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しとしとと続く雨音を掻き消すように流していたテレビ。耳に届いたランキングに気を引かれてテレビ欄以外も読むようになった新聞から目を上げると、左側を温めていた銀二がこちらを向いた。
「へへ、オムライス一位でしたね。この間作っちゃったからあれですけど」
切り替わった画面は妙な名前を付けられた台風が米国で猛威を振るうという、数秒前とは格段に温度差のある情報を伝えていた。ニュースというのは日常のありふれた出来事や風物詩から一転して凄惨な悲劇まで映すのに、裏側の情報は見事に通さない。そのフィルターにたいした金はかからないと、いつだったか目の前の白髪が言っていたことを思い出す。
「男の胃袋じゃなくて子供の胃袋がターゲットだろ、さっきのは。ハンバーグとかカレーとかよ」
「男はいくつになっても少年でしょ。俺もハンバーグ好きだし」
「じゃあ、作るか」
口に出して、どうせ子供舌だなと笑われるだろうと後悔したのに、返ってきたのは思いがけないひとつの動詞だった。温くなったコーヒーカップが銀二の手から解放されて、コースターの上に戻される。置きっぱなしにしていたゴムで下ろした髪を不器用に纏めているところを見るとどうやら冗談ではないらしい。
「え、本当に作るんですか?」
「別のもんがいいか?」
「そうじゃなくて。銀さんがハンバーグを作ってくれるってこと……?」
「ああ」
昼だし、いいじゃねえか。
逸れた一筋の髪を形の良い耳にかけながら、悪党の仮面を脱いだ笑み。この仕草と表情は俺を頷かせるのに十分すぎて、始末に困る。この人は計算でなくこういうことをやってのけるのがずるい。
「あー……玉葱は野菜庫、肉は三段目に入ってますから」
キッチンに足を向けた銀二の背にそう言うと、告げた場所が開かれる音がする。続いてシンクの下の扉が開かれて、まな板、包丁、ボールが取り出された。いつも自分が食事の準備をするとき、銀二はソファに座っていて、こんな音を聞いているのだ。玉葱が刻まれる音、五徳にフライパンが置かれてぱちぱちと跳ねる油。気になっていた今週末の天気予報なんてそっちのけで、鼓膜を小さく揺らす生活音に耳をそばだてているなんて知ったら、あの人は笑ってくれるだろうか。
「森田、パン粉はどんくらい浸しとくんだ」
幸せな思考を遮る幸せな声にキッチンを窺う。数分振りに見た銀二の左手には牛乳。気付けばちょうど良く炒められたであろう玉葱の香りがリビングを漂っていた。
「びちゃびちゃにならないくらいなら、適当で大丈夫ですよ」
そうか、と俯いた頭の影から後ろ髪がひょこりと顔をだして、顔の緩みを抑えきれなくなる前にテレビ画面へと向き直る。どうして今日に限って髪の毛を結んでみたりしたのだろう。かわいらしくて仕方が無い。
「……っく」
「ん?」
「くしゃみ」
「ずいぶんとまあ、静かですね」
「まあな」
本当は胡椒の削られる音がしていたから聞かなくとも分かっていたのだけれど、エプロン姿と結い髪を見ておきたくてついつい振り返ってしまう。やはり印象というのは変わらないもので、銀二が立つキッチンは小洒落た料理店のように見える。フライパンを濡れ布巾の上に乗せて冷ましている間にパン粉に牛乳を馴染ませて、その脇で挽肉に下味をつける。手元が見えなくとも分かる。
一人暮らしをしていたときは自分で作ったものを自分で食べるという選択肢しかなかったのに、今では手料理を人に食べさせられる、あまつさえ大切な人に作ってもらうこともあって、食事と言う行為の認識が変わった。ただテレビを見ながら適当にかっこむのではなく、いただきますで始まって、今日の仕事はどうだ天気はどうだ、味が濃いだの薄いだのを経由して、ごちそうさまで終わる短いながらも大切な休息の一時。面倒だった支度や後片付けまで楽しみの一環に変わってしまった。
「テーブルの上空けとけよ。あと焼くだけだから」
「はーい」
