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13号室



「て、」
海を見ていた。
うつくしい、海だ。
紺碧と、翡翠と、群青と、それから天の橙だとか紅だとかを溶かした様な。
そこにぽっかりと半分の白金が浮かんでいる。
息をすると、仄温い空気が喉から肺を満たした。
しかし海風は些か寒い。
「あなた、て、を」
少女がそう言うから、ぼくは手を差し出した。
人並みに焼けたそれが、彼女の透けるみたくしろいのに触れる。
ちいさな細い手は、ぼくをそろりと引いた。
釣られるままに一歩、二歩、三歩。
足の裏を弱く引っ掻く砂は、どこまでも柔らかい。
時たま貝殻らしきものが皮膚を突いたが、気にすることはない。
ぼくはただ、少女と、そのうしろの海を見ていた。
少女は何かを囁いていた。
さざ波に似た声は、本物の波の音に紛れて分からない。
いつしか塩辛い水に四方を囲まれていたから、ぼくは少女のくちづけを受けた。
そうして世界は、甘やかに溶けていく、のだ。







「泡になった王子様」


12号室




ごめんね、どうせひとでなし。
あたし、きみを置いていったの。
ひとりぼっちにしたの。
それで、気付いたらこんなところまで来てた。
いつの間にか口は真っ直ぐ平行線のまま留まってしまって。
目は斜め下しか見れなくなって。
それでも、この脆弱な筈の手足は動くのを止めてくれなくて。
息をすることも、辞められなくて。
今日も足元の蟻を踏み付けて進む。
ピアスの鈴がちりちり鳴った。
残念、まだ人で無しになれない。






「アイ・キャント・ネバー・スーサイド」



11号室



その部屋の床に、僕は転がっていた。
天井ばかり見つめている。
染みがひとつ、ふたつ、いやここのつ。
暫く使っていない家具や小物、食器には薄く埃が積もっている。
冷蔵庫の中身も、戸棚の中も、腐り果てているんだろうなあと思ったが、元より中身など無かった。
殆ど彼女のものだったから、持っていってしまった。
彼女が出て行った扉はここ何日も開かれること無く、錆び付いてしまっているかもしれない。
僕は彼女が好きだった。
ただ、それだけしか僕には無かった。
それでも彼女には、それ以外があった。
そんなもんだ、理由など、どうせ。
このちっぽけな部屋には僕しかいない。
僕が生きているのか死んでいるのか、それを証明出来るものは、何処にも居なかった。







「10の消失と0の僕」


10号室



「おはようバネッサ!今日も君は綺麗だねえ」
金物売りの男がそう言った。
視線の先には女が居た。
くすんで裾のぼろけた臙脂のローブを身に纏い、石灰色のざんばら髪の両横を三つ編みにし、鴉の頭骨の様な仮面をつけた女だ。
彼女はうつくしい森のざわめきの様な声で一言、ありがとう、と言うと、男から杯をひとつ買った。
その女は、毎日その町の中を歩いた。
猫しか通らない路地まで。
隅々を。
そして町の人々は、老若男女関係無く、口々に言うのだ。
バネッサ、貴女は綺麗だ、と。
今日も女は町を歩く。
すっかり擦り切れた革のサンダルを引き連れて。
「やあバネッサ、相も変わらず綺麗だなあ」
顔の崩れた、魚売りの男がそう言った。
女は礼を言い、鯖を一尾買った。
バネッサ。
ペストで滅んだこの町で、彼女は確かに、生きている綺麗な女だった。







「魔女と呼ばれた少女」


9号室



窓を開けて、素足のままベランダに出て。
冷たいトタンの足場に胡座をかく。
それから、両手いっぱいの蝋燭をその真ん中に落とし、スウェットのポケットに入れていたマッチを一本擦った。
そして、色とりどりのちいさな蝋燭にひとつひとつ灯を燈す。
以前百均で買ったチーズフォンデュ用のキャンドルが、意外なところで役立った。
こんなものでも、割と雰囲気は出るもんだ。
視線を僅か上げると、町並みはただ、暗がりだった。
僕の部屋も。
いつもは煩いテレビ、好きな曲しか流れないコンポ、つけっぱなしのパソコン。
全部、今日は静かだ。
書きかけのレポートを保存していなかった気がするが、そんなことはどうだってよかった。
どうせ大して進んでいないのだし。
全ての蝋燭に灯を点け終わると、僕の周りだけは明るくなった。
蝋燭が溶ける、独特の匂いが鼻腔を擽る。
風が涼しい。
何と無く上を向くと、星が無数に瞬いていた。
普段は人工的な星ばかりが輝いている街だから、何だか新鮮な気持ちだった。
まるで宇宙の真ん中だ。
いつもより大きく見える月を見ると不意に、あの人の顔を思い出した。
そして、咄嗟に口をついて出たことば。
拙く掠れたアイラブユーは、満月の湖面に落ちて、溶けた。






「大停電の夜は月が綺麗だった」



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