*2024年3月12日 11:31σ(・∀・)ノ


 卒論が立て込むと時間がとれなくなってしまうので≠ニいうことで、少し早い時期にゼミの飲み会があった。杉本には前々から「この日は飲み会がある」と伝えてはいたが、忘れている可能性もあるので当日も連絡した。ちゃんとOKのスタンプが返ってきた。
 人数は十名ほど。金曜日の居酒屋はがやがやと賑やかだった。教授がビールが好きらしく、大きなビールサーバーが備えられかついろんな種類のビールが飲める店を幹事は選んだらしい。案内されたのは半個室で、厨房にほど近い場所だった。がやがや賑やかだが店員のレスポンスが早い。良い店だ。今度杉本とも来ようと思った。彼はビールが好きだから。
「ここはビール以外もあるのか」
「あ〜、あるよ。あるけど、今日はビール飲み放題コースにしちゃった。何か飲みたいものあった?」
「いや。ないならいい」
 少尉は飲み放題メニューをめくった。ずらりと見たことのない商品名が連なっている。クラフトビール、地ビール。コンビニにも売っている有名なビールの名前。ワクワクしていろんな種類を頼み味比べをした。ビールはそこまで好きではないが味の違いはわかった。
 酒が入ると、最初は静かだった集団がどんどん賑やかになっていく。
 少尉はねえねえ、と隣の同級生に声をかけられた。
「調子はどう? 院進するんだったよね」
「ああ。今日の昼頃合格通知が届いた」
「え! おめでとう〜!」
 会話を聞いていたらしいゼミのメンバーがそれぞれ祝いの言葉を口にした。
 郵便でも届いたし、パソコンでも見た。杉本と一緒に見たのだ。
 合格の文字を見ると、杉本はハッ! と口元に手を当て驚いた仕草をして、その後涙目になって少尉をワサワサと触った。大型犬を愛でるような仕草だった。それからあれよあれよとベッドに転がされ、そのままセックスにもつれ込みそうになったのを、少尉はなんとか振り払ったのだ。今日は金曜日で、しない日だ。それにこっちは夕方から飲み会があるし、それに杉本の方も15時から大学でトレーニングがあると言っていたから、する日だとしてもセックスはできなかっただろう。
 アルコールで頭がぼんやりとしてきた最中のことだった。厨房の方でプシュ! と大きな音がした。パンパンに詰まった空気が抜ける音だった。ほどなくしてアルコールの匂いが鼻をかすめる。ゼミのメンバーを見回しても、誰もそれに言及する人がいない。
 気のせいかもしれない。
 そう思って鹿児島の地ビールを飲んでいると、店員が料理を運んできた。厨房の空気を纏いながらやってきた店員は、ツンとアルコールの匂いがした。焼酎などとは違う、ざらざらしたアルコールの匂いだった。少尉は厨房へ戻ろうとする店員を引きとめた。
「すみません」
「はい! ご注文でしょうか」
「いえ。ビールの匂いがするなと思って。気のせいだったらいいんですが」
「あー……すみません、さきほど厨房に置いてるサーバーが壊れてしまって。一樽分、ずっと流しっぱなしになってるんです。ごめんなさい、匂いますよね」
「いえ、そういうことなら大丈夫です。引きとめてすみません」
 店員は去って行った。
 変わらずビールの匂いは充満している。ゼミのメンバーが気付かないのは酔っぱらっているせいなのだろう。それか、少尉が普段あまりビールを嗜まないから匂いに敏感なのかもしれない。
 ……なんだか懐かしい匂いだと思った。
 空気の上澄みにアルコールの匂いがする。揮発したアルコールの匂いだ。その下層に重い麦の匂いがする。ヌタッとした香りだ。鼻の粘膜に直接塗られているような、濃い麦の匂いがする。青臭い草を煮詰めたような匂い。
 そう考えて――

 ――ドクン、と心臓が重く鳴った。
 ドッと冷や汗が出る。
 持ち上げたグラスを落としそうになり、慌ててテーブルに置いた。
 ……今。
 一瞬、何かが脳裏をかすめていった。
 懐かしさに涙が出そうになって、その懐かしさの輪郭を捉える前にひったくられるように消えてしまった。
 あれはなんだったんだろう。
 上手く掴めない。何かわからない。でも、何か大事なもののような気がする。
 思い出そうとした。
 先ほどの何かは、まだ頭のなかにあるはずだった。
 探して、探して――
 ……けれど頭のすみずみまで探しても、それはどこにも見つからなかった。
 変わりに、胸にぽっかり空いた穴に気が付いた。その穴を自覚した時、少尉は泣きそうなくらい悲しくなった。穴の空いた胸からドロリと涙が出ている。
 自分は大事なものを忘れている。
 大事なものを忘れていることに、今気付いた。
 大事なものを忘れていることを今まで知らなかった。
 居ても立っても居られなくなる。……自分はなんて薄情なんだろう。
 何を忘れているかはわからないが、何かを忘れていることは確かで、それが大切なことも確かなのだった。
 胸に空いている穴の大きさが、それがとても大切であったことを示している。
 虚しくなる。悲しい。ぎゅうと胸が縛られている。
 こんなに苦しいのに何も思い出せない。
 ひとつの手がかりすらもない。
 ついに涙が出た。一粒だけの小さな涙だった。
 その事実にも薄情だ、と思い、また苦しくなった。
 それでも何に対して苦しいと思うのか、いつまでもわからないままだった。


