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選択肢。

あるママさんと話した事なんだけど







“もし子供のクラスに
いじめられている子が居て
どう子供に指示する?”

という内容で







私はね
こう答えました。
「いじめるいじめないの低次元の問題には、関心を持たないで欲しい。」
って。
そしたら…猛非難を浴びました(-_-;)







そのママは
「子供に、その両者の仲を取り持つように言うのが当然。両者供と仲良くしなさいって言うもの。」
だと。







私はその意見
共感は出来なかった。

だってね
いじめる側と
いじめられる側

両者の意見って
全く逆だったりするワケで

その両者それぞれと仲良くしなさいって事はね







逆に言えば
その両者それぞれに荷担しなさいって事でしょ!?







それはすごくズルい選択で、私は息子にそんな指導はしたくないなァって。







全ての人と仲良く
全ての人に合わせて


そんな生き方はしなくていいって思います。







いじめる側
いじめられる側
その仲を取り持つ人

そもそも
その渦中に参加しなくていいって思うの。







まず
いじめる側←ここと
仲を取り持つ人←ここは

参加する基準は本人にあるワケなので、断わる事は可能でしょ?






そして
いじめられる側←ここは
本人の意思に反してこの立場に置かれる場合があるけど


自ら進んでの参加はしなくていい。
意思に反して参加した場合は、冷静に抜ける方法を考えるべきだと思うの。







だいたいね
全てと仲良く
なんて言う人が

まんべんなく
全てを傷付けてるケースが多いんじゃないかな??







社会で
会社で

全員と仲良くなんて言ってる人は

たいてい
両者へ反対の相槌打ったりして
言ってる事も
その場しのぎで







信用薄い。







そんな大人へは
なって欲しくないので







好き嫌い
はっきりしててイイと思ってます。







私もパパも
敵は沢山作ってきた。
でも同時に
全力で守ってくれる味方も居た。

それでいいんだと
思うんだよね。







上べの仲良しなんて
そんな事の為に嘘をついてまで、人の顔色伺いながら過ごすなんて







しなくていい。







そもそも
そんな所へわざわざ首つっこみに行くお節介には







ならないで欲しい。
それが私の考えです。







色々な価値観があるから
どれが正しい選択なのか
分からないけど







“子供を守る”
私はここに重点を置きたいと思っています。


クラスメイトを守る事も
人として大切だとは思います。







だけど
その渦中に参加してしまうと
“守る事”の本質がズレてしまう気がするのよね。







誰かを守る(援護する)という事は
同時に、別の誰かを傷付けてしまう事になるケースが多い。







いじめる事も
いじめられる事も

そこに第3者が介入する事で、問題が大きくなる。







結局ね
どっちつかずというか
野次馬参加する人が
一番の加害者になる気がするんだァ。







難しい問題だけど

私は
そう考えます。







参加しなくていい。
それでいじめられるとしても、その挑発にのらないでいい。







断る事は
参加する事と同じだけ
勇気が必要。


参加するのは
させられたと人のせいに出来ても

断るのは
自分の意思が必要だから。






選べないなら
断る勇気を出しなさい。
…って言うかなァ。
私はね。

当たり前

「あたりまえ」


まい日
ポストに
新聞が
届けられる

コンビニにいけば
ほしいものが
いつも並んでる

給料日には
銀行の口座に
お金が
振り込まれる

水道の
蛇口をひねれば
いくらでも
水は出てくる

すべてのことが
あたりまえの
ように
過ぎていく

けれど
誰かがどこかで
必死で
汗を流して

このあたりまえを
きっと
ささえてくれている

あたりまえは
あたりまえじゃない

それが
あたりまえじゃ
なくなってから
気づいたのでは
遅いのだから







―――――――――
当たり前に思ってる事
当たり前に与えられてる事






それって
ホントは奇跡の1つなのかもね。







当たり前だと思って
そんな視線で見ると

当たり前に行かなかった時
カチンとくる要因の1つになるけど







最初から
“当たり前じゃない”
って気持ちの準備をしていたら







なんかね
少々思い通りにいかなくても、その一部が奇跡に思うと


感謝したい気持ちへ繋がる。







子どもに優しく接するのに
これは
すごく良い魔法かもね。







だって
いつもなら叱ってしまう事も
もしかしたら
褒めちゃうかも…でしょ??







