気じゃない。全員騙されているんじゃないか。これは裸の王様と同じ現象なんじゃないか。誰かが「本当に苦いです。正気を保ったまま飲んでますか? 流されるがまま飲んでませんか?」と聞いてくれなければ、みんな飲み続けてしまうんじゃないだろうか。恐ろしい。特に、乱立するコーヒーショップと夏になると盛りになるビアガーデンが恐ろしい。ビアガーデンなんてきっともう、すでに夏の季語になっている。


 一人で椅子に座って外を眺めていると、なんだか感傷的な気分になってくる。感傷的な気分にどんどんつられて行くことに気付いて、あわてて意識を現実に引っ張った。危ない。感傷的なものは、よくない。詩的になってしまう。詩は、よくない。物憂げになってしまう。特に意味もないのに死を暗喩したくなってしまう。詩はだめだ。詩は生の匂いがしない。常に腐臭が漂っている。


まるでカナリヤのようである。炭鉱で真っ先に、その身をもって危険を伝えるあわれなカナリヤ。図らずも、自分はそれと同じになったのだ。



 鯉登はほとほと疲れ果てていた。
 大学4年生。就職先は決まり、あとは論文を完成させるのみとなった。学校の図書館だけでは足りず市の図書館へ足を運び、それでも足りず国立国会図書館までも利用した。鯉登は尊敬する教授に褒められたい一心で、卒論への制作に精を出していた。国立国会図書館を利用できるような場所に大学があったのはかなりラッキーだった。
 参考文献を読み込み、キーワードを書き出し、関連図を描き、ぴょこと頭を擡げた共通点を拾い集める。その作業は気がおかしくなるほど緻密で集中力も体力も必要で、朝から始めていた作業の休憩をしようとしたら既に夜も深くなっていた……ということもあった。
 卒業に必要な単位はすでにとっていたので、一日中没頭することができていた。
 そうやって頭を酷使していたら、それまでなりを潜めていた性欲が暴走し始めた。
 それに気付いたその日から、卒論一本だった鯉登の生活は変わった。

 もともと鯉登の性嗜好は男性だった。今までは新しい世界に躊躇しなかなか踏み込めなかったが、勉強のしすぎで脳疲労を起こしていた状態であれば難なく踏み出すことができた。
 ネットで調べたゲイバー。そこで鯉登は処女を散らし、セックスの気持ちよさに目覚め、ハマっていった。
 ゲイバーからアプリ。ハッテン場は一度行ってみたが肌に合わなかった。アプリは会うまでのやりとりが面倒だった。調べ始めたらサウナ以外にもいろんな場所が出会いの場になっていることを知った。
 その中で近くの神社がそういう場所≠ノなっていることを知った。




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