【だけど、バイバイ。】
いつかその日が訪れると、たしかに知っていた。
まだ涼しい風の吹く夏の早朝。
さらさらと音をたてて揺れる葉を見上げながらそっと体を起こすと、洗い立ての真っ白なシーツがくしゃりと歪んだ。
心地好い爽やかな朝陽が差し込む窓を開け放ち、ラクウェルは一人物思いに耽る。
想像を絶する数々の困難や不幸に出逢ったと、我ながら自負出来る。
懐かしむにはまだ早すぎる三人の仲間達との長くて短い旅を終え、今自分は再び旅をしている。
今度は一人ではなく、かつて仲間であり、今ではかけがえのない想い人となった青年−アルノーと共に。
自分がここまで欲深い人間だとはほとほと知らなかった。
忌まわしいあの悪夢、しかし身体を蝕む傷跡が確かに現実だと告げるあの事件以来、自分は女としての幸せを捨てた。
身体全体に及ぶ重度の火傷跡や何度も何度も切り裂かれた手術の痕。
治る見込みがないとわかっていてなお、唯一の生き残りとして、検査の対象として、幼い身体を切り刻まれた。
加えて身体の内部から蝕む見えない戦争の後遺症。
自分の命がもう幾許もないことなど、自分が一番理解していた。
それなのに。
今の自分はどうだろうか。
隣に立って優しく微笑みかけてくれる想い人、アルノーに愛されたい。
もっと一分一秒でも長く、彼と同じ世界を生きたい。
それは抱いてはならなかった、決して叶わぬ願い。
アルノーとの旅の目的は、ラクウェルの治療法を探す旅だった。
あるとも知れない、いや無いに等しいものを探す旅。
だが彼は決して諦めなかった。
自分の我が儘で、景色の良い道や綺麗な町並みで有名な街を優先して訪れるようにしている。
つい先日の旅でも思ったが、世界は荒廃しているように見えて、其の実意外にも自然が残っている場所は多かった。
新緑の若葉を小高い丘から見下ろし絵筆を取る。
アルノーはその隣でこちらをちらりと見遣り腰を下ろす。
一分一秒でも、長く。
ただそれだけの願いのために今日も世界中の綺麗なものを見て回りたいという願いを叶えつつ治療法探しの旅は続いた。
美しい植物に囲まれ、鳥の囀りに耳を澄ます。
身体全体で自然を感じながら、そっと瞳を閉じた。
ふと目を開くと、まだ涼しい風の吹く夏の早朝。
さらさらと音をたてて揺れる葉であろうものを見上げながら、階段を上ってくる心地好いリズムに耳を澄ませる。
隣には暖かく愛おしい温もり。
とても懐かしい夢を見た。
かつての仲間に別れを告げ二人旅を始めてから2年、結局治療法が見つかることはなかったが、私は今世界中の誰より幸せだと思う。
陳腐なセリフだが、今の自分を表すにふさわしい言葉だ。
身体を蝕む病の進行は奇跡のように止まってくれるなどということはなく、始めは身体の先端から、そして視力、聴力を奪い徐々に死へと近付いていった。
それでもこの街の澄んだ空気と清らかな自然が私の命を長らえさせてくれた。
溢れる自然と医療施設、そして何よりも街の住人の優しさからこの地に留まることを決めた夜、ここで二人は永遠を誓った。
そして小さな木造二階建ての一軒家で愛する人とその子供まで授かり、家族3人で暮らすこととなった昨夜。
溢れる涙が止まらなかった。
私は愛しい家族を遺して一人果てるのだ。
大人になれぬと告げられたこの身は成人を果たし、愛する人と結ばれ、子を成すまで耐えた。
医者からは出産はもたないと言われていたのだからこれは奇跡なのだろう。
隣に眠る愛しい我が子の顔が霞んで見えるのは病のせいか涙のせいか。
私にはもうあの日窓から見た若葉も朝陽も見ることはできない。
頭の中に白いもやがかかったように、世界が霞んで見える。
ついにこの日が来たのだと、確信した。
ただ彼と子を置いて一人逝くのが、とてつもなく惜しく感じた。
カチャリ、と扉の開く音が聞こえた気がした。
「おはよう。身体は大丈夫か?」
耳元で聞こえる愛しい彼の声。
だが何を言っているのかまではわからない。
ちらりと目だけやれば白くぼやけた雲の遥か向こうに幼い赤子と彼の姿。
「辛いなら無理しなくていいからな。……ラクウェル…?」
もうこの耳は音を拾わない。
視界の全てが光に包まれて、うっすらと輪郭が浮かぶ。
死とはこういうものなのか。
ずっと、人間は暗闇に包まれながら一人ぼっちで死んでいくのだと思っていた。
だが今私の胸にあるのは平穏と安らぎ、そして隣にいてくれる家族への愛。
光に向かって手を伸ばすと指先に何かが触れた感覚。
―やわらかな彼の髪。
そっと手を引くと、また何かに触れた。
―愛しい我が子の頬。
見えなくとも何であるか理解できた。
それがとても幸せなことのように思え、同時に言葉に出来ない感情が込み上げた。
出来ることならばずっと傍にいたかった。
可愛い愛娘の成長を見守って、抱きしめて、たくさんの愛情を注ぎたかった。
生まれて生きて一日も経たない我が子。
いつか「ママに会いたい」などと言う日がくるのだろうか。
だけど…さよならだ。
―どうか、貴方と愛しい娘を置いて逝く私を、許してほしい。
「
ラクウェル」
名前を呼ばれた、気がした。
真っ白な雲に飲み込まれそうになる頭と視界の中、私は世界で一番美しい光を見た。
薄れゆく意識の中、そっと口を開く。
風に乗せて紡ぐ音は、私がこの世に生きた証。
「
私は…世界で一番美しいものを見つけた…。」