子供と大人では
きっとね
“当たり前”の存在基準が違うんだと思うの。







もしかしたらね
“ママは喜んでくれる!”
と思ってやってる事を


“余計な事しないで”
なんて怒ったりしてたりするかも。







それを解決するには
“当たり前”
をね、ほんの少しの時間でいいから
すっかり忘れてみる事かもね。







“こう言えばこうしてくれるもの”

このママの中の当たり前をね







ちょっと忘れてみるといい。







そしたらきっと







感謝の気持ちが
出てきます。







ママの中にある
“思いやりの気持ち”
がね

いっぱい元気をくれる。







感謝の気持ちってね
自分自身が嬉しい気持ちになるサプリみたいなもの。






“ありがとう”
1日1回
何かに感謝してみると
心はとっても穏やかになります。

肩たたき

夢くんがね
「ママ、カタタタキしてあげるよ!座って!」







と、突然言ってきた。
「肩たたき出来るの?じゃーやってもらおうかなァ(^-^)」
と夢くんの前に座ると







「お歌うたいながらするからね!ママ?いい?」
と、なんだかすごく張り切ってる姿が少し面白かったり…。







「よろしくお願いします。」
と、夢くんに肩たたきをお願いしたら







♪かァさん〜お肩〜♪
と歌いながらトントン始めた夢くん。







ん??
なんか違和感を感じて


“ストーップ!!”







「夢くん、お歌、おかしくない!?何を歌ってるん?もう一回最初から歌ってみて」

と、夢くんの歌を
真剣に聞いてみると







♪プチプチプチプチ
プチシルマァ〜アアア!!
もういっちょ!
かァさん、お肩がァ〜凝ってるの〜
プチプチプチプチ
プチシルマァ〜♪







って(-_-;)←それ“肩たたきの歌”じゃないって突っ込みを入れるタイミング逃して…放置する母







しかも
“もういっちょ!”
で、以下エンドレス…







ねぇ?
夢くん、歌間違ってるんだけど…

と、一応指摘してみたら







「間違えてた。(>_<)」
と気付いた夢くん。







なのに、訂正した歌は
“ねぇさん〜お肩がァ〜
凝ってるの〜
プチプチプチプチ、
プチシルマァアアア〜”

(訂正したのは、母さんの部分!?)







夢くん…
何か悪いものでも食べたのかしら(涙←やや心配)







でも
夢くんの肩たたき
結構気持よかったので
とっても感謝です(^-^)







ただ
途中に振り付けが入ってて、2割程しか実質肩を叩いてもらってないんだけど(汗)←無駄にダンスが含まれてる!?







いつの間にか
ママの肩をたたいてくれるまで成長した夢くんに







ママは嬉しいです。
優しい子に育ってくれて
ありがとう。







ママの疲れ
吹っ飛んだよ。
ありがとうね、夢くん。

子供の声。

日々の事や
これからの事。






幼いから…
未熟だから…

そう流したくない。







思うんだァ。
子供ってね、ちゃんと聞く姿勢を持って接するとね

無器用ながらにでも
体全部使って
伝えてくるの。







ママにしか分からない
ママにだけ伝えたい
子供からの声
ってのが、きっとあって







それが聞こえるのは
臍の緒で繋がってた
ママの特権だって…ね。






ママは味方よ
って接する事が出来たら
それだけでママの役目、半分は達成してるって

思うの(^-^)







