「て、」
海を見ていた。
うつくしい、海だ。
紺碧と、翡翠と、群青と、それから天の橙だとか紅だとかを溶かした様な。
そこにぽっかりと半分の白金が浮かんでいる。
息をすると、仄温い空気が喉から肺を満たした。
しかし海風は些か寒い。
「あなた、て、を」
少女がそう言うから、ぼくは手を差し出した。
人並みに焼けたそれが、彼女の透けるみたくしろいのに触れる。
ちいさな細い手は、ぼくをそろりと引いた。
釣られるままに一歩、二歩、三歩。
足の裏を弱く引っ掻く砂は、どこまでも柔らかい。
時たま貝殻らしきものが皮膚を突いたが、気にすることはない。
ぼくはただ、少女と、そのうしろの海を見ていた。
少女は何かを囁いていた。
さざ波に似た声は、本物の波の音に紛れて分からない。
いつしか塩辛い水に四方を囲まれていたから、ぼくは少女のくちづけを受けた。
そうして世界は、甘やかに溶けていく、のだ。
「泡になった王子様」
ごめんね、どうせひとでなし。
あたし、きみを置いていったの。
ひとりぼっちにしたの。
それで、気付いたらこんなところまで来てた。
いつの間にか口は真っ直ぐ平行線のまま留まってしまって。
目は斜め下しか見れなくなって。
それでも、この脆弱な筈の手足は動くのを止めてくれなくて。
息をすることも、辞められなくて。
今日も足元の蟻を踏み付けて進む。
ピアスの鈴がちりちり鳴った。
残念、まだ人で無しになれない。
「アイ・キャント・ネバー・スーサイド」
その部屋の床に、僕は転がっていた。
天井ばかり見つめている。
染みがひとつ、ふたつ、いやここのつ。
暫く使っていない家具や小物、食器には薄く埃が積もっている。
冷蔵庫の中身も、戸棚の中も、腐り果てているんだろうなあと思ったが、元より中身など無かった。
殆ど彼女のものだったから、持っていってしまった。
彼女が出て行った扉はここ何日も開かれること無く、錆び付いてしまっているかもしれない。
僕は彼女が好きだった。
ただ、それだけしか僕には無かった。
それでも彼女には、それ以外があった。
そんなもんだ、理由など、どうせ。
このちっぽけな部屋には僕しかいない。
僕が生きているのか死んでいるのか、それを証明出来るものは、何処にも居なかった。
「10の消失と0の僕」
「おはようバネッサ!今日も君は綺麗だねえ」
金物売りの男がそう言った。
視線の先には女が居た。
くすんで裾のぼろけた臙脂のローブを身に纏い、石灰色のざんばら髪の両横を三つ編みにし、鴉の頭骨の様な仮面をつけた女だ。
彼女はうつくしい森のざわめきの様な声で一言、ありがとう、と言うと、男から杯をひとつ買った。
その女は、毎日その町の中を歩いた。
猫しか通らない路地まで。
隅々を。
そして町の人々は、老若男女関係無く、口々に言うのだ。
バネッサ、貴女は綺麗だ、と。
今日も女は町を歩く。
すっかり擦り切れた革のサンダルを引き連れて。
「やあバネッサ、相も変わらず綺麗だなあ」
顔の崩れた、魚売りの男がそう言った。
女は礼を言い、鯖を一尾買った。
バネッサ。
ペストで滅んだこの町で、彼女は確かに、生きている綺麗な女だった。
「魔女と呼ばれた少女」
窓を開けて、素足のままベランダに出て。
冷たいトタンの足場に胡座をかく。
それから、両手いっぱいの蝋燭をその真ん中に落とし、スウェットのポケットに入れていたマッチを一本擦った。
そして、色とりどりのちいさな蝋燭にひとつひとつ灯を燈す。
以前百均で買ったチーズフォンデュ用のキャンドルが、意外なところで役立った。
こんなものでも、割と雰囲気は出るもんだ。
視線を僅か上げると、町並みはただ、暗がりだった。
僕の部屋も。
いつもは煩いテレビ、好きな曲しか流れないコンポ、つけっぱなしのパソコン。
全部、今日は静かだ。
書きかけのレポートを保存していなかった気がするが、そんなことはどうだってよかった。
どうせ大して進んでいないのだし。
全ての蝋燭に灯を点け終わると、僕の周りだけは明るくなった。
蝋燭が溶ける、独特の匂いが鼻腔を擽る。
風が涼しい。
何と無く上を向くと、星が無数に瞬いていた。
普段は人工的な星ばかりが輝いている街だから、何だか新鮮な気持ちだった。
まるで宇宙の真ん中だ。
いつもより大きく見える月を見ると不意に、あの人の顔を思い出した。
そして、咄嗟に口をついて出たことば。
拙く掠れたアイラブユーは、満月の湖面に落ちて、溶けた。
「大停電の夜は月が綺麗だった」