塾講師のようなものをやり始めたんです。
主に受験生の相手をしているのですが、日々サイダーを飲みたくなるような日々です。
私もその道を通ってきたはずなのですが、高校生の甘酸っぱさというものは、
あれはなんなのでしょうね。彼らのもつそれは、今の私の中からはすっかり消えてしまっているようです。
それだから、彼らにとっての”普通”が私にとって羨ましく思えたりもするのです。
あの感性だけが先走っていて、他が全て置いていかれているような、
現実と夢の間にふわふわと漂っているような、形を定めようにも定めることのかなわない、
そんな彼らの在り方に、何者かであろうとしてもがく私は共感を感じたり、遠く思ったりしているのです。
とても不思議です。先に受験をした、数年先に生まれただけの私のアドバイスを、彼らはとても有り難い言葉のように
受け止めてくれます。それがとても不思議なのです。
中には私のアドバイスなんぞなくても、一人で立派に勉強して、良い成績をしっかりと修めている生徒もいます。
そんな生徒でも私の助言を求めてくれるし、テストの成績の良かったのを褒めると大いに喜んでくれたりするのです。
もしかすると、私が彼らに一種の憧憬を抱くのと同じように、彼らも私に何かしらの思いをもっているのかもしれません。
蓋を開けてみれば、お互い何も特別なものなど持っていないのでしょう。
私は何も特別なことをしていないのだから、それは彼らにとっても同じ話であるはずです。
彼らにとっての普通と、私にとっての普通がそもそも食い違っているからこそ、私は彼らを、彼らは私を、
あるがままに見ることができていないのだと思います。
陳腐な言葉でそれを表すなら、隣の芝は青いということになるのでしょうか。
今受け持っている生徒たちが大学生になれば、私と彼らにはもう何の接点もなくなりましょう。
その時が来たら、彼らはきっと、私が何の変哲もないただの大学生であったことがわかるはずです。
そして、彼らが持っていた私を惹きつける不思議なエネルギーも、私がそうであったように彼らは失っていくのでしょう。
それは寂しいような気もしますが、その時になって初めて、お互いをありのままに知覚して、接していけるのではないかと思うのです。ですから、それはきっと良い事なのです。少なくとも頭の中ではそのように理解しています。
先程も述べたように、受験が終わればそもそも彼らとの接点自体がなくなるのでしょうが。
諸行無常。