すぐに胃袋を刺激する音と、腹の虫を騒がせる香りがキッチンから届く。この完成を待つ数分間の地獄が空腹には堪えるのだ。グラスとコーヒーカップを端に寄せ、新聞紙とリモコンを定位置に戻して、脇に退けられていたクッションをさらに押しやる。二人掛けのソファにこんなスペースを取る物があっては並んで座れっこない。
「飯は?」
「大盛りで!」
あらかた火が通ったのだろう、白髪は火を弱めて炊飯器の前に移動していた。握りなれた金の代わりにしゃもじを手にしたフィクサーが真面目な顔で問うているのがおかしくて、やたらに大きな声が出る。
「食い意地張ってんなあ」
「銀さんの手料理だからですよ」
「米炊いたのはおまえだろ」
浅く笑う声、喉が鳴るのが聞こえる。言い返してやろうにも、目に前に突きつけられた美味そうなハンバーグとフォークには太刀打ちできずに口をつぐむしかなかった。
吸い込んだ空気は花の香をたっぷりと含んでいた。香りだけで名前が分かるほど花に興味はないが、これは気分の悪いものではない。
悪党と言えど、自宅の布団は落ち着くものだ。一仕事終えた後に潜り込んだらなおのこと。思いのほか長湯をしてしまったようで、体がずいぶんと火照っている。最後に換気をしたのはいつだっただろうか、と思いながら窓を開けてみると、心地よい冷たさが頬を撫でた。暦でみるよりずいぶん春は近くまできているらしく、夜気からはしっとりした森のような香りがする。
いつだったか、先方の都合で高層ビルのヘリポートで現金の受け渡しをしたことがある。何度も取引をしている相手で取引をする場所もおおよそ決まっていたけれど、急な話で向こうの時間が取れずにそうなった。
月明かりが眼下のネオンを退けて輝き、天上では絹のように薄い雲が見る間に流されていた。ヘリが着き、先方が降り、事が済むまで15分ほどだったと思う。飛び去っていくヘリを見送ったとき、肩に森田の手がかかった。
「どうかしました?なんか変ですよ」
「そう見えるか」
「はあ、いつもと違って緊張してるというか、ちょっとぎこちないというか」
いままでは素知らぬ顔をして隠し通せたものが、この男にはわかってしまう。嬉しいような悔しいような心持ちは出さないように答えてやった。
「高いところが得意じゃねえんだ」
以前森田が入院していた病院の屋上くらいならなんてことない。外に出ないのなら高層でも問題ない。だが今回は少しばかり平常ではいられなかった。
「意外ですね。じゃ、さっさと降りましょうか」
弱点を聞いてしまったのが気まずかったのだろう。言及せずにエレベーターまで連れて行かれ、その後はなにもなかったように帰路に着いたのを覚えている。その後、別れるまでの間に同じようなシチュエーションはなかった。
安田も巽も今回限りのあのガキも酒に飲まれてしまったようで、静かな部屋にいびきだけが響いている。いつもなら軽く叩いて苦情の一つでも言ってやるところだが、今日は大勝ちした褒美に大目に見てやることにした。大きな窓ガラスの前に立ち外を眺めてみると、いつかと同じような景色が目に飛び込んでくる。上空で流される雲はあっという間に形を変えて、月は明かりのない部屋を薄白く染める。手の中のグラスがやたらに煌いて見えた。
今までうまくやってきた。若い時には色々な苦い思いもしたけれど、それがあってこそ立ち回り方を学んだ。足りない知識や手の届かない分野も金と人脈で補えた。失われかけていた翼の選定もうまくいき、去年までは順風満帆だったのだ。いまとなっては風が吹き荒れ破れた帆をなんとか操って進んでいるのだから面白い。悲しむべきところを面白いと感じてしまう辺り、終わりが近いのだろう。そうでもしないと生きていることに意味を見いだせないほど生の淵に立っているのだ。
高いところにいると、自然と足を進めたくなる。自分の意志なのか今まで食い物にしてきた人間たちの重みなのか、吸い込まれるように端へと進んで下を見て、このままもう一歩踏み出したらどうなるかを頭の隅で考える。面倒なあの案件とも吐き気がするあの顔ともおさらばできる、なんて迂闊な楽への近道を何度作り上げたことだろう。
もしあの時、なぜ高いところが苦手なのか言及されていたら、間違いなくありのままのことを伝えたと思う。聞かれなくても教えてやればよかった。そうすればあいつは高いところに登るたび、俺を思い出してくれたかもしれなかった。こんな贅沢なことで悩めるなんて、ああ、俺はなんて幸せだったんだろう。
