扉を開くと、誰かがいる。ニート生活を数年もしている彼らには、たいていそれがまかり通っていた。今日もまた、きっと誰かがいるだろうと戸を開けた彼は、誰もいない空っぽの部屋を見て、小首を傾げた。珍しい。夕飯近くなのに、今日に限って誰もいない。母親は下で飯の用意をしていたし、……いや、人数分を用意していただろうか。彼は曖昧な記憶をなんとか紡ぐ。
気に入っているらしいジャケットを丁寧にしまい、ラフなパーカーに着替える。人一人帰ってくる気配はなかった。格好つけながらグラサンを外しても、誰も何も言わない。寂しさを覚えても無理はない。彼はため息をついて、定位置とばかりに窓枠に腰をかけた。
沈み始めている太陽は、空を橙に染めている。この季節だ、日は短い。小さな頃から、腹が空いたらさすがに帰ってくる彼と、その兄弟も、成人してからは、そうはいかなくなっていることくらい、わかっていた。夜遅くに帰ってきては、いそいそと夜食を作るくらいの技量を身につけているほどだ。けれど、なんの連絡もなしに遅れて来るだろうか。暗くなり始めた空の一番星を、睨みつけるように見つめてから、彼は足を組み直す。……どうも、落ち着かない。
階下から良い匂いがしてきた。ジャガイモが安売りされていたから、それを使った料理だろうか。コロッケ、肉じゃが、……ポテトサラダも悪くない、か。彼は母親の作る料理を思い浮かべながら、腹を鳴らす。そう思い始めたところで、母親から声がかかった。
「カラ松ー?いるんでしょう。」
彼、…カラ松は待ってましたとばかりに立ち上がり、階段を駆け下りる。と、同時に玄関が開いた。
「ただいまー、あれ?カラ松、」
「おお、おそ松か、ちょうどだな。たった今夕飯が、」
「いや、それがさぁ!今日パチンコ勝っちゃって、チョロ松と呑もうって、どうする?カラ松も行く?」
兄であるおそ松は、ニコニコしながら勝った、というらしい一万円札を揺らす。その後ろにはチョロ松が何やら言いたげな顔で二人を見つめていた。これには、少し渋る。勿論おごりなら行きたいが、母親がせっかく作った夕飯をみすみす逃すのは惜しい。
「いや、いい。マミーがもう夕飯を作ってくれているからな、」
「そう?じゃあ、シコ松呑みに行こうぜー。」
「シコ松じゃねぇよ!あ、カラ松ごめんな。一松と十四松ももう帰ってくるだろ、」
チョロ松があっけらかんとそんなことを言うので、カラ松はおもわず突っ込んでしまいそうになった。お前が気に入らなそうな顔をしたから、俺は。しかし、今更言ってもなにやら恥ずかしい。それにツッコミなんて、似合わない。
二人を見送ってから、カラ松は母親のいる台所に向かった。
「マミー、おそ松とチョロ松は呑みに行くそうだ。」
「困ったね、コロッケもう揚げちゃったよ。」
「フッ、心配しないでくれ、しっかり味わおう。」
母親である松代は、相変わらずなカラ松の素振りになにも言わず、コロッケを菜箸で半分にして、カラ松に味見するように促した。いつも通り美味しいコロッケに、舌鼓を打つ。
「夕飯が楽しみになるな。」
「そうねぇ。」
二人でそう言い合っていると、また玄関が開く。その主は、急いで階段を駆け上がったと思うと、二階の部屋の戸を閉めて、…シン、と静まり返った。
「トド、松?」
少しだけ香る香水は、確かに末弟トド松が最近購入したとはしゃいでいたものだった。カラ松は、急いで階段を見上げる。今にも一段、階段を登ろうとして、松代に肩を掴まれた。
「カラ松、……今の、トド松でしょう。」
「ただいまも言わないなんて、様子がおかしい。」
「あら、あの子案外何かあるとああやるわよ。」
「…え。」
カラ松がびっくりして松代を見返す。松代は困ったように肩を竦めて階段を見つめた。
「気に入らなかったり、上手くいかないと、誰にも話さないで、ああするの。カラ松は知らなかったのかい。」
「トド松は、俺がいると話してくれていた……、」
「母さんにも言えないこと、カラ松には話していたってことなのね。」
松代は腕を組んで、ゆっくり息を吐いた。
「ただいまっするマッスル!ハッスルハッスル!おっ!今日はコロッケでんがなー、やったな兄さん。」
「そうでんなー、ウスターソースかけて食べましょか、…あ、クソ松なにしてんの。」
松代とカラ松が階段前でうだうだやっているうちに、一松と十四松が帰ってきた。松代は、ハッとして二人を迎える。カラ松は未だ階上から目を離せずにいた。
行ってやらないと、聞いてやらないと。そんな気持ちと、松代に先ほど言われた「カラ松にだけは言えていた」が、背中を押す。
「おい。」
「……あれ?トド松帰ってるんだ。」
十四松の嗅覚は、トド松を探り当てた。しかし、階段を上ろうとする彼を、カラ松はそれとなく制する。その行動が不審に思った一松は、面倒臭そうにマスクを下げて、口を開いた。
「また、黙ってんの末っ子。」
「トド松しゃべんない期間なんだー。だったらダメだねー、カラ松兄さん、ご飯食べてから上行った方がいいっすよー。」
「……やっぱり、トド松はお前らにも言えてないのか。」
一松と十四松は互いに顔を見合わせる。
「やっぱり、って、なにが?」
「いいや、でも、……今は俺がトド松のそばにいる必要があるんだな。」
カラ松は、台所に引き返した。揚げたてのコロッケを少しのキャベツとともに二つ、皿に乗せる。それから、箸を二膳持つと、また階段下にで階上を見上げた。置いてけぼりをくらっていた二人は、カラ松の行動に目を白黒させたが、その後カラ松が持ってきたコロッケに、驚いて思わず声を出す。……勿体ねぇ。一松の呆れたような、驚いたような、その二つの混じり合った呟きも、カラ松には関係なかった。弟を、……いいやむしろ、相棒を、今救えるのは自分だけだと信じ、階段に足をかけた。
「トド松、」
「……ッ、」
ソファがあるのにもかかわらず、床に寝っ転がって桃色の毛布を被っていたトド松は、肩を震わす。それから、ゆっくり上体を起こし、困ったような顔をして、戸を開けたカラ松の方を振り向いた。
なるべく普段通り、平静を保ちながら、カラ松はトド松の隣に腰をかける。トド松は、そんないつも通りのカラ松に安心したのか、ふ、と表情を和らげた。
「……ころっけ、」
「今日の夕飯だ。食べれるか?」
「うん、」 そう言ったか、言わないかのような小さな声で、呟くように言ったトド松。どうやら、そこまで酷いのではないようだ。
トド松は度々こんな風なダメモードに入る。ドライモンスターと蔑まれても、人間誰しも欠陥があるのだろう。限界を越していまうことが起こると、こうなってしまう。しかも、時折限界を超える出来事が、ハンパないことがあるらしい。そういう時、誰にも言わず登山をする。危ないし、死んだらどうするんだとカラ松は冗談半分本気半分にいつも言っていたのだが、どうもそうなると周りが見えなくなるのか、……別に、ボク死にに行ってるところあるし。なんて馬鹿みたいなことを言うのだ。
けれど、トド松はしっかり家に帰ってきている。どんなに嫌なことがあっても、逃げられる機会があっても、変わらずに家に戻り、床に転がるのだ。それで、カラ松が声をかけてやると、ゆっくりメンタルを回復していき、一晩寝ればまたドライモンスターに早変わりだ。
「母さんの味だ。」
「それはそうだろう、マミーの手作りだからな。」
「……ぅ、」
「と、トド松、?」
トド松は突然カラ松のパーカーを掴んだ。普段は何度か背中を摩ってやり、話を聞くだけでなんとかなるのだが、そんなことをされたのは初めてだ。けれど、なにか拒絶できない。
「……昔みたいに、してくれない。」
昔みたいに、……鸚鵡返し。トド松は、ん、と言ってカラ松の胸板に顔を埋める。そうしてまたもう一度、カラ松は昔みたいに、と呟いた。
「心臓の音を聞くと、落ち着くんだって。」
「べー!そんなわけないだろ!」
「じゃあトド松やってみろよ!」
「おう!いいぜ、カラ松!絶対嘘だって証明してやるよ!」
そう言って、トド松は腕の中で寝てしまった。あの時に耳を必死に胸板につけて、規則正しい寝息を立てていたトド松の顔を、カラ松は、すっかり忘れていた。
心音は変わらないね。ボクたちは大人になっていくのに、心臓の音は、ずっと、ボクに心地いい。中学生の時、周りと馴染もうと必死になっていたトド松が、寝る位置をカラ松の隣にしたのは、そのせいでもあったらしい。しばらくして、心臓の音を聞くブームみたいなものは去ったのだが、そのために今の今まで忘れていたのだ。
とくん、とくんと、しきりになり続ける心臓の音は、六つ子よろしく皆一様なのか、それはわからない。けれど、トド松は甘えたように耳をつけて、カラ松の生きる音に耳を傾けていた。
本当は何があったのか聞いて、トド松を納得させて、階下で夕飯を、と思ったが。カラ松は口角を上げて、トド松の髪を撫ぜる。それから、左手でコロッケを少し切って、トド松の口元へ持っていく。トド松は、薄眼を開けて小さく口を開きそれを受け入れる。弱々しく咀嚼したかと思うと、眠たそうな眼でカラ松を見上げた。
「……ッ、」
トド松がキスをしてくれるのは、珍しい。コロッケとソースの味よりも、何か甘い味がして、思わず顔を染める。
「へへ、カラ松、鼓動早くなってる。」
「トド松、おまえ、」
いたずらが成功したようにコロコロ笑うトド松を見ては、怒るものを怒れない。トド松の肩を抱く力を強める。それから、カラ松からトド松に口づけを落とした。
「やっぱり、カラ松兄さんが一番だよ、」
「ふっ、その言葉、待っていたぜ。」
「格好つけてるところ悪いけど、心臓うるさいのでわかってるからね。」
ジト、とトド松に見つめられカラ松は目を泳がす。
トド松の理由なんて今更どうでもよかった。トド松自身ももう薄れている。胸板に頬ずりをして、トド松は思い出したように口を開いた。
「……ただいま、カラ松。」
そうして、カラ松も待っていたかのように口角を上げる。
「おかえり。」
トッティ、って言ったら怒るか?ううん。トド松の髪を撫でる。新しい香水は、……カラ松が昔デパートで好きだとつぶやいた香りだった。