 杉本の就活が佳境に入っている。筆記試験はなんとか通過し、次は面接があるらしい。
 中華料理屋で前に座ると、少尉は杉本の顔をジッと見た。
 やっぱり綺麗な顔をしている。配置のミスがない。整っている。第一印象は間違いなく良い。問題があるとすれば大きな顔の傷だ。昨今の企業はこの傷を指摘するのか、しないのか。
 ラミネートしてあるメニューは思った通り油でべたついていた。メニューを二人で見て、やって来た店員に注文する。麻婆豆腐定食を二つ。少尉は注文を終えて不要になったメニューをメニュー立てに戻して、おしぼりでしっかり手を拭く。
「私は一体何を思い出せないのだろう」
 注文した料理が届くまでの隙間、少尉はそう言った。杉本は困った顔をした。
「またその話?」
 少尉が何度もこの話をするので、杉本はそろそろ飽きているようだ。最初は思いつくものをいろいろ挙げてくれていたが、最近は冗談すら言わなくなってしまった。
 ゼミの飲み会から一週間ほど経った。自覚した胸の空洞は、まだしっかりと胸の真ん中に空いていた。
 自覚すればするほど、空いているのがしっかりと大きな穴のように思える。この穴にぴったりはまるものを埋めたい。埋めて安心したい。けれど、ここに何がはまるのかと考えると恐ろしい。何か信じられないようなものを思い出してしまったらと思うと怖いのだ。
 胸に空いた穴は、ドーナツの穴のようだった。棒状の生地を繋いで輪にしたのか、円の真ん中をくりぬいて輪にしたのか、……出来上がったドーナツを見てもどちらの方法で輪にしたのかわからないのと同じように、少尉の胸に空いた穴がいつできたものかがわからない。
 元から空いていたのかもしれないし、もしかしたら途中でくりぬかれたのかもしれない。少尉にはそれすらわからない。『何か忘れている気がする』という、漠然とした不安があるだけだ。
「まあ別に穴があったってさ、別のもので埋めればいいじゃん。覚えてねえってことはさ、そんな重要じゃないんじゃねえの」
「何を言う。思い出せなくてこんなに苦しいことの、何が大事じゃないと言うんだ。大事なものを思い出せないからこそ、こんなに苦しいはずなんだ」
 そう言うと、杉本はひどく傷付いたような顔をした。
 ん、と思う。少尉の片眉が上がる。
 杉本の表情への違和感をを指摘しようとした矢先、机に麻婆豆腐定食が二つ運ばれてきた。黒い石のような皿に乗った麻婆豆腐は、ふちの部分がぐつぐつと煮えている。周りの彩度を狂わせそうなほど、豆板醤が鮮烈に赤い。
「いただきます!」杉本は嬉しそうに手を合わせ、レンゲで麻婆豆腐を掬った。ときどき白米に手を伸ばす。ここの麻婆豆腐は三口と続けて食べられないほど辛いのだ。がつがつ食べる姿を見ていたら、視線に気付いた杉本に「食わねえの?」と声をかけられた。その表情に、傷付いた片鱗は少しも残っていなかった。