凝り固まった考えを溶かそうと口に含んだ水割りは、なんの味もしなかった。
温まった車内というのはどうしてこうも眠たくなるのだろう。冷え切った体の芯はそのままに、頬だけに熱が溜まっている。落ちそうになる瞼を持ち上げると、信号を見張っていたはずの瞳がこちらに向けられていた。
「眠たいなら寝ててもいいぞ。着いたら起こしてやるから」
鼻で笑うような色が混じった声は、こういうときの銀さんの常だ。色々な欲求に負けてしまいそうなのを堪えている俺に投げかけられる声。本当に眠ってしまっても問題はないし、着いたらきちんと起こしてくれるに違いない。でも、なんだか悔しい。見透かされ、言われた通りになってしまうなんて気に食わない。
「銀さんが寝るまで起きてますよ。家に着いて風呂に入って髪乾かしてビール飲んで歯磨きして枕の形整えて眠りにつくその瞬間まで起きてずっと見てます」
むっとしたまま一遍に言い通す。赤が青に変わり、車が滑らかに動き出した。
「ビールはお前も付き合えよ。あー、たこわさ食いてえな」
少し笑いを含ませて、顎に手をやる。髭が擦れる音がした。不機嫌になったフリは無視されたようだ。
「昔はわさびも辛子も食えなかったのになあ」
「へえ、意外」
「いやあ、歳とってから思うんだけどよ」
ハンドルから片手を離し、胸ポケットから取り出した煙草を咥えて火を点ける。外灯の少ない通りに入ったからか、小さな灯りがやけに大きく明るく感じる。
「きっとガキの頃は甘いとしょっぱいくらいで満足できるんだ。で、毎日そんなもんばっか食うだろ?そうすると飽きてくる。酸っぱいとか苦いに手を出しはじめて、それでもまた飽きが来る。舌か脳あたりが退屈になっちまって仕方ない。それで最後に残された辛いに手を出すんだ」
大きく息を吐いた口から逃げてきた煙。再び咥えられたそれも体が求めているから吸っているのだろうか。この稼業に手を出し始めたのも普通の人生や仕事に飽きてしまい、脳が危険で刺激的なことを求めるようになったからだったりするのだろうか。もしかすると俺とこういう仲になったのも、普通でないものを欲した結果なのかもしれない。眠たいときというのはどうしてこうも仕方のないことばかり考えてしまうのだろう。覚醒と睡眠の間には、恐ろしい魔物が潜んでいる。濃い霧の中に姿を隠し、惑わして深い谷底へと誘う姿のない魔物。
「まあ、辛いもんまでいったところで今度は甘いもんが欲しくなるから結局は一周してるだけなんだけどな。考え方がいちいち面倒くさくなっていけねえ」
はっはっは、となんでもなかったように笑い飛ばしてくれたのは、妙な事を語った事実を消すためか、俺の心の霧を見透かしてのことか分からないけれど、思考はあっという間に明るくなった。思えば先も見えず、鬱々とした毎日をただただ死なないように生きていたところからすくい上げてくれたのはこの人だ。病院で言われたように、世間から見れば暗い沼に連れ込まれたのかもしれないけれど、二人で淵を歩いている。ぬかるんだ地面に残した足跡は消えそうもないほどくっきり残る。今までのつまらない人生に比べれば、歩きにくかろうと足を取られようと楽しいものだ。最期の地が沼の底だったとしても、たった一人で沈んだとしても構わない。
「……俺、やっぱ銀さんのことすきです」
「そいつはどうも」
にっかり笑った運転手が家の方向とは違う方向にハンドルを切った。どうしたものかと思ったけれど、すぐに分かった。見慣れた看板が煌々と光っている駐車場。
「じゃ、行くか」
「材料売っているといいですね」
車外の空気は相変わらず冷たくて、篭っていた熱を全て奪い去る。もしこの時間までタコが残っていたら、作り方を調べておいしいたこわさを作ってあげたい。仕事がうまくいった夜と、おいしいものを食べた夜の寝顔はとびきり安らかで、それを見るのが秘密の楽しみなのだ。
緩みそうになる顔を引き締めて、スーパーへ一歩踏み出す。どうか自分の強運が、銀さんのために使われますように。