愛することって
難しく思うけど


目をそらさずに
そのまんまを
全部受け止めて許す心
…なのかなァって。







そんな風に
子供の声に耳を傾ける“余裕”を少しだけ持ってみると







次は
ママからの声も伝えたいって願いも少し出てくる。







そしたらね
次はママが
心とカラダを全部使って
子供に伝えるの。







言ってもどうせわからない…

なんて思う前に


伝わるかもしれない“方法”を色々試さなきゃ。







難しいようで
難しくない。

簡単なようで
簡単にいかない。


ってあるように
やってみなきゃ分からない…もんね。







いつでも諦める事は出来る。
別に今すぐじゃなくったって、ね。







散々色々試して
もう何にもアイデア浮かばない!!
となってから
諦めたっていいでしょ?







子供の声に耳を傾けるとね
ママの言うこと聞けない“理由”が

見えてくる。







そしたら
ママのお話聞いてもらえる方法がね







見付かるよ。







子供は馬鹿じゃない。
もしかしたら
ママよりずーっとずっと
頭が良いかもね。

無知な自分を認める事。

こんな言葉があります。







【ウォルト・ディズニー】

正直に自分の無知を認めることが大切だ。
そうすれば、必ず熱心に教えてくれる人が現れる。







自分の無知を認める事は
簡単に出来るものじゃない。






だって
「そんな事も知らないの?」
と言われたりするのは気持ちの良いモノじゃないし、嫌だよね。







だけど
無知を認めずに突き進んだ所で、余計苦しい状況へと自分を追い込む事だってある。







それなら最初に気付いた時点で
“無知な自分”を認めてみたら







きっとね
他の誰かが、手を差し出してくれる。

それって
今現在の交友範囲外からでも







ありのままの自分を
受け入れてくれる新しい交友関係は

プラスだと思うの。







自分を隠して
自分に無理をして
背伸びした自分で

無理に合わせなきゃ
壊れてしまう関係なんて







寂しいよね。







だって
隠してる方も
隠されてる方も

寂しいよね。







小出しにしたって
全部一気にぶっちゃけたって


時差はあっても
結果はね
一番最初にシナリオ作られてたりするもの。







それはね
“無知な事”
が、結果を決定するより
“それを隠していた事実”
が、大きく作用するんじゃないかな?って。







知らない事が恥ずかしいんじゃない。
隠すことが恥ずかしい事なんだって。







背伸びをせずに
等身大の自分で居ても

ひとりぼっちには
ならないと思うの。






無理してると
どこかでつじつまが合わなくなってくる。







行き着くトコまで行って
全部を失ってから
後悔したって遅いから







一番最初にね
等身大の自分を認めた方が
気が楽だもんね。







私ね
パパと付き合ってた頃
背伸びをして1人で空回りしてた事があった。







思春期の定番!?
エッチの経験の事でね←内容が幼い。





結局
背伸びした自分に
苦しくなって
自分をさらけだしてみたら(開き直りとも言う)







あっさり
“今頃!?そんなの最初から知ってる”
なんて言われてね。
(幼馴染みなパパは、余計な事まで知ってる仲←オムツをはいてる時代の私を知ってる人)






最初から気付かれてたの知らなくて
背伸びしまくってた自分の言動が…後から思うと恥ずかしくて消えたくなったけど(-_-;)←あんまりにも馬鹿すぎた自分に。







無知はね
恥ずかしい事じゃない。
だって
“教えてあげたい”ってお節介な人、世の中には沢山居るんだもん。







無知で愛想を尽かされる程度の相手なら







それだけの
上辺だけの

関係なんだもん。







そんな関係
どーせ長くは続かないものだったって
割りきってしまえばいい。






大切な関係は
少々の事で壊れないものだから。







信じてなきゃ
ありのままの自分
出せないもんね。







だけど
大切なら尚更
信じて自分を出さなきゃね。






相手を信じるからこそ
等身大の自分
出していける。







本当に縁在るものなら
そんな事じゃ壊れない。

本音の自分って
そんなに長く隠しとけないものだしね。







大切な人だから信じてみるの。
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