2013.9.29 Sun :未来
夏のご用心4
バタンと、一際大きな音を立て寝室であろう扉が閉まると、家の中にはしんと静寂が訪れた。
崩れ落ちるようにソファの背もたれに腕をおき、頭を落とした月森は…。
どうしたって、今しがた自分がしでかしてしまった行為を思い返せば、深い自己嫌悪の海から浮上できなかった。
(『バカ』、か…)
月森は大きく息を吐いた。
確かにそうだろう、何回そう言われようと反論の余地はない。
泣き顔の香穂子の声が、何度も何度も頭の中でこだまする。
「…最低だな、俺は」
うめくように低く呟き、月森はぎゅっと拳を握った。
香穂子の音楽に対する真っ直ぐな気持ちと姿勢、それは、間近で香穂子を見てきた月森が一番よく知っていることだった。
今も変わらない素直で伸びやかな演奏は、香穂子のたゆまぬ努力によって、以前よりずっと、瑞々しく豊かなものになっていた。
結婚をして環境も変わって、家庭においての役割も大きく違う立場となった今、
積極的に妻としてサポートする側に回ってくれた香穂子に、これまでと同じような練習時間の確保などできるはずもなくて。
それでも、それを当たり前のこととして、笑顔で取り組んでくれていた香穂子に、月森はふと聞いたことがあった。
『香穂子は今、しあわせか?』と。
結婚に至るまでの恋愛期間も、香穂子にごくふつうの、人並みの恋人同士の楽しみというものを、味わわせることができたかというと、自信は皆無だった。
いつも待たせるばかりで、結婚してからも、その状況はあまり変わらない。
むしろ家に入って、香穂子の自由が限られてしまったかのように、月森は感じていたのだ。
それなのに、香穂子の答えは──…
『もちろん!決まってるでしょう… 他のしあわせなんて考えられないよ』
即答だった。
眩しいくらいの笑みが月森の心の奥に差し込んで、温かな灯をともした。
そんな香穂子のことを理屈抜きに、心が何よりも愛しいと感じていた。
どんなときも守りたかったし、大切にしたかった。
だから、風邪を患った香穂子のことを今日も心配していたのだし。
でも…
愛しく想っているからこそ、突き動かされる衝動があることもまた事実で。
月森にとっては、まさに香穂子だけがそうさせる存在。
「香穂子のことが好きなのだから、仕方ないだろう… というのは、言い訳にしかならないか」
ふぅと、深く息を吐いた月森は、香穂子の消えていった方向を見た。
このままで良いわけがない。
当たって砕けるわけにもいかないが、時間が過ぎれば、それだけ誠実さを欠くことになるだろう。
そうして、月森は長い睫毛を一度伏せ、決意をこめた瞳を上げると、真っ直ぐに香穂子のもとへと向かったのだった。
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