 就職試験。最終面接の日だった。
 杉本は最終面接の前日、少尉の家に泊まった。わざわざスーツも持って来た。最終面接の前に少尉と話して落ち着きたいのだと言った。この男、全力で走るトラックの前は平気で横切るくせに最終面接の前は心細いらしい。
 こんなところもかわいらしい。ギャップだ。少尉はほとほと杉本にやられている。
 朝、杉本はそわそわと準備をしていた。緊張しているのがカチコチの関節からすぐ伝わってくる。少尉はワックスで杉本の前髪を撫でつけてやった。
「はあ〜〜〜〜〜緊張してきた。声出てる? 俺」
「出てる出てる」
「嘘お? いつもの八割しか出てなくない?」
「いつもの二割出てる」
「そうかなあ?」
「杉本でも面接は緊張するんだな」
「普通の面接だったら緊張しねえよ。今日の最終面接の相手は社長なんだって。だから緊張してんの」
「ふうん」
「ま、最終面接までいったら99%通るらしいけどね」
「じゃあ何を緊張してるんだ」
「俺がその1%になるかもしれないじゃん」
「ならんならん」
 少尉は笑った。しかし杉本の緊張はなかなか解けない。
 杉本の前髪は整え終わった。まっすぐ向き合って立った状態で、少尉はスーツのポケットにハンカチを忍ばせてやった。
「では私の分身を授けよう。きっとお前の力になってくれるはずだ」
「えっ。何? ……って俺のあげたハンカチじゃんよ」
「ああ。これはいつも、私の力になってくれたから」
 交際を申し込まれた時にもらったハンカチだった。不愛想なほどシンプルなハンカチなのに、隅っこにヒヨコのアップリケがついている。この隠れたかわいらしさが、杉本のようで愛おしいのだ。
「……嬉しいかも」
「素直に嬉しいとだけ言え」
「嬉しいッ!」
「よろしい。声も出ている」
 結局、杉本は北海道の会社には就職しなかった。
 その選択に訝しげな顔をした少尉に対し、パワーポイントまで持ち出さん勢いで各会社の比較・自分の持ち味・チームの雰囲気・チームに自分が加入した場合の変化などを総合的に説明し始めたので、少尉は「これは自分の存在に左右されていない選択である」と納得せざるを得なかった。どれだけ後付けで理由を乗せられていたとしても。

 ……そして、やっぱり胸に空いた穴は塞がらなかった。
 塞がることもなければ、これ以上広がることもない。幼少期から今までの記憶をなぞって思い出してみても、特に引っかかるようなことはなかった。
 ドーナツに空いた穴がどうやって作られたものであれ、今ここにある現実を受け入れるしかない。
 穴が作られた過程ではなく、今ある現実を。
 目の前に杉本がいるという現実。これで十分、満足だ。
 未だ緊張の面持ちの杉本にキスをした。
「行って来い。応援してる」
「……ん」
「帰ってきたら、今日してもいいぞ」
「え゛っ。でも今日、月曜日……」
「月曜日だけど、準備してやる」
 杉本は感極まった顔で少尉をギュウと抱きしめた。皺になる! やホコリがつく! を言ったが、杉本はなかなか離れなかった。
「俺お前のこと好き」
 と杉本は言う。少尉は口角だけ上げた。
 気張れ! と言って、ハンカチの入っているポケットを叩いた。


 杉本は無事面接が通り、就職できた。社長とはめちゃくちゃ話が弾んだということだった。あまりにも話が弾みすぎて面接時間も長くなってしまったので、途中で秘書が面接を中断させたとのことだった。LINEを交換したらしい。
 杉本はこういう男だ。心配だけが上滑りしてしまって、降りかかる現実はとことん彼に甘い。
 ひとまずこれで二人とも、来年行く宛てがある。あとは卒論だけだ。先行きの見通しが立ってだいぶ身軽になった。
 夕食を済ませ、二人横に並んでテレビを見ていた。テレビからバラエティの明るい声がする。
 今日はゆるい木曜日だった。後期から講義は少なくなる。少なくともセックスの頻度はもう少し融通が利くようになる。
 秋の風がふわりとカーテンを揺らす。夏を越えて、夜は随分涼しくなってきた。
「そろそろ扇風機しまう?」
「しまってもいいが、夜中暑いと言うのはお前じゃないか」
「ま〜ね。都会は暑ィね。ビルの隙間に熱が溜まんのかな」
「今度川の近くの宿にでも泊まりに行くか」
「いーね。川遊びは?」
「する」
「最高! もう顔に傷作んないようにしようね」
 杉本はウキウキとスマホで調べ始めた。来年の夏の予定が決まってしまった。何事もなければ、来年も一緒に過ごす。
 関係を脅かすような何かがなければいいなと思う。お互いがいない未来が考えられない。就活で杉本がいない時間は、何をしたらいいのかわからなくて苦痛だった。今はそれより前の日常を取り戻している最中だ。
 テレビのバラエティ番組も、サブスクの映画も、食事だってそうだ。一人の味気なさを知ってしまった身体に、杉本は強い薬になった。
 ……ふと、壁に立てかけられているギターと目が合った。最後に触ってからだいぶ日が経った。チューニングしなければ。
「そういえば、お前のギターで曲の練習を始めた」
「あれ別に俺のギターじゃないけどね」
「お前がもらってきたんだからお前のだろう」
「う〜ん。二人のってことにしない? ……で、何の曲練習してんの?」
「禁じられた遊びという曲だ。なかなかいい曲だから、その曲の使われている映画を観たくなった。今度一緒に観よう」
「いいよ。なんてタイトル?」
「曲名と同じだ。戦争孤児の映画、らしくて……」
「戦争ねぇ……」
 戦争、という言葉を口にした途端、心臓が大きく跳ねた。殴られたと表現する方が正しいかもしれない。
 ドンと大きな音がして、それからドクドクと勢いよく血が流れ始めた。
 動脈、末端。静脈を通る。それから血は心臓に戻る。
 まばたきを忘れた。呼吸もおぼつかない。脳だけが鮮明だった。
 モノクロ映像を無理やりカラーにしたような映像が脳に映し出される。
 そしてそれはまたモノクロに戻り、ガラスを割ったみたいにばらばらと散っていった。
 ばらばらに散ったけれど、断片は残った。
 あの時嗅いだビールの匂いが、鼻の粘膜にこびりついているかのように香る。
 樽に穴が空いてビールが全部流れ出てしまって、溺れた時のようにがぶがぶ飲んだあの時の匂い。
 あのビールは確かに濃くて、舌にヌタッと残って、匂いも強烈で、青い稲穂みたいな匂いがした。
 少尉は杉本をジッと見た。
 視線に気付いた杉本は、ン? と唇に弧を描かせた。やさしい顔をしている。傷跡も変わらずある。
 知らないのに知っている顔だ。この柔らかい表情は今、この時代に生きる自分にだけ、この男が見せる顔だった。
 まばたきするのが惜しい。
「……不死身の杉元?」
 そう口にすると、少尉は恐ろしくなった。杉本の顔をまっすぐ見ることができなっくなる。
 急に怖くなった。
 この一言が、今まで積み上げてきた前提のすべてをひっくり返してしまうような気がして。
 もしかしたら自分は、とんでもないものを思い出してしまったのかもしれない。
 とんでもないこと。
 前世、ビール、明治、戦争、陸軍少尉、不死身の杉元。
 ……
 ……この男は杉本ではない。杉元だったのだ。
「鯉登少尉」
 そう胸に詰まったような声で言って、杉元は鯉登を抱き締めた。愛おしさが募って思わず、と言うよりは、居たたまれなくて引き寄せたというのが近かったかもしれない。
 杉元の着る分厚いスウェットが二人の邪魔をする。顔が見えない。
 杉元がズ、と何度も鼻を啜るのが耳の近くに聞こえる。泣いているのだ。鯉登の襟元が濡れていく。ぼたぼたとぬるくて、すぐに空気を纏って冷えて行った。
 気付けば鯉登は痛いくらい抱きしめられていた。恐る恐る引き寄せられたのが、いまや強い力に変わっている。
 逃がさないと言われているようだった。全部思い出しても逃がしてなんかやらないと。
「……お前が思い出して、嬉しいのか悲しいのかわかんねえ」
 そう言った杉元の声は、鼻水と涙の混ざったひどい声をしていた。
 鯉登はむしろおかしく思った。
 幼なじみとして生まれてからこのかた、杉元が吐露してきた不安や、よくわからない不可解な喩え話の数々が、やっと一つの場所に収束していくのがわかる。
『――昔から思ってたよ。お前は、お前が信じたものしか見えないんだろうって。だから、お前の視界の外にいた俺は、全く眼中になかったと思う』
『前世でもたぶん出会ってたと思うよ。……俺が、お前の眼中になかっただけで』
 杉元は鯉登の記憶が戻れるのを恐れていた。鯉登少尉の中に杉元はいないと信じ切っていたからだ。
「私の中に貴様はいたみたいだな」
 そう鯉登が言うと、う゛〜と唸ってから杉元はしゃくりあげた。抱きしめられているから顔は見えないけれど、きっとくしゃくしゃでひどい顔をしているのだろう。その表情が目に浮かぶようだった。
 杉元は子どものような鳴き声をあげた。懐かしい。小学生の頃、杉元はよくこうやって泣いていた。
「ん゛も゛〜っ、なんなのお前……マジでなんなの、俺の不安返せっ、思い出したらお前絶対離れるって思ってたから覚悟しちまったじゃん」
「わはははは!」
 鯉登は昔の……それこそ前世の記憶を思い出したばかりだから、あの時の自分が杉元のことを好きだったかはわからない。けれど今の自分はしっかり杉元のことが好きなのだから、それだけで十分じゃないかと思う。そうは思っても、杉元の不安になる気持ちは痛いほどわかる。
 本当に情けない男。けれどかわいらしくて仕方がない。男をかわいらしく思うようになると、もうすっかり駄目らしい。鯉登はとっくに駄目になっている。
 杉元はずっと鯉登のことを好きだったのかもしれない。鯉登が、自分が自分であると知覚するよりもっと前。杉元が杉元であると自覚した頃から。

 ドーナツに空いた穴はすっかり埋まった。




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