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夜の珈琲教室

分かり合えないんだと思う。

自分の身に悲しい事が起こった時、あぁ、あいつもこんな感情だったんだろうか、って思ったとする。
悲しむべき事が目の前からなくなったら、その感情はどの程度残るだろうか。


僕は、簡単に伝わるような事は所詮その程度のものだったんだと思う事もある。
大事なものは自分の中だけにあって、外からは見えないものなんじゃないか。そうだとするならば、自分以外の誰かにとっての大事なものとは何なんだろうか。

でもきっと、そんなものすら必要ない人が大半なんだろう。


悲しい時は共感が欲しくなる。自分と同じ様に苦しんでいる人が欲しくなる。

それで得られた共感は本当のものだろうか。お互いに欲しいのは共感だけだったとしたら、慰め合いの会話にどれだけの価値があったんだろうか。


後になって気づく事がある。
僕は断言するけど、大人になって、みんな大体同じ様な価値観を持つ様になる。
表面だけ綺麗で、本当には理想を信じない様な価値観。自分はみんなと同じ価値観を共有出来て、尚且つある程度特別な存在であるという根拠の無い自信。


僕はずっと言ってきたし、多分これからも言う。理解される事は最初から期待しないし誤解される事にももう慣れたと思う。


分かり合えないんだと思う。
分かり合えないんだとしたら、せめて僕は最後まで本当の事を求めたい。

マッハ力学史

読み終わった‐

長かった‐


読む以前と読んだ後で、僕の思考の方法に何らかの変化があったなら、それは嬉しい事です。

豚インフル

流行りすぎだ‐

助けて下さい

10月

10月も直に終わり、今年も木々の葉は僅かを残して散り始める。

地面に落ちた葉は、遠く木に残る葉の呼吸を見る。

完全に二分化され、呼吸をする葉は、やはり眼下に積もる圧倒的多数の葉を密かに見下すだろうか。

そしてやはり少数の葉は、既に落ちた葉に何かしら自分と類似なものを感じ、自分と同じ葉であると認識するだろうか。

いや、木に感情移入した時点でこれは既に意味の無い議論なのだ。

10月も終わり、秋風が吹いて虫達がその存在を声高に主張し始めたなら、人々は少しは温かくなるだろうか。

せめて、気付かれない程度だとしても。

タイトルなんてどうでも良い。

何かもう疲れた。

全部これからなのに。


文章にした瞬間に、疲れは僕の中に事実として現れました。
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