飼ってる犬がいる。
もともとは野良…野良だったのかさえ定かじゃない。
よく見かけてはいたものの警戒心が強くて懐くとは思っていなかった。
────── が。
何をどう間違えたのか、アタシの膝の上で幸せそうに頬ずりなんぞしている。
9月も半ばが過ぎ涼しくなってきたとはいえ、ここまで密着されると正直暑苦しい。
頭に手を置き、押しのけようとすると何か言いたげな黒い目と視線がぶつかった。
「…」
『…』
なにか意思表示すればいいだろうに。
無言のまま、恨みがましい…というよりは今にも泣きだしそうな、といったほうがしっくりくる目でこちらを見上げてきて一瞬たりとも目をそらそうとしない。
こうなると沈黙に耐えられなくなるのはいつもアタシのほうで。
「…何?」
『…ダメ、ですか?』
泣き出しそうな目、震える声。そんな風でも視線だけは離そうとしない。
コイツは拒絶されることに敏感過ぎるところがあるのか、少しでも離れようとするとこんな感じになる。
別に何も捨てようってわけじゃないんだから、そんなに怯えた声出さなくてもいいだろうと毎回思うんだけれど…
「暑い、アンタ体温高すぎ」
『う…。ク、クーラーつけま…』
「電気代。ここアタシん家」
『じゃ、じゃあ、僕払いま…』
「学生の分際で何言ってんの?」
『バ、バイトくらいしてます!』
「学費、生活費全額払ってから言いなさい、そんなの」
『うぅ…』
次の言葉が見つからなくなってしまったのか、眉根を寄せるコイツ。
それでも頭に置いた手に少し力を入れると、離れまいと抵抗してアタシの太腿に縋り付く。
徐々に力を込めると向こうも同じくらい抵抗して必死だ。
その姿は傍から見なくても変態臭い。
───というか、コイツはガチで変態なんだけれど。
アタシが拾う前から、飼い慣らしてくださいとか言い出すヤツだったし。
だから犬扱いなんだけど。こんなやつが偏差値最高クラスの学府の学生とか世も末だ。
そのあたりの話はまた今度にしておいて、今はこれをはがすのが先だ。
「ほら。わかったら離れた離れた。」
『…』
そう言ってしっしっ、と追い払うように手を振るとおとなしく離れて目の前に立つ。
もともと間接照明のみで薄暗くしてあるのと壁用のライトで逆光になってて表情までは見えないけれど、雰囲気からは『ものすごく不満。』というのが感じ取れたがあえて何もいわずに手でぱたぱたと自分を煽ぐ。
無駄に労力を使ったせいで余計に暑くなってしまったからそんなことで涼を感じることはできず、結局クーラーをつけようとソファの前のテーブルに置いてあるリモコンに手を伸ばそうとするとその手首を掴まれ、視界が反転する。
気づけば手首を掴まれたままソファの背もたれに押し付けられるようにして、コイツが覆いかぶさるような態勢になっていて。
事態についていけずくらくらする頭を何とか働かせようとしていると頭上から声が降ってくる。
『おねーちゃん』
いつもと違う低い甘い響きで、いつものようにそう呼んで
アタシが何か言う前に耳元に唇を寄せる。
『おねーちゃん、甘いにおい、汗のにおいするね』
すんすんと鼻を鳴らして近寄って首筋にぬるりと舌の這う感触。
なんとか声を上げるのを堪えるけれど呼吸が乱れるのは止めることができず、舌が首筋から耳に移動して形をなぞり始めると動きに合わせて体がびくりと震えてしまう。
『声、我慢してる?』
そう言って、強めに耳朶に噛みつかれ悲鳴に近い声が一瞬だけ漏れれば満足そうに口の端を上げるのが空気を通して感じられる。
掴んだままだった手首をようやく解放してぎゅうっと抱きついてくる。
『あはは、よーやくその声聞けた。やっぱりかわいー』
「暑いって言ったの、理解してないの? 馬鹿なの?」
あんまりにも嬉しそうに言われると怒鳴る気も失せるんだけれど、なんだか負けた気がして悔しい上にそんな風に言われると恥ずかしいやらくすぐったいやらで憎まれ口を叩くしかできない。
「アンタ、人の話、聞く気あんの?」
『その顔で言われてもかわいーだけだよ?』
声のトーン落としてたしなめたところでこのバカ犬は聞いちゃいない。
それどころか逃げられないように頭を固定して至近距離で人の顔を覗き込みながらしゃあしゃあとそんなことをいう。
あげく、唇まで奪って舌を捻じ込んで口内を好きなだけ蹂躙する。
遠慮とかそんなもの皆無なせいでぐぢゅだとかぴちゃだとか下品極まりない水音が部屋に響くけれどちっともやめようとしない。
息もまともに継がせてもらえず水音の合間にアタシの苦しそうな声が混じり始めると、あやすようにろくに櫛も入れてない髪に指を通して撫でていく。
くやしいけど、きもちいい。
コイツのシャツに縋るようにつかまってされるがままになっていると不意に唇が離れ、アタシの唇から間抜けな音と空気が漏れると苦笑いとも取れる笑みを貼り付けたバカ犬がこっちを見ながら自分の頭を片手でぐしゃぐしゃしながらなんか呟いてた。
『あーもー…』
「…な、に? とっととはなれなさい、よ」
体が妙に熱いのは、体温高いコイツがくっついてたせい。
いまだ息が上がるせいでうまく声が出せないのはコイツのせい。
まったくロクなことしやしないんだから、このバカ犬。
『おねーちゃん、かわいすぎ』
「…は?」
…なにいきなり言い出すんだ、このバカ犬は。
『この手、放してくれないと、離れられられないよ?』
「…?!」
言われて、初めて気づいた。シャツ掴んだまま…しかもかなりきつく。
慌てて手を放すけれど掌の感覚がなかなか戻らない。どれだけ長い間されるままになってたんだろう。
こんなんじゃ、アタシが続きしてほしいみたいじゃない。
再度きつく抱きしめてくるバカ犬の胸板を押し返すようにしてもびくともしない。
むしろさっきより密着して抱き潰されるかと思うくらい。
正直、死ぬ。圧死するから。
「は、はなしたんだから、はなれなさい!!」
『あははっ♪ むりむりー♪』
「圧死するからっ」
『こんなんじゃ死なないよー♪』
鼻歌でも歌いそうなほどご機嫌になりながら耳や首にキスしてくる。
いいかげん暴れてやろうと思った瞬間強くかまれてさっきからひりひりしてる耳朶を甘噛みされて明らかな嬌声を上げてしまう。
はずみとはいえどこんなふうに好き勝手されている状況で喘いだことが恥ずかしくて両手でとっさに口をふさげば、押し殺した笑いと共に優しく抱きしめられる。恥ずかしくて悔しくて、睨みつけようとすると優しい真っ黒い目と視線がぶつかって何も言えなくなる。
しばらくそのまま沈黙していればバカ犬がへらっと顔を崩して口を開いた。
『あーでもこれ、僕が死んじゃうかなー?』
「どーみても死にそーなのはアタシなんだけど?!」
反射で言い返せばあははっとホントにおかしそうに笑って。
『あーもー。ほんっとおねーちゃん可愛すぎw 可愛すぎて死ぬwww』
「はぁ?!」
『声、いっぱい聞かせてね♪』
「〜〜っ!」
ゆでダコみたいに赤くなって二の句が継げなくなったアタシがこのバカ犬においしく食べられたのは言うまでもないのだけれど。
それはまた別の話